水島治郎
千葉大学大学院社会科学研究院教授/NIRA総合研究開発機構上席研究員

概要

 「全ての人々の幸せ」、そして「多様な国民の幸せ」の実現が政府の目標として明示される一方で、日本社会において幸福をいかに測定・実現するかという課題がある。国際比較調査によれば、日本の人生満足度は先進国の中で低く、2025年の世界幸福度報告書でも日本は55位にとどまった。他方、コスタリカやメキシコのように経済水準が低くても幸福度が高い国が存在することは、幸福の定義や指標の妥当性に疑問を投げかける。また、「人並みの幸福感」という尺度で見ると、日本を含む各国間で大きな差は見られない。
 そもそも、「何を幸福と考えるのか」をめぐっては、国や地域によってとらえ方に違いがあるのではないか。内閣府調査によると、日本では「理想の幸福感」を10段階中58(中から中上位)と回答する人が7割となり、極端に高い幸福を望まない傾向が示されている。文化心理学者は、幸福の最適値は文化ごとに異なり、西洋的指標による一律比較は不十分であると指摘する。特に日本で注目されるのが「協調的幸福感」であり、他者との関係性や調和を基盤に、自分だけでなく周囲と共に幸せを感じることを重視する。
 ただ近年は孤立や孤食が増え、こうした協調的幸福感の基盤が揺らいでいる。2025年の幸福度報告書は、共食が幸福感や孤独感の軽減と強く結びつくことを示し、日本の低い共食頻度が課題として浮き彫りになった。
 こうした状況を考えるうえで、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は「みんなのさいわい」を求める姿を描き、幸福を他者と分かち合う営みとして提示しており、示唆に富む。物語に登場する「りんごの分かち合い」やジョバンニの決意は、日本的な協調的幸福観と響き合い、現代に通じるものがある。幸福をめぐる議論は、単なる指標比較を超え、文化的・社会的背景を踏まえた再定義が求められているといえよう。

山のあなたに「幸」は住むのか?―日本と世界のウェルビーイング比較―
第1章 日本人は「不幸せ」なのか―国際指標を読み解く―
・第5章 日本人は「幸せ」なのか―「みんなのほんとうのさいわい」とは―

INDEX

1.「幸福感の低さ」をめぐって

 「全ての人々の幸せを実現する」。2025年1月1日の石破茂首相の年頭所感は、「全ての人々の幸せ」を掲げ、その目的を実現するため「三つの重要政策課題に取り組みます」と謳いあげた。3つの重要政策課題とは、①外交・安全保障上の課題、②地方衰退と東京一極集中の是正、③治安・防災上の課題である。特に②の地方衰退の問題については、地方創生を進めることにより、「多様な国民の幸せ」が実現できる日本をつくることを訴えた。

 このように今や「全ての人々の幸せ」、そして「多様な国民の幸せ」の実現が政権の目標として明示されている。物質的な豊かさ、富の拡大以上に優先すべき価値として、人々の「幸せ」が位置づけられているのである。そうだとすれば、その「幸せ」をもたらし、高めるために可能なすべは何か。これは政治においても、市民社会においても、そしてアカデミズムにとっても重要な課題といえる。

 それでは、日本人は現実に「幸せ」なのか。特に「幸福感」についてみれば、国際的にみた場合、日本人におけるその低さはよく知られている(第1章も参照)。各種の国際比較調査は、いわゆる先進諸国の中で、日本人における幸福度が韓国と並び低いことを示しており、「人々があまり幸せと感じていない国」のようにみえる。

 たとえば、2025年3月20日に公表された世界幸福度報告書をみてみよう(Helliwell et al., ed., 2025)(3月20日は国連の定めた国際幸福デーであり、毎年この日に合わせて公表されている)。この報告書はギャラップや国連の協力にもとづき、オックスフォード大学ウェルビーイング研究所が刊行するものであり、その調査結果は「世界幸福度ランキング」として日本でも各種メディアが報じ、広く知られている。

 特に注目が集まるのが、「あなたは自分の人生にどれくらい満足しているか」という質問に対し、0から10までの11段階で回答する、人生満足度を問う調査である。それによると1位はフィンランド(人生満足度の平均は7.7)、2位はデンマーク(7.5)、3位がアイスランド(7.5)、4位がスウェーデン(7.3)となっており、例年と同様、北欧諸国が上位を独占した。以下オランダ、コスタリカ、ノルウェー、イスラエルと続いている。オセアニア諸国のオーストラリアは10位(7.0)、ニュージーランドは11位(7.0)である。他方日本は6.1で55位、韓国は6.0で58位となっている。前年順位(それぞれ51位、55位)から下がっているが、近年はおおむね日韓両国は50位台となっており、大きな変化はない。西欧諸国の圧倒的多数、北米2国(アメリカとカナダ)およびオセアニアの2国(オーストラリアとニュージーランド)は、ほぼ常に日韓両国より上位に位置している。

