宮崎広和
ノースウェスタン大学教授

概要

 近年、「希望」という概念をめぐって学際的な研究が活発化している。日本では2000年頃から、希望が社会的な問題として語られるようになり、「希望学」の研究では、経済的な格差だけでなく「希望の格差」に注目されるようになった。努力すれば報われるという従来の希望が失われつつある現実によって、かえって未来を奪う要因になっていることを指摘した。
 2010年代のアベノミクスは、経済回復への「期待」を通じて人々の希望を再生しようとした試みであったが、成果が実感されず、トップダウン型の希望創出の限界が明らかになった。希望を政策として掲げることは歴史的に繰り返されてきたが、そこには常に危うさが伴う。特定のナラティブとして希望を提示すれば、多様な希望が排除され、すべての人を包摂することは困難になる。希望を持ち続けるためには、社会の中で柔軟な選択肢が確保され、異なる立場の人々が交差する「間」の空間が求められる。
 希望は、未来への楽観ではなく、不安や失敗を含みながらも生きる力を与える両義的な概念である。本章では、希望を単なる経済成長の象徴ではなく、多様な価値観を支え、人々が現実と向き合いながら新たな可能性を見出すための概念として捉え直す。そのうえで、希望を一方向的に政策化するのではなく、人々が自らの希望を考え、語り合い、共存できる「間」を社会の中に確保することの重要性を提起する。

山のあなたに「幸」は住むのか?―日本と世界のウェルビーイング比較―
第1章 日本人は「不幸せ」なのか―国際指標を読み解く― 谷口 将紀・宇田川 淑恵 著
第2章 スウェーデン―すべての人のwell-beingを目指す包摂型社会―  高橋 美恵子 著
・第4章 希望の経済―「幸せの国」における希望―
第5章 日本人は「幸せ」なのか―「みんなのほんとうのさいわい」とは― 水島 治郎 著

INDEX

1.近年の希望をめぐる議論

経済人類学・経済社会学における希望の位置付け

 アカデミアにおいて「希望」は近年、主要な研究テーマの1つとして注目を集めている。特に英語圏では、「希望」を学問的に探究する動きが活発化し、心理学・哲学・人類学・政治経済学など多分野にわたる研究が展開されてきた。この20年間で希望に関する数多くの査読論文が発表されている。

 日本では、2000年頃から希望は社会的な問題として理解され、議論の対象となってきた。希望は、しばしば幸福と混同され、特に経済学では両者が同一視される傾向がある。これは、金融市場の熱狂的な投機に見られるように、希望や幸福が、経済生活における非合理性の役割をもっていると捉えられているためである。他方、経済人類学や経済社会学では、非合理性の役割といった観点ではなく、資源や機会の希少性、不公平な分配やそれによる支配などを希望の問題として再定義し、考察することが最初の位置づけであった。

 希望の在り方は、各国の社会体制によって大きく異なる。例えば、社会主義経済の状況下では、希望はあまり語られることがないと言われている。家族内での希望や宗教的な希望は存在していたが、社会的な希望という観点では、社会主義体制の中で抑制されていた可能性がある。しかし、社会主義国家が崩壊する中で、ポスト社会主義(ポストユートピア)経済において希望という概念が、より鮮明な形で社会的なものとして発現したとされる(Verdery 1995)。また、人間開発政策に関する研究者が対象とする地域では、希望を持たせる、希望を持つということ自体が政策の中で重要であると考えられている(Appadurai 2004)。さらに、近年の新自由主義的な改革の取組では、政府の機能が縮小し社会的ケアが削減される中で、希望が不平等に分配されつつあるという議論もある(Hage 2003)。特に、社会的・経済的な上昇の機会や、移民としての自由な移動が制限される場合は、希望の分布に影響を与える(Narotzky and Besnier 2014)。例えば、移民にとって希望は移動の可能性と直結するが、移民政策の厳格化によってその希望は制限される。

 また、社会の未来に対するビジョンは多様であるにもかかわらず、国家が希望を語る際、それはしばしば国民全体に共通するビジョンとして提示される。しかし、実際には国家レベルの希望と人々の日常的な希望とは、必ずしも合致しない。例えば、アメリカをより偉大にする、あるいは、経済が成長・拡大していくといった国家レベルの希望のほかに、より人々の日常に根ざした個人的で具体的な希望が存在する。こうしたギャップがある中で、希望という言葉が政治的なレトリックとして利用されることで、より大切であるにもかかわらず隠されてしまう人々の日常的な希望について指摘されている。近年ではセクシュアルマイノリティーなどの研究分野でも希望という観点が用いられるようになり、希望に関する研究が活発化している。こうした前提を踏まえ、次に日本の状況を振り返りたい。

