渡辺靖
慶應義塾大学教授/NIRA総合研究開発機構上席研究員

概要

 民主主義は、現在、政治体制としてももっとも正統性の高いものとみなされている。しかしながら、このことは、民主主義に何の問題もないことまでは意味しない。それどころか、現代の民主主義は、国内的にも国際的にも難しい課題に直面している。さらに言えば、そもそも民主主義の原理そのものに内在的な限界がある。
 コンファレンス「いま、責任ある行動とは何かを考える―ヨーロッパと日本の視点から―」“How to Act Responsibly Today? Politics of Law in Europe and Japan”2025426日開催)のパネル2「責任の枠組み―グローバル正義と民主主義の課題」において、コンファレンスのテーマである「責任」について、現代の民主主義が突き付けられた様々な問題に私たちはどのような責任を負うのか、何をすれば責任を果たしたと言えるのかといった観点から議論がなされた(注1)
 議論の結果、明らかになったのは、責任ある行動は多様に存在するということである。民主主義の制度を支える価値、規範、慣習が攻撃にさらされれば、民主主義自体が弱ってしまうのだから、それらを日々守るのがわれわれの責任である。また、民主主義は必然的に境界線を持ち、その外部にいる人たちの声を反映しないが、彼らに影響だけは及ぼす。こうした民主主義では解消できない問題を、民主主義以外の制度を用いて緩和し、今ある民主主義を修正していく責任の果たし方もある。あるいは、従来は存在しなかったアプローチを追及して問題解決を目指すことも責任ある行動に数えられる。わたしたちは、責任ある行動とは何かを、自分で選び取ることができる*

INDEX

パネル「責任の枠組み―グローバル正義と民主主義の課題」登壇者

・市原麻衣子     一橋大学教授
・イサベル・ジロドゥ 東京大学教授
・瀧川裕英      東京大学教授
・渡辺靖       慶應義塾大学教授(モデレーター)
(敬称略・五十音順)

はじめに

 民主主義は現在難しい課題に直面している。ミドルクラスの没落、格差拡大、排外主義の伸長ゆえに、多くの民主主義国において社会の分断が起きている。しかも、対立のあり方が単なる政治な立場を異にするというだけにとどまらず、現実に関する認識の仕方そのものが全くかみ合わず、相手を完全な敵だとみなす事態が起きている。「奴ら」が民主主義を破壊するのを防ぐため、「われわれ」は民主主義を守ろうとして時には権威主義的な行動をとることもある。選挙を通じて権威主義が助長され、1930年代のワイマールのような分極化された状態に至るのではないかという危惧も指摘される。

 国際社会に目を向ければ、権威主義国が台頭している一方、それにあらがう民主主義国のナラティブは求心力を失っている。かつて植民地を支配していた先進国に民主主義の何たるかを語る資格があるのかと問われてしまう。先進国は言行が不一致だと不信感を持たれる。民主主義国の国内においても矛盾があり、その価値を必ずしも実現できているわけではないため、価値の素晴らしさを語っても説得力がなく、反発されもする。特に国際社会で注目されているグローバルサウスと呼ばれる国々にとって、民主主義の価値の重要性は理解できるけれども、その欧米的な価値にいまひとつ共感できない点があるという。

 こうした中で、民主主義、自由で開かれた世界、法の支配は大きな岐路に立っているというのが、当パネルがよって立つ問題意識である。この問題意識を共有し、各パネリストは、自らの専門に基づいてその知見を自由に論じた。

1.民主主義の3つの異なる側面―価値、制度、イデオロギー

 一橋大学の市原麻衣子氏は、パネルのサブタイトルである「グローバル正義と民主主義の課題」を受け、民主主義に対する挑戦を国内・国際政治の観点から論じる。

 民主主義には、制度、価値、イデオロギーという3つの側面がある。制度と価値は、国内における民主主義制度と結び付けられる。制度は民主主義を成り立たせ、その制度は民主主義を支える価値によって守られている。以上の2つは国内的なものだが、最後のイデオロギー的側面は国際政治の領域において現れる。