 なお55位の日本の前後の順位には、それぞれパラグアイとボスニア・ヘルツェゴヴィナが入っている。日本と韓国は、いずれもその経済的豊かさにみあう「幸福感」がないようにみえる。また東アジア諸国・諸地域では、他に台湾が27位(6.7)、中国が68位(5.9)、モンゴルが77位(5.8)、香港が88位(5.5)となっているが、経済水準に比して幸福感が高いとはいえず、特に香港の低さが際立っている。概して東アジアは「幸福感」が高くない地域であるようだ。

 なお2025年報告では、ラテンアメリカ諸国からコスタリカが6位、メキシコが10位に入っていることが注目される。1人当たりGDPをはじめ、経済的豊かさという点で日本より下位に位置するこれらの国が、幸福度ではるかに上位に位置していることも、興味深い現象である。

 しかし他方、これらの調査結果をもって、日本人が「不幸せである」と断ずるには慎重でなければならない。そもそも「幸せ」といっても、いかなる意味における「幸せ」なのか。何を「幸せ」と感じるのか。世界幸福度報告書やOECD調査をはじめ、国際的に幸福度を調査して比較する研究は数多いが、それらが西洋由来の「幸せ」を前提とし、その基準に照らして比較し、順位づけを行うのであれば、日本や韓国などの東アジアの国・地域が西洋諸国に匹敵する水準の「幸せ」を示すとは限らない(調査指標の問題については、第1章も参照)。

 この点で子安らの研究(子安ほか 2012)は興味深い。13か国で行った国際比較調査において、通常の人生満足度に関する回答を見ると、予想通り日本・韓国は最も満足度が低くなっている。そして中国やヨーロッパ、北米諸国は中程度であり、最も高いのがブラジル・メキシコとなっている。しかしながら「人並み幸福感」についてみると、各国の数値は意外なほどばらつきが少ない。日本や韓国が顕著に低いとはいえないのである。「人並みの幸せ」という観点で「幸せ」を考えるならば、日本や韓国は、とりたてて「不幸せ」ではない、となる。

 日本とオランダ、コスタリカを比較した幸福感調査も、同様の方向を示している(一言 2017)。主観的幸福度を尋ねた質問(「現在、あなたはどれくらい幸せですか?」という質問)に対しては、ポイントが高い順にコスタリカ、オランダ、日本となっており、日本人の「不幸せ」を示すかに見える。しかし協調的幸福感を尋ねた質問(「自分だけでなく,身近なまわりの人も楽しい気持ちでいると思う」などの質問)では、コスタリカ、日本、オランダの順となっており、オランダと日本の順位が逆転している(なおこの3国における年齢と協調的幸福感の関係について明らかにした研究として、(Hitokoto &Takahashi, 2021)。オランダが世界幸福度報告書で最上位の常連であることを考えると、「幸福」の物差しとしていかなる質問を用いるかによって、順位が大きく変わる可能性があることがわかる。

 そもそも、幸福感が高ければ高いほどよいと日本人が考えているのか、という問題もある。

 たとえば内閣府の調査では、0から10までの尺度で現在の幸福感を尋ねた場合、日本における平均は6.5程度だった(内閣府 2011)。しかしやや意外なことに、若い世代を対象とした「理想の」幸福感についての回答を見ると、その平均は7程度にすぎない。9や10といった最高レベルの幸福感を理想とする人は、2割強しかいないのである。これに対し、5~8、すなわち中から中上位のいずれかを理想とする人は約7割に達する。つまり、「極めて高い」幸福感を持つのではなく、やや高い程度の幸福感を持つことが、「理想の状態」なのだ。

 たとえば幸福度を5、すなわち0から10のちょうど中間にあたる値を回答した人は、国際比較の点からはかなり低い値となるため、「不幸せ」と扱われそうだ。しかし実は幸福度5の人の「理想の幸福感」をみてみると、実はその4割以上の人が5を「理想」としている。そうだとすると、現在の幸福感が5の人の多くが、理想たる5をすでに・・・実現している、ということになる。やや逆説的な言い方になるが、日本では「ほどほどの幸せ」を理想とし、その上で現実に「ほどほどの幸せ」をほぼ実現している人が多い、ともいえそうだ。

 これらをふまえ文化心理学者の内田由紀子は、それぞれの文化によって「幸福の最適値」が異なることを指摘する(内田 2013)。単純に国ごとの幸福度得点を比較して「幸せな国」を同定することは早急に過ぎる、というのである。「むしろそれぞれの国や文化における幸福感の構造や、何が幸福と結びつきやすいか、といったパターンそのものの違いを分析」する必要がある、と彼女は述べている。幸福度の測定方法と解釈をめぐる、重要な問題提起といえよう。