日本における「希望の喪失」をめぐる議論

 日本において、「希望」は2000年頃から主要なテーマとして、社会的に議論が始まり、社会的な問題としても理解されてきた。例えば、1998年から2000年に連載され、2002年に文庫本として出版された村上龍の小説『希望の国のエクソダス』は大きな話題となり、多くの人の関心を集めた。村上は2000年代以降、希望に関する発言をメディア等で継続的に行い、複数の関連プロジェクトを立ち上げてきたが、当初は希望の価値を一義的に肯定するのではなく、日本が「希望の国」としての機能を失いつつある現実に照らしながら、「そもそも希望とは何か」「集団的な希望は必要なのか」といった根源的な問いを提起する姿勢を示していた(Miyazaki 2010)。しかし、東日本大震災直後、ニューヨーク・タイムズ紙に寄稿した文章においては、「希望を必要とする状況となり、希望の芽がまかれた」(Murakami 2011)として、希望の重要性を肯定的かつ確定的に位置づける発言を行った。初期の「希望とは何か」という問題提起を促していた頃と比べ、近年は村上の考え方に一定の変化が見られる(Miyazaki 2017)。

 希望に関する日本の学術的な動きとしては、社会学者の山田昌弘氏や東京大学社会科学研究所での希望学研究が挙げられる。これは海外の議論と同様に希望という切り口で格差を捉えることで、富の格差ではなく、希望の格差あるいは差異に着目することを提唱した。その後、玄田有史氏の研究グループが「希望学」において、従来、希望とは、「努力すれば上手くいく、何とか生きていける」という一般的な期待という意味合いを前提にしていたことを提示した。そして、玄田氏は、日本の高度成長期には当然視されていた「努力が充実した人生につながる」という「希望」が、現代では誰もが手にできるものではなくなり、むしろ未来を奪う要因となっていることを指摘した。希望に固執すること自体が人々から未来を奪っているという前提に差し替えて、玄田氏は希望学での議論を展開し、著書『希望の作り方』では、個人的なレベルでの希望を持つために具体的かつ実践的なヒントや技法を考える方向へと進む。

 こうした中で、2012年に現れたアベノミクスという経済政策は、希望の国としての日本の復活を試みるプロジェクトだったのではないかと考える。

希望と社会の多様性との関係

 希望は個人の内面における多様性だけでなく、社会全体の多様性とも深く結びついている。例えば、社会の中でどのような制度や仕組みが、個人の持つ多様な希望とどのように対応しうるのかが重要な問いとなる。玄田は「遊び」という概念を用いて、社会における「間」の重要性を指摘している。それは、失敗を許容し、過度な成果主義に陥らない余白が必要であり、そうした空間があることで希望は持続可能なものとなることを示唆する。

 結果志向が高まる今の社会では、成功と失敗が明確に区別される風潮があり、学問の世界でも、例えば査読論文の掲載が過度に重視されたり、成果が見えにくい研究は評価されにくい状況になっている。このような環境では、多様な希望が必然的に持続しにくくなる。しかし、無駄と思われるような試みや、成果が即座に現れない取り組みも、希望の多様性を支える重要な要素となりうる。

 さらに、希望の持ち方は年齢や社会的背景によっても異なる。村上龍が希望を若者の問題として重視したように、かつては既得権益を維持する中高年層に対して、機会を得られない若年層が希望を持ちにくい状況を問題視されていた。しかし、高齢化が進む現代においては、高齢者の希望の在り方も深刻な課題となってきている。希望は世代やジェンダーの違いによっても多様であり、それぞれの立場から希望を考える場が必要とされている。

 このように、希望の在り方は個人の内面と社会の仕組みの両面から考察することが重要となる。希望を持ち続けるためには、社会の中で柔軟な選択肢が確保され、異なる立場の人々が交差する「間」の空間が維持されることが求められる。この視点を踏まえた社会デザインが、今後の希望の在り方を決定する上で重要な役割を果たすだろう。

アベノミクス(2012年)

 第2次安倍晋三政権下(2012年~2020年)で推進されたアベノミクスは、大胆な金融緩和、機動的な財政政策、成長戦略の3本の矢を柱としていた。その中でも特に、日本銀行の「量的・質的金融緩和」は、インフレ期待を高めることを目的として実施された。この政策の背景には、デフレスパイラルからの脱却(物価上昇への期待)を通じて経済成長を促進し、人々の未来への希望を取り戻す狙いがあった。