国内における民主主義の制度と価値

 実は民主主義に共通の定義はなく、定義は論争の的である。ここでは、広く受け入れられている民主主義の条件として、自由で平等な選挙が定期的に行われること、被選挙権が適切に与えられていることに加えて、自由で平等な選挙が行われるために必要な市民的自由が確保されていることを挙げ、これらを十分に満たせば民主主義と呼ぶにふさわしいと考える。市民的自由とは言論の自由、集会・結社の自由といった各種の自由権であり、市民の行動の自由を支える。市民的自由を確保するために、国内では三権分立、法の支配、自由権の法的整備などの制度が定められている。

 これらの制度は、実のところ、薄い氷のように脆弱である。制度が法的に改変されなかったとしても、制度を支える価値に対する攻撃が続けば、制度自体が弱体化していく。たとえば、現在のアメリカでは、予算の具体的配分につき行政府の裁量が大きくなるつなぎ予算を利用して議会の予算権限をないがしろにし、連邦最高裁の判決を無視し、特定メディアのホワイトハウスへの立ち入りを禁止し、トランスジェンダーの権利に対する攻撃を加えるといった事態が起きている。これらのことは制度自体を改変しているわけではないものの、制度を守る価値へのコミットメントを弱めている。

 したがって、民主主義を守るには、制度の適正な維持に献身し、制度を包み込む民主的な価値にコミットした行動で制度を支える必要がある。価値を守るための行動は、民主主義の制度を守るソフトガードレールとして機能する(レビツキー、ジブラット2018)。民主主義が機能するためには民主的な制度だけでなく、価値へのコミットメントが非常に重要である。

国際政治におけるイデオロギーとしての民主主義

 次に国際政治におけるイデオロギーとしての民主主義について述べる。国家、戦争、民主主義という3者の関係を用いて考える。

 まず、国家は戦争を通じて生まれたとの議論から始める(Tilly 1975)。ヨーロッパにおいて様々な空間的主体が戦争をする中で、軍隊を維持し動かす莫大な費用を調達できる存在が近代的な領域国家として生き残った。それらの領域国家が国際政治を形成するのが主権国家体制である。

 次に、こうして生まれた主権国家が民主主義国家となるとき、国民と国家の間に契約が成立し、国民はその国のメンバーとしての意識を持つ。国家は民主主義国家として国内ガバナンスを良好に保つために、民主主義を支える制度と価値を公共財として提供する(Jackson 1990)。

 さらに、民主的な主権国家は、戦争に際して、民主主義を含む道徳的な信念を利用して動員を行う(Way 2022)。他国と協力する場合も、民主主義国同士が団結する、あるいは同じ民主主義国を助けるという言説が使われる。すなわち、こうした国際レベルの言説において、民主主義の制度と価値は論じられない(図1の第1象限参照)。民主主義国が国際政治の中で民主主義を語るとき、その目的は対抗関係を明確化することにある。第2次世界大戦も冷戦もそうであり、21世紀に入っても同じである。

 ここで気を付けなければならないのは、民主主義を守るための戦いとされているものは、実は民主主義制度を守るための戦いではなく、民主主義制度を持つ国を守るための戦いであるということだ。民主主義の制度と価値とは文脈を異にして、民主主義概念が使われる。

図1 民主主義への攻撃

図1 民主主義への攻撃

(出所)市原麻衣子氏の当日投影資料。

民主主義への攻撃

 民主主義に対して、国内的にも国際的にも攻撃が加えられている。民主主義国内では、価値への攻撃が続き、制度が弱体しつつある。国内でも国際社会でも、民主主義概念が偽善的なものと理解されがちになっている。

 権威主義国からは、民主主義国に対し、民主主義の価値に対するコミットメントを弱めるための影響工作が行われている。権威主義国は、民主主義国の社会の分断を加速させ、社会の不安定化を図るよう偽情報を流したり、恣意的な悪意ある情報を流したりする。同様の工作は、民主主義国同士の関係を悪化させるためにも行われる。