2.「協調的幸福感」という視点

 しかしそれでは、いかなる「幸せ」を「幸せ」と考えるのがよいのか。どんな「幸せ」を測るべきなのか。そもそも「幸せ」を測ることに意味があるのか。

 特にここで注目すべき視点として、「協調的幸福感」(interdependent happiness)にかかる研究を見てみよう。近年、この「協調的幸福感」というコンセプトを用い、従来理解されてきた「幸福感」と異なる角度から「幸せ」をとらえる興味深い研究が、主に日本の研究者らによって進められてきた(その最も重要な論文の1つとしてHitokoto & Uchida(2015)を参照)。

 欧米由来の「幸福感」が、個人をベースとした「幸せ」を前提とし、すなわち個人的な成長や自立、人生の目的などを重視した「幸せ」であるのに対し、ここで提示される東アジアに顕著な「協調的幸福感」は、他者とのつながり、絆、調和を重視する「幸せ」である。いいかえれば、他者と共有している目標を実現することで得られる幸福感である。この協調的幸福感を測る際に用いられた質問項目としては、「自分だけでなく、身近なまわりの人も楽しい気持ちでいると思う」「大切な人を幸せにしていると思う」「平凡だが安定した日々を過ごしている」などがある。

 協調的幸福感においては、他者との関係性が重要となる。自分だけが飛びぬけて幸福となることは好まれない。おのれ1人の幸福のみを追求することは、そもそも幸福につながらない。なぜなら、他者との関係性の中に埋め込まれつつ自身の幸福が実現する以上、他者と自分がともに「幸せ」を感じることが、自身の幸せのために不可欠だからである。もし自分だけが幸せになり、それが他者の羨望や嫉妬を呼び起こすならば、それは自分の幸福感を引き下げ、却って不幸せになってしまう。周囲の人々と自分とが、ともに「幸せ」な状態でいることが、自分の「幸せ」を実現するための大前提なのである。

 以上を踏まえ、Hitokoto & Uchida(2015, p.214)は、「協調的幸福感を検討することにより、幸福感の「個人的・主観的」側面のみならず、「関係性」に基づく幸福感をも含むことで、幸福感の概念を拡張することが必要だ」としている。

 北米では、幸福な人物像として、「若く健康で、高い教育を受け、収入が高く、人付き合いがうまく、よい仕事を持ち、自尊心の高い人物」がイメージされる(内田 2013)。幸福は一方的に増大させ続けるべきという、一種の「増大的幸福像」である。究極の理想の人間イメージ、ともいえようか。個人個人が優れた成果を上げ、価値達成に近づいていくことが幸せにつながるとされる。

 これに対し日本では、完全な幸せを実現することが望ましいとはみなされない。よいことも悪いことも隣り合わせであり、欲張らず、「足るを知る」ことが望ましいとする、一種の「バランス志向型幸福像」があるという。

 そもそも日本における「幸福感」とは、「おだやかさ」「平穏無事であること」「心配や不安がないこと」など、一種の静的状況、内面的な調和感覚によって得られる感覚である。これは北米でみられるダイナミックな「幸福感」、すなわち「わくわく」「どきどき」といった高揚感によって得られる感覚とは、質的に異なっている。すなわち日本では周りの人々と同程度の「幸せ」を享受しつつ、心をかき乱されることなく、「他人に迷惑をかけない」ようにして、平穏な人生を送ることが望ましいとされる。「普通」であることは、他者と同レベルであることを意味し、安心感を与えてくれる。

 このような日本における「幸せ」理解は、先ほどの内閣府調査でも示された、理想の幸福度を7程度とし、9や10を敢えて望むことを良しとしない、「ほどほど」の幸福度理解とも通じる話といえよう。

 しかしこのことは、幸福度の増進を政策目標として掲げる場合、そこに他の政策目標と質的に異なる、独自の困難さがあることを示している。たとえば重大事故や凶悪犯罪は、ゼロに近づけば近づくほど望ましく、政策目標として「重大事故ゼロ」「凶悪犯罪ゼロ」を掲げ、それに少しでも近づくべく、さまざまな政策手段を動員することには十分に意味がある。社会的合意も容易に得られるだろう。しかし「理想の幸福度」が7である場合、幸福度を7から8に引き上げたり、可能であれば10にまで引き上げることを目標とするならば、それは却って理想の幸福度から遠ざかる結果となるだろう。むりに幸福度を高めようとすれば、結果として「理想の幸福度」から離れていくという、一種のパラドクスが生じかねないのである。

「協調的幸福感」の直面する課題

 しかし他方、日本におけるこのような「協調的幸福感」の存在を明らかにすることは、21世紀の現代において、日本人の「幸せ」が直面する独自な課題を浮き彫りにする(内田 2023, 北山 2012)。欧米の物差しと異なる物差しを使うことで、日本が「必ずしも不幸せな社会とはいえない」ことを示したとしても、その日本独自の幸せが、変化の激しい現代において今後も継続できるのか、定かではない。