 しかし、アベノミクスにおいて「希望」という言葉は直接使用されず、「日本を取り戻す」というキャッチフレーズが掲げられた。このフレーズは、より強い日本への回帰を象徴しており、国民の間に希望的な未来を描かせる意図が含まれていたと考えられる。

 アベノミクスの本質的な側面の1つは、金融緩和政策に対して、期待という言葉を中心に据えたことである。物価上昇や経済成長への期待を高めることで、投資や消費を促進し、経済全体を活性化させようとする戦略だった。さらに、安倍首相自身の強いリーダーシップに対する期待も含め、政治と経済の両面において希望を抱かせるアプローチが採られた。

 しかし、実際には、2%の物価上昇目標は達成されず、金融緩和の効果も限定的であったことに加え、アベノミクスの効果が十分に実感できなかったため、人々の間で幻滅や失望が広がった。これは、トップダウンによる希望創出の限界を示唆している。

 希望には、ポジティブな面だけでなく、競合する価値観や利害関係を統合しきれないという二面性がある。アベノミクスは、経済成長と拡大を目標とし、国全体を1つの希望の復活という方向へ導こうとしたが、日本社会の多様性が顕在化する中で、それが適切なアプローチだったのかは議論の余地があるだろう。

 特に、東日本大震災後の日本社会は、福島の原子力発電事故による放射線リスクへの不安や社会の分断といった課題を抱えていた。このような状況下で、未来志向の政策を掲げること自体は意義があったが、結果的に希望の持ち方が一方向的になり、多様な価値観や現実との対話が不十分だったといえる。

 アベノミクスの成否に関する議論は、「アベノミクス推進派vs.批判派」という単純な対立構造に陥り、「希望とは何か」という根本的な問いに向き合う機会を失ってしまった。日本社会が直面する人口減少、経済の縮小、社会の分断といった課題の中で、希望をいかに政策に組み込むかが問われるべきだったはずだ。

 この20年間、日本のリーダーたちは明示的または潜在的に希望の重要性を認識し、政策に反映させてきた。しかし、アベノミクスが象徴した希望の創出が、十分に持続可能で多様な社会に適応した形であったのかを改めて考える必要がある。

 このようにアベノミクスは、希望を政策の軸として活用し、経済を活性化しようとした試みであったが、その実現には課題が多く、期待と現実のギャップが生じた。希望の創出がトップダウンで行われたことにより、社会の多様性や不確実性との対話が不足し、一部の層にとっては幻滅や失望の要因となったと考えられる。また、アベノミクスのキーワードであった期待に関連してより厳密に言えば、希望と期待は密接に関連しているものの、その概念には重要な違いがある。期待は比較的明確な結果を前提としており、ある程度の確実性を伴う。一方で、希望は不確実性や不安、恐怖といった要素を含みながらも、それでもあらゆる方向で可能性を見出そうとするものである。期待は「裏切られること」を前提としていないが、希望は成就しないことが前提にあり、落胆を見据えている、とも言える。

 このように希望を政策として掲げることは歴史的に繰り返されてきたが、そこには常に危うさが伴う。特定のナラティブとして希望を提示することで、その多様性が排除されるため、すべての人の希望を包括することは不可能となる。ゆえに、希望を一元的に政策に組み込むのではなく、「希望とは何か」を市民が思索する場や空間を社会的に担保することが重要である。そのうえで、希望の内容や意味を一方的に定義するのではなく、人々に「希望とは何か」を問い直す契機を与えること自体が、政治のあるべき役割のひとつであると考えられる。今後、日本が持続可能な成長と社会の安定を実現するためには、希望の在り方を再考し、より包括的で対話的な形で政策に組み込む必要がある。経済成長のみを目的とした希望ではなく、多様な価値観を包摂し、個々の希望を尊重する社会を構築することが重要となるだろう。

2.希望とは何か-「希望」概念に内包された概念経済

相反、競合する要素を抱合

 2000年に村上龍が『希望のエクソダス』で提起した「希望とは何かを考える」という提案は、日本社会にとって極めて重要な問いであった。この提案を受けて、希望という概念が持つ経済的な側面、すなわち「希望の経済」の視点から希望を考察することは意義があるだろう。