 権威主義国の国内でも工作は行われる。選挙、人権、法の支配、民主主義といった自由主義の中核的な概念をすべて独自の理解に歪めて利用する。これらは国際的に正統性がある概念であるため、統治の正当化を図るために、都合よく歪めたうえで使う。例えば、不正選挙であっても、これは選挙であって、われわれは選挙で選ばれた正統な政府だと主張する。人権概念については、われわれは社会権や発展する権利を認めていると主張し、概念から自由権を切り離してしまう。

 このようにして、民主主義国でも、権威主義国でも、国際的にも国内的にも、民主主義に対する攻撃が熾烈になってきている。

2.誰に対する責任か?―デモクラシーの限界と希望

 東京大学の瀧川裕英氏は、誰に対する責任なのかという問題を立てる。この問題を導きの糸として、デモクラシーの限界と希望について論じる。

デモクラシーの境界問題

 出発点としてデモクラシーの境界問題から論じる。デモクラシーの境界問題とは、誰がいったいデモス(有権者)なのかという問題である。すなわち、デモクラシーにおいて誰が決定権限を持つのかという問いだ。国家は必ずその境界を持つ。その境界線をどこで引くのか、がデモクラシーの境界問題である。

 これはデモクラシーにとって解決できない問題である。というのも、誰がデモクラシーに参加するかを決めるとき、その決定を民主的に行おうとすると、さらにその決定に誰が参加できるのかを決めるべきとなり、それを民主的に決定しようと思えば、無限に決定をさかのぼらせなければならないからだ。

 現状では、デモスの範囲は成人の国民のみという解法がとられている。一定年齢以上の国籍保有者だけが決定権限を持ち、他は排除されるということだ。一応の解答ではあるが、これはこれで問題を生む。というのも、ここには2つの限界があるからだ。

デモクラシーの2つの限界

 1つ目は空間的限界である。デモスの範囲は国民に限定されているため、国民でない人々、すなわち国境の外にいる人々に、デモクラシーは参加権を与えていない。しかし、現在の世界を見れば、ある国の決定は他国に対して影響を与える。にもかかわらず、国境の外の人々は決定に影響を与えられない。ここから生じてくるのがグローバルな不正義であり、典型例は貧困と格差である。こうした問題は、デモスを国民に限定すると、十分に対処できない。

 2つ目は時間的限界である。デモクラシーとは、現在の政治ついて現在の有権者に決定権限を与えるものだ。しかし、その決定は、時間を超えて将来の世代にも影響する。たとえば年金について少子高齢化が進む日本で、年金制度は維持できないかもしれないが、年金制度を変える権限は、将来を担う子供たちには与えられていない。環境問題も同様である。デモクラシーはこうした問題に対処できない。

デモクラシーの赤字にどう対処するか

 こうしてみると、デモクラシーには責任の赤字がある。つまり、デモクラシーは構造上、外部に対する責任を欠いている。構造上、中と外に分かれており、外の人々を無視している。排除されるのは、空間的にはじき出される他国の人々、時間的にはじき出される将来世代である。

 この赤字にどう対処するか。3つの選択肢がある。第1に現状維持である。変え方が難しいので現状維持を選ぶということである。第2にデモスを拡張する。外部に対する責任を欠くので外部化される人々を減らすことを試みる。第3にデモクラシーをあきらめる。デモクラシーには期待せず、他の制度を整備する。ここでは、第2と第3の選択肢について論じよう。

影響原理による拡張

 第2の選択肢から論じる。法哲学で有力な考え方である影響原理を用いてデモスを拡張する可能性を考えてみる。影響原理からすると、誰がデモスなのかの範囲を画するのは影響を受けたかどうかであり、影響を受ける人はみな投票権を与えられる。米国史上有名な「代表なければ課税なし」はこの考え方に近い。