 そもそも社会的な関係性に埋め込まれた日本社会における個人の幸せは、各自がかかるお互いの関係性の中で支えられつつ、日々の生活を平穏無事に送れることが前提となっている。しかし地縁や血縁などコミュニティが衰退し、人間関係の希薄化が進むなかで、グローバル化や市場経済の進展をうけ、日本における「関係志向性」は、いやおうなしに「個人主義」への価値転換を迫られている面もある。しかしもともと「個人主義」になじみの薄い日本人が、むりに「個人主義」に転換しようとすると、それはややもすると関係性を否定する方向に向かい、「孤立」を招くのではないか、と内田由紀子は指摘する。

 この孤立、孤独をめぐる問題は、現代の日本でも極めて重要である。周知のように人口あたりの自殺率をみると、日本と韓国はOECD諸国の中でも高い自殺率を示している。東アジアの日韓両国の場合、経済的な豊かさが自殺率の高さと併存している。自殺の背景にいかなる理由があるにせよ、自殺率の高い国を「幸せの国」と呼ぶことには、躊躇するものがある。そして自殺の背景には、孤立、社会とのつながりの欠如、社会的な支援の不足があることが、しばしば指摘されている。

 実は2025年の世界幸福度報告書は、人と人とのつながり、そしてその裏返しとしての社会的孤立と孤独(social isolation and loneliness)に重点を置き、特集している。社会的つながりの欠如は、高い疾病率、短い平均寿命、そして低い幸福感と結びつく。人と人との絆を強め、相互信頼感を高めることは、人々を孤立から救い、幸福感を高め、自殺を予防する方向に向かうのではないか。

 特に2025年の報告書で注目されるのが、「食事を分かち合うこと(sharing meals)」、すなわち「共食」(そしてその裏返しとしての「孤食(dining alone)」)と幸福感との関係について、本格的に分析していることである(第3章)。そこで明らかになったことは、他者と食事を共にすることは高い主観的幸福感、高いポジティブ感情(positive affect)、低いネガティブ感情(negative affect)と強く結びついていること、その反対に、孤食は低い主観的幸福感、低いポジティブ感情、高いネガティブ感情と強く関連していることだ。共食と主観的幸福感との関連は、(これまで結びつきの強いことが知られてきた)雇用(失業)、所得と主観的幸福感との関連に匹敵するほど強い。共食と主観的幸福感のあいだの因果関係については定かではないが、両者の関連の強さは驚くほどである。

 各国比較で検討すると、国別平均の共食回数が週当たり1回増えると、(11段階で測定された)各国別の主観的幸福感が0.2ずつ増加する。また個人レベルでみると、共食の回数が増えるほど主観的幸福感が増加するが、特に完全な孤食(週当たりの共食回数がゼロ回)と週当たり1回のみの共食の間に、主観的幸福感における大きな開きがあることがわかる(前者は4.9、後者は5.2となっており、0.3もの開きがある)。また興味深いことに、共食の回数が増えるほど主観的幸福度が増大するという傾向は、世界の各地域や各文化、性別や年齢を異にするさまざまなカテゴリーにおいて共通にみられる現象であり、個人の属性に左右されることが少ない。共食が幸せとむすびつくというのは、一種の「普遍的」な現象なのだ。

 容易に想像されるところであるが、共食・孤食と孤独感(loneliness)との関連も極めて強い。共食の回数が増えるほど、孤独感は減少する。特に完全な孤食の人と、週に1~数回であっても共食をしている人では、孤独感に顕著な開きがある。また、共食・孤食と社会的支援の有無(「困ったときに頼れる人がいるか」)も、強く関連する。共食の回数が増えるほど、困ったときに頼れる人がいる割合が上昇する。「同じ釜の飯を食った仲間」は、いざというときに頼る仲間でもある、ということか。そして孤独感の強弱、社会的支援の有無が主観的幸福感と深く結びついていることを踏まえると、共食が孤独感を減少させ、頼れる仲間を増やし、主観的幸福感の上昇につながる、というシナリオが考えられそうである。なお同報告書は、特にアメリカ合衆国の共食・孤食事情に焦点を当て、近年の同国における孤食の広がりについて、憂慮をもって論評している。