 希望とは、単なる楽観的な未来志向ではなく、相反し、競合する要素を内包した複雑な概念である。スピノザ(1670)は、希望が恐怖や失望、不確実性と表裏一体であることを指摘し、希望の本質的な両価性を示唆した。また、希望には能動的な側面と受動的な側面が共存する。人が何かを望むとき、それを実現するために行動する能動性を持つ一方で、他者や社会の状況に左右される受動的な要素もある。そのため、希望を持ち続けるためには、時として、忍耐強く待ったり(Crapanzano 2003)、他者や超越的存在に目的の成就を任せたりすることが必要となる(Miyazaki 2004)。

 さらに、希望は必ずしも意図された肯定的な結果をもたらすとは限らず、特定の目的を持つ希望が予期せぬ社会的影響をもたらす可能性もある。また、希望は単に未来志向のものではなく、過去の回顧的な側面を持つことも指摘されており(Bloch 1959; Benjamin 1973)、二重の時間性が希望の多様性を形成する。過去の成功体験や幼少期の記憶が希望の源泉となりうるため、アベノミクスの「日本を取り戻す」というスローガンにも、そのような回顧的な希望が含まれていたと考えることもできるだろう。

 一方で、希望は過度に執着されることで残酷さを生むこともあり(Berlant 2011)、その内在する緊張が倫理的熟考(識別)を要請する。例えば、アメリカでは「社会的に成功しなければならない」という目標が過度な執着となり、経済的・社会的な上昇を目指すことが個人にとって重圧となる。これは、日本の高度経済成長期にも見られた現象であり、その恩恵を受けた者と受けなかった者との間に生じた不平等が、希望の持つ残酷さを浮き彫りにしている。相反する要素を内包する希望の概念は、こうした複雑な構造がもたらす内的緊張を意識化させ、「希望とどのように関わるべきか」「そのような希望が望ましいのか」など、希望そのものの再検討や倫理的な識別作業を促す。識別の過程において、個人は自己、他者、社会との関係性のなかで交渉や調整を行い、いわば「中間領域」において希望を形づくっていく。このような中間性において希望は、実践的な美徳(virtue)として再定位される。

中間領域としての希望

 希望を「中庸(Mittleman 2009)」あるいは「間にあるもの(Wiegman 2000)」として捉える視点は、哲学的・神学的伝統にも広く見られる。哲学者たちは長年、希望を中庸の概念として捉え、そのバランスの重要性を強調してきた。キリスト教神学でも、希望は「信」と「愛」の間に位置し、それ自体が信仰や愛を支える役割を果たすとされ、粘り強さや忍耐強さ(Badiou 2003)を伴う美徳とされる(Mittleman 2009)。個人と社会、過去と未来、理想と現実の間に位置する中間的な概念として希望が機能するという視点は、希望を単なる目的ではなく、方向転換や再調整の可能性として捉える視点と一致し(Miyazaki 2004, 2006, 2017)、希望の概念に多様性をもたらす。シカゴ大学の哲学者Jonathan Lear(2006)は、社会を全面的に変える、あるいはこれまで蓄積されたものを全て捨て去ることが希望になるという「ラディカルな希望(radical hope)」の概念を提唱した。これは、希望がある限り、人は固定化した価値観やイデオロギーに囚われず、柔軟に未来を構築できることを示唆している。一方で、大きな変化が期待できないような状況の中で目前の命を救うために働く「国境なき医師団」の医師たちを研究した人類学者のPeter Redfield(2013)は「最低限の希望(residual hope)」という概念を提示した。希望の経済とは、こうした倫理的な視点が含まれるものであり、経済とその論理を倫理の領域へと再着地させる可能性を示すものとなる。

希望の政治経済と概念経済の統合

 ここで問うべきは、「希望の経済」とは何か、そして希望という概念に内在する経済性とは何か、ということである。先に述べたように、希望は、能動性と受動性、未来志向と回顧志向、成功と失敗の狭間に存在し、この複雑な特性を踏まえて社会の持続的な発展に寄与するための政策や哲学的アプローチを模索することが必要である。すなわち、希望の経済は、単なる経済成長の指標ではなく、関係性や状況判断を基盤とする柔軟性と、倫理的な識別を兼ね備えたものである。この枠組みによって、経済生活はより再帰的かつ弾力的なものとなり、過剰な執着やイデオロギー的な硬直性を抑制する美徳としての役割を果たす。希望の本質を問うことは、「経済や社会において希望が何をもたらすか」という問いと切り離すことはできない。