 それでは日本はどうか。日本では週当たりの共食は週当たり3.7回となっているが、実はこれは調査対象142か国中、133番目である。55位だった主観的幸福感と比べても、圧倒的に低い順位となっている。もちろん国際比較における順位の低さは、ただちに「不幸せ」を意味するわけではない。しかしもし孤食が孤独感、社会的孤立と深くつながっているとすれば、現代の日本における孤食の展開は、孤独と孤立を通じ、幸福感の低下につながる可能性がある。特にそれが、他者との関係性の希薄化を通じ、東アジア特有の「協調的幸福感」を押し下げる方向に働くとすれば、ことは深刻といえよう。そして日本では、単身の高齢世帯の増加、新型コロナウィルスの拡大で一層進行したとされる人間関係の弱まりなど、協調的幸福感を現実に感じづらい状況が顕著となっている。

 以上のようにみると、2010年代以降、東アジアにおける「協調的幸福感」が学術的に注目され、西洋的で個人主義的な傾向のある幸福度ランキングが相対化されたことには大きな意義があったものの、現実の日本社会では、グローバル化やIT化の進展、コロナ禍で加速したリモート業務の広がり、不安定雇用の拡大など、協調的幸福感を支えるはずの具体的な人間同士の「関係性」が弱体化し、孤立・孤独感の増大という問題が前景化している。共食を増やすことが解決につながるかどうかは定かでないものの、「みんなの幸せ」を願う日本的な協調的幸福感と、「食べ物を分かち合うこと」とは、本来的に相性がよいはずだ。同じ食卓についていながら、1人がたらふく食べ、もう1人がひもじい思いをするという状況には、誰もが抵抗感を感じる。そこから「分かち合い」が始まるだろう。しかもここで分かち合う対象は、単に食べ物にとどまらない。幸せそのものを分かち合っていくからである。食べ物は半分になっても、幸せは2倍になるといえるだろう。

3.『銀河鉄道の夜』にみる「二つのさいわい」

 ところでこのような「幸せ」をめぐる社会文化的な理解を検討するとき、近代日本文学の最高傑作ともいわれる宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は、きわめて興味深い示唆を与えてくれる。同作品には、幸せ、幸いをめぐる深い洞察が含まれているからである。そもそも宮沢賢治は、その生涯を通じ、自らの行動と思想、詩や物語などのあらゆる場面において、本当の幸せ、本当の幸いとは何かという問いを追求した人物だった。そして『銀河鉄道の夜』は、宮沢賢治の代表作のひとつに数えられ、文学史に残る名作だが、それとともに彼の求めてやまなかった本当の幸せに迫る、重要作品でもある。この作品は生前に発表されることはなく、死後になって公刊された。複数の原稿が知られているが、第四次稿として知られる原稿が、最後のバージョンであるとされており、現在流通している銀河鉄道の夜』の多くは、この第四次稿に基づいて刊行されている。本稿でも、第四次稿をもとに検討を行いたい。

 この物語の主人公は、本当のさいわいを求めて銀河を旅する少年、ジョバンニである。家計を助けるため活版所で放課後に働くジョバンニは、ある日、学校の授業で先生の問いかけにきちんと答えることができず、楽しいはずのケンタウル祭では級友たちにからかわれ、病んだ母親の命の綱である牛乳の入手にも失敗する。途方に暮れてひとり、孤独な思いを抱えつつ、夜の牧場の草むらに体を投げ出す。しかしいつしか彼は、自分が客として銀河鉄道に乗り、銀河の世界を旅していることに気づく。しかも1番の親友、カンパネルラも一緒だ。

 2人は車中、さまざまな出会いと別れを果たしつつ、本当のさいわいとは何か、語り、思いを巡らせていく。しかしジョバンニの「ほんとうのさいわいは一体何だろう」という問いかけに対し、カンパネルラは「僕わからない」という。車内で出会った燈台守は、「なにがしあわせかわからないです」と語る。それでもジョバンニは銀河鉄道の旅の最後に至るまで、本当の幸せとは何なのか、どこまでも探し求めようとする。それは終わることのない求道ぐどうの旅のようだ。

 本稿の観点から特に興味深いのは、この作品の中に、幸せをめぐる2つの異なる立場が描かれていることである。

 銀河鉄道の旅で出会い、ジョバンニたちと最も親しく交流したのは、沈没した豪華客船と運命を共にし、地上の生を終え、天上に向かう途中で銀河鉄道に乗り込んだ姉弟、そして2人の家庭教師とおぼしき青年である。1912年4月に大西洋で沈没し、多数の犠牲者を出したタイタニック号の事件がモデルにあるとされる。家庭教師の青年は「黒い洋服をきちんと着」ており、冷静沈着で信仰厚い、西洋社会の範となるような人物として描かれている。

 他方、まだ幼い姉と弟は、銀河鉄道に乗り込んだ当初、沈没事故の直後で体が濡れており、動揺のただなかにあった。ただジョバンニやカンパネルラと会話を交わすうちに、少しずつ落ち着き、元気になっていく。姉は星になったさそりの物語を語り、弟は「ケンタウル露をふらせ。」と窓の外を見ながら叫ぶ。こうして2人は、しだいに普段の調子を取り戻していく。

 しかし青年と姉弟の3人と、ジョバンニたちは、決定的に異なる道を歩むことになる。青年にとって、行先は1か所のみ、それはあらかじめ神さまによって決められた場所である。彼は言う。「ぼくたちはそらへ来たのだ。わたしたちは天へ行くのです。ごらんなさい。あのしるしは天上のしるしです。もうなんにもこわいことありません。わたくしたちは神さまに召されているのです。」「わたしたちはこんないいとこを旅して、じき神さまのとこへ行きます。そこならもうほんとうに明るくて匂がよくて立派な人たちでいっぱいです。」自らの信じる神に絶対の信頼を寄せており、彼らには天上という明確な終着点が定められている。キリスト教と明示されているわけではないが、十字架や讃美歌をはじめとする宗教文化的な表象は、基本的に西洋のキリスト教のそれである。

 車内で乗り合わせた燈台守と青年の間で、次のようなやり取りがある。

 「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。」

 「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」

 かみ合っているようで、微妙なずれのある会話である。青年にとって、悲しみや困難はすべて「ただいちばんのさいわい」に至るため、神の思し召しによって用意されたものにすぎない。天上という明確な目標があり、困難を越えてその目的地に到達することによって、「いちばんのさいわい」を手にすることができるのである。

 しかし燈台守にとっては、しあわせとはそもそも「なにがしあわせかわからない」ものである。上り道も下り道もあるが、どの道をたどれば幸せにいきつくのか、自信を持って断言できるものはない。おそらくは後になって、あの歩みが実は本当の幸福に近づくための一歩だったのか、と気づくようなものではないか。

 そして物語の終盤近く、青年とジョバンニは「論争」する。青年や姉弟の目的地たるサザンクロスに列車が近づいたとき、ジョバンニは「僕たちと一緒に乗って行こう。僕たちどこまでだって行ける切符持ってるんだ。」と姉弟に声をかける。しかし姉は名残惜しそうにしつつ、神のみもとに参ずるべく、降車を選択する。ジョバンニは「そんな神さまうその神さまだい。」と抵抗するが、青年は「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」と自信を持って反論し、ジョバンニの思いを一刀両断する。「わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神さまの前にわたくしたちとお会いになることを祈ります。」と告げる。青年たちにとって、「ただいちばんのさいわい」に至る道は1つのみであり、その道を選ばないジョバンニは一種の迷える存在であり、「正しい道を歩む」ことを一方的に祈られる対象にすぎない。

 この「いちばんの幸せ」に突き進む青年たち、いわば西洋的な幸福感を体現する彼らと比べると、ジョバンニを含む他の乗客たちの「幸せ」は、明確な言葉や目的地として表現することができず、あいまいな形で語るほかない。

 そもそも幸いとは何か、最も迷っていたのはカンパネルラである。彼は逡巡しつつ、次のように語る。「ぼくはおっかさんが、ほんとうにさいわい(さいわい)になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」実際にはカンパネルラは、川に落ちたザネリを救おうとして自らの命を落としたようだが、自分が死んだことで、結果として自分の母の幸せを犠牲にしたのではないか、と心配しているようにみえる(なおカンパネルラの母については、『銀河鉄道の夜』にほとんど記述がなく、生死を含めて謎である)。しかし彼は迷いつつも、次のようにとりあえず結論づける。

 「けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばんさいわい(さいわい)なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」

 ここからは、カンパネルラが、(友のために命を捨てた行為を)「ほんとうにいいこと」をしたと考え、そのような自分が「いちばん幸」であること、それならば母の幸せを犠牲にしたのではなく、母もまた自分の思いを共有してくれるだろうと考えたことがわかる。このように自分個人の幸せではなく、他者と幸せを共有することそのものが自分の「幸せ」につながるという見方、いわば「協調的幸福感」は、『銀河鉄道の夜』では随所に現れている。

 沈没客船の乗客だった姉の語る蠍の物語も印象的だ。いたちに追いかけられ、井戸でおぼれて死を前にした蠍が、神に向かって最後の祈りをささげる。この次には、「まことのみんなの幸のために」私のからだを用いて下さい、というのである。その願いは聞き入れられ、蠍は気づくと赤く美しい星となって闇を照らしていた。おぼれて自らは命を落としながら、他者を照らす存在になったというエピソードは、どこかカンパネルラの運命を暗示するところがあるが、いずれにせよここで描かれているのは、「みんなのさいわい」を願ってこそ自らも生かされ、輝く存在になるという命の深淵な営みである。