 希望を単なる市場の成長指標や経済現象に適用するだけでは、その本質を十分に捉えることはできない(Miyazaki 2004, 2017)。むしろ、希望の政治経済と概念的な分析を統合することで、経済を意図とその(しばしば意図せざる)結果の関係性に基づいた識別の対象とすることが可能となる(Hirschman 1977)。

 希望の経済を考えることは、単に経済が希望によってどのように成り立つかを分析するだけではなく、希望という概念に内在する経済的な側面や、それが多様な要素や状況との間でどのように交渉されるかを考察する試みでもある。この視点に立つことで、経済理論を従来の市場原理や成長志向のみに依拠するものではなく、倫理や識別の領域と接続する可能性を持つものとして捉え直すことができる。

 経済における希望の役割を考える上で、極限状態における希望の在り方は、示唆に富む。例えば、紛争地域や災害現場で活動する「国境なき医師団」に関する研究(Readfield 2013)によれば、彼らの希望は非常に限定的であり、「この場だけ、この傷を癒す」という最低限なものである。患者の苦しみの根本的な社会的・経済的要因を考える余裕はなく、その場限りの治療という希望に焦点を当てることで、精神的な負担を最小限に抑え、過酷な状況でも使命を果たすことができる。

 このような極限状態における希望の在り方は、希望の経済が単なる楽観主義ではなく、状況に応じた柔軟な対応を可能にするものであることを示している。希望を特定の経済政策や指標として捉えるのではなく、経済の中で希望が果たし得る多様な役割を考え、それがどのように変化し得るのかを模索していく。その中で、希望の概念自体を考慮することで、常に再調整や方向転換の可能性を担保しながら政策等を進めていく必要があるだろう。

多様な意見を共存させる希望

 近年、特にアメリカにおいて政治の両極化が進み、社会の分断が深刻化している。異なる政治的立場にある人々が接する情報源は大きく乖離しており、その結果として相互批判が先行し、建設的な対話や議論の成立が困難な状況に陥っている。メディア環境もこうした分断を助長しており、共通の言語や理解の基盤が失われる中で、政治のみならず社会全体が短絡的かつ反射的な応答に終始する傾向が強まっている。

 こうした状況の中で希望を持ち続けるためには、白黒をはっきりさせるのではなく、中間的な立場で粘り強く生きることが求められる。希望とは、失敗や困難を乗り越えながら、長期的な視点で社会と関わり続ける力でもある。現在の両極化した社会の中で、単なる賛否の対立ではなく、対話と共存の可能性を探るアプローチが必要となる。

 日本においては、アメリカほどの両極化は進んでいないものの、社会の中に多様な意見が存在することは確かである。そのため、政治や社会の分断を回避しながら、異なる立場の人々が共存できる「間」の確保が重要となる。過度な対立を避け、幅広い視点を持つことが、希望の維持には不可欠であろう。

 また、組織の在り方にも希望の行方は影響を受ける。アメリカでは、クリエイティビティや革新を奨励する文化が根強くある一方で、現在の分断の中で自由な発言や創造性が制限されつつある。例えば、学問の場でも政治的な発言がしにくくなっており、大学のような知の場ですら内向きになりつつある。このような状況において、多様な希望を支える仕組みをどのように再構築するかが、今後の大きな課題となる。

3.幸せの国における希望の在処

 希望とは何か。その問いを抜きにして、経済や社会、あるいは関連する政策において希望を語ることは、不毛な結論を導きかねない。希望は、相反する力の狭間の間に存在する。そして、どんな状況にあったとしても、生きる喜びは、まさにこうした間における出会いやつながりを通して見出すことができるものである。それが「幸せの国」の姿であり、その中心にあるのが希望ではないだろうか。

 「幸せの国」における希望とは、単なる目標設定ではなく、人々が現実の困難と向き合いながらも、関係性を築き、未来を柔軟に創造する力として捉えられるべきである。このように、希望の政治経済的な役割と概念的な問題を併せて考えることで、学問的にも政策的にも、希望をより適切に位置づけることが可能となる。

 本稿は以下の小論で展開した議論を発展させたものである。
 Miyazaki, Hirokazu. (2025) “The Economy of Hope.” In Elgar Encyclopedia of Economic Anthropology. Cristina Grasseni, Erik Bähre, Douglas R. Holmes, and Coco Kanters, (Eds.) Edward Elgar Publishing.

参考文献

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引用を行う際には、以下を参考に出典の明記をお願いいたします。
(出典)宮崎広和(2025)「山のあなたに「幸」は住むのか?第4章 希望の経済―「幸せの国」における希望―」研究報告書


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