 カンパネルラとの別れの直前、ジョバンニは2度にわたり彼に向かい、「みんなのさいわい」について、繰り返し語る。「どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」銀河鉄道の旅でさまざまな出会いと別れを体験し、ジョバンニは「みんなのさいわい」のためならば、いかなる苦難をも引き受けるという決意に至る。「協調的幸福感」に殉じようという、悲壮な覚悟を引き受けたかのようだ。しかしジョバンニがそのややヒロイックな思いを胸にカンパネルラを振り返ったとき、すでに友人の姿はなかった。

 銀河鉄道の旅は、唐突に終わった。そして「みんなのさいわい」を求める新たなる旅路は、これからジョバンニが1人で歩まねばならない道でもあった。しかしジョバンニが銀河の旅を始める前にとらわれていた、あのやるせない孤独感は、もはやない。友と別れ、彼がこれから1人で歩もうとする道は、決して孤独な道ではなかったのだ。

りんごを分かち合って

 なお世界幸福度調査でも特集された「食事を分かち合う」というテーマに関連し、実は『銀河鉄道の夜』には興味深い場面がある。

 沈没事故を経て銀河鉄道に姿をあらわした姉弟と青年に、ちょうど近くに座っていた燈台守が目を留める。そして彼は、見事に輝く「黄金と紅でうつくしくいろどられた大きな」りんごを青年と姉弟に渡し、食べるよう勧めてくれたのである。彼はジョバンニとカンパネルラにも1つずつ分けてくれた。

 りんごの効果は絶大だった。それまで姉弟は、すっかり泣き疲れ、「ぐったり席によりかかって睡って」いた。沈没事故という予想もしない苦難に遭い、身も心も疲れ果てていたことは容易に想像できる。しかし、りんごが行き交う中で、まず弟が目を覚ます。彼は夢を見ており、今は亡き母親がにこにこ笑っていた。そして母に向かい、「りんごをひろってきてあげましょうか」と言ったら目が覚めたというのである。りんごの香りに誘われ、幸せな夢を見てご機嫌を直したようだ。

 そして弟は、りんごをもらったことを喜び、まだ眠りの中にある姉を起こす。「ぼくおこしてやろう。ねえさん。ごらん、りんごをもらったよ。おきてごらん」。そして姉は笑って目を覚まし、りんごを見つけるのである。まるでりんごから始まって、そのふくよかな香りとともに、笑顔のさざ波が広がっていくようではないか。りんごを共に食べることで、姉弟は元気を取り戻し、自分らしさを回復していく。「食事を分かち合う」ことがもたらすささやかな幸福が、地上の短い人生をすでに終えた子どもたちに、最後のプレゼントのように与えられたのである。そこにはもはや、孤独やみじめさはない。

 そして地上の世界に戻ったジョバンニもまた、「食事の分かち合い」に全力を尽くす。彼は母に飲ませる牛乳を、牧場で受け取ることについに成功し、帰途を急ぐ。ただその途中、カンパネルラが川で事故に遭ったことを知り、驚き嘆く。親友の父である博士の前で、ジョバンニはほとんど言葉を発することができない。

 それではジョバンニは、親友の死という最も悲しい事件にあったことで、途方に暮れ、放心状態になったのだろうか。

 そうではない。『銀河鉄道の夜』の最後の一文は、つぎのようになっている。「ジョバンニはもういろいろなことで胸がいっぱいでなんにも云えずに博士の前をはなれて早くお母さんに牛乳を持って行ってお父さんの帰ることを知らせようと思うともう一目散に河原を街の方へ走りました」。放心状態どころか、一目散にその場を離れたのである。

 友の死を知ったばかりなのに、牛乳を運ぶことを優先してその場を走り去るとは、何だか薄情な感じがするかもしれない。しかしジョバンニは、すでに親友カンパネルラとの決定的な別れを、銀河鉄道の列車のなかで、慟哭とともに後にしている。その彼の次なる使命は、「みんなのさいわい」のため、自らの持てる力を尽くすことに他ならない。その第一歩が、病める母、牛乳を今か今かと待ち望んでいる母に一刻も早く牛乳を届け、「食事を分かち合う」こと、しかもその分かち合いの場で、父の帰還という朗報を共有することだったのではないか。ぼんやりしている暇はないのである。

 そして『銀河鉄道の夜』における「牛乳」とは、単なる栄養価の高い飲料にとどまらない意味を持つ。牧場でようやく牛乳を受け取ったとき、ジョバンニは「まだ熱い乳の瓶を両方のてのひらで包むようにもって牧場の柵を出ました」とある。両手で包むように持つ、熱い乳の瓶。何か生まれたての命をいつくしむかのようだ。銀河鉄道の旅を終え、ジョバンニが手にすることのできた新たな命、新たな人生を、この牛乳が象徴しているように思える。

 そもそも銀河は別名ミルキー・ウェイ(Milky Way)、すなわち牛乳の道でもある。旅を始めるまえには得ることのできなかった牛乳を、友とともに銀河/ミルキー・ウェイを存分に駆け抜けることによって、ついに自らの手に取り戻すことができた、といえるだろう。ミルキー・ウェイの彼方まで旅した者だけが手にすることのできる、まだ熱い牛乳。そしてその新しい命の凝縮された牛乳を、病める家族のもとに届け、分かち合っていく。『銀河鉄道の夜』の最後の一文は、新たなる幸せ-それはささやかで、「ほどほど」のものかもしれないが、「みんなの幸せ」であることは間違いない-の始まりを予感させる。

「いや、まあおとり下さい」

 ところで燈台守はりんごを青年たちにふるまうときに、こんな言葉をかけている。

 「いや、まあおとり下さい。どうか、まあおとり下さい。」

 何とも慈しみに満ちた言葉だと思う。身も心も深く傷ついた沈没客船の一行を気遣いつつ、しかしそのことにあえて触れずに、美しいりんごへと皆の視線を向けていく。ごくごく自然な誘いの言葉にみえて、相手の心情を十分にくみ取り、タイミングを見計らった、見事な声かけだ。おそらく燈台守は、「食事を分かち合う」ことがもたらす劇的な変化を、すでに知っていたのだろう。そして輝きを放つ香ばしいりんごを皆で味わうことで、沈没事故の悲劇は一転し、沈んだ顔に笑顔が戻り、幸せな空間が車内に広がっていく。まるで魔法のようだ。

 この燈台守は、どこか映画史に残る名脇役を想起させる。そもそも燈台そのものが、昼間は目立たなくとも、夜になると光を数十キロ先まで届け、海を渡る船の道しるべとなり、人々の命を守る貴重な役割を果たしている。そうだとすれば、この燈台守のような役回りを担う存在が、地域社会を含めさまざまな場にあって、燈台が光を注ぐように必要な人にやさしく声をかけ、必要なものを見抜き、分かち合っていく社会こそが、「みんなが幸せ」といえる社会の実現に望ましいのではないか。

 『銀河鉄道の夜』は、近代日本を代表する文学作品であるだけでなく、現代日本社会の直面する「幸せ」をめぐる問題についても、鋭く問題提起を投げかける名作といえよう。


謝辞

 本稿の作成にあたっては、幸福をめぐる研究について、千葉大学国際高等研究基幹研究支援プログラム・公正社会研究のメンバー、特に小林正弥先生、石戸光先生、および千葉大学にてご講演いただいた関西福祉科学大学客員教授・島井哲志先生から貴重なご示唆をいただきました。また気鋭の近代日本文学研究者であり、宮沢賢治に関する研究を精力的に進めておられる張永嬌先生(上海大学外国語学部講師・千葉大学大学院社会科学研究院特別研究員)からは、宮沢賢治および『銀河鉄道の夜』について、重要なご教示をいただきました。厚く御礼申し上げます。

参考文献

内田由紀子(2013)「日本人の幸福感と幸福度指標」『心理学ワールド』第60巻, pp.5-8.
内田由紀子(2020)『これからの幸福について-文化的幸福観のすすめ』新曜社
大島丈志(2023)『現代文化のなかの<宮沢賢治>』新典社
鎌田東二(2001)『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』岩波書店
北山忍(2012)「個人主義と幸福 : 内田・荻原論文へのコメント」『心理学評論』55(1) , pp.43-46.
小林正弥(2021)『ポジティブ心理学 科学的メンタル・ウェルネス入門』講談社
子安増生ほか(2012)「幸福感の国際比較研究―13カ国のデータ」『心理学評論』55(1) , pp.70-89.
島井哲志(2015)『幸福の構造 持続する幸福感と幸せな社会づくり』有斐閣
内閣府(2011)「幸福度に関する研究会報告―幸福度指標試案」(2025年6月17日最終アクセス)
一言英文(2017)「協調的幸福感の文化比較―コスタリカ・日本・オランダの比較―」『感情心理学研究』25巻Supplement号, 22.
Helliwell, J. F., Layard, R., Sachs, J. D., De Neve, J.-E., Aknin, L. B., & Wang, S. (Eds.) (2025). World Happiness Report 2025. University of Oxford: Wellbeing Research Centre.
Hitokoto, H., & Uchida, Y.(2015). Interdependent Happiness: Theoretical Importance and Measurement Validity. J Happiness Stud 16, pp.211–239 .
Hitokoto, H., & Takahashi, Y. (2021). Interdependent happiness across age in Costa Rica, Japan, and the Netherlands. Asian Journal of Social Psychology, 24(4), pp.445-462.

引用を行う際には、以下を参考に出典の明記をお願いいたします。
(出典)水島治郎(2025)「山のあなたに「幸」は住むのか?第5章 日本人は「幸せ」なのか―「みんなのほんとうのさいわい」とは―」研究報告書

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