 拡張するとどうなるかといえば、例えば、外国人参政権を認めることが考えられる。単にある国の中に住んでいるというだけではなく、決定によって影響を受ける外部に住む外国人にも参加の権利を与えなければならない。そうすると、アメリカ大統領選挙において、他の国の人々も投票することになる。

 他に、子どもに選挙権を与えることも考えられる。現状では、どの国でも選挙権を子どもに与えていないが、子どもたちは決定に影響を受ける。ゆえに選挙権を与えるべきだということになる。今生まれていない将来世代にも投票権を与えるべきだという議論も出る。ただし、将来世代の参加は実際上難しい。まだ生まれておらず、誰が代表するのか決まらないからだ。将来世代の選好を適切に代表できる人は果たしているだろうか。

 このように、空間的限界には影響原理で対応できるが、時間的限界には影響原理で対応しきれない。

デモクラシー以外の制度整備

 上記の議論が示すように、デモクラシーでは果たしきれない責任がある。どうしても外部を作り、外の人たちを排除する限界がある。その限界を認めたうえで、デモクラシーを活用しなければならない。

 他方で、第3の選択肢として、デモクラシー以外の制度整備についても考えなければならない。たとえば、憲法に子どもの権利を書き込むことが挙げられる。そうすると、子どもの権利に関する事案を裁判所が審査することになる。裁判所の判断はデモクラシーにはならないが、別の形で責任を果たすことができる。

 デモクラシーは悪い制度ではないが、論じてきたように限界はある。責任を手放さないようにどういう制度配備ができるかを考えなければならない。

3.人新世と呼ばれる時代に、責任を応答する能力として再概念化する―法律家にとっての究極の思考実験か?

 東京大学のイサベル・ジロドゥ氏は、人新世において国際的な気候変動訴訟に取り組む法律家たちの挑戦について述べ、人新世において何が責任ある行動かを論じた。人新世とは、人類の活動が地球環境や生態系に与える時代を指す地質学的概念である。この概念は、人類の集合的な影響がグローバルな規模に達し、生態系と人類そのものの生存可能性を脅かしている点を強調することで、「環境破壊」と呼ばれ、人間の社会システムの外である「環境」に焦点を当てきた問題に別の語り口を提供する。人新世は、人間と人間を超えた世界(more-than-human world)とを区別せず、気候変動における様々なアクターも区別しないがゆえに、誰にどのような責任があるかを問わないという問題を抱えるけれども、責任の新たなモデルについて考えるきっかけを与えたといえる。

人新世から考える責任のあり方―国際環境法と気候変動訴訟

 伝統的には、環境法は自然を富の源泉として規制の対象としてきた。すなわち、人間が自然環境を保護し、かつ、支配するものと捉えてきた。こうした思考の枠組みをとる多数派の国際環境法専門家は、人新世概念に依拠しない。

 しかし、このような枠組みを疑問視する専門家もいる。人新世理論は、国際環境法学に次のような変化をもたらす。まず、人新世において責任ある行動とは何かを検討することによって、人新世が浮き彫りする、人とそれ以外の区別をしない絡まり合いという中核的概念を認識することができる。また、人新世理論が人間と人間以外を絡み合ったものと特徴づけ、絡み合った損害を指し示すと認識することにより、国際法で現在通用している国家責任と環境保護という概念を批判的に捉えなおすことを可能にする。

 具体例として国際気候変動訴訟に焦点を当てる。この訴訟形態は、国家と非国家アクターの双方を行動に駆り立てる戦略的ツールとして現れてきた。訴訟は、正義と被害に関する物語を語る機会として機能する。また、法の矛盾を暴露する内省的なメカニズムとしても機能する。特に気候変動訴訟は、法的論理内の内部矛盾を浮き彫りにしてきた。訴訟でどのような戦略が生み出されてきたか、それぞれの戦略が環境の脆弱性への対応をどれだけ可能にしてきたか、それぞれの戦略の不十分さはどう乗り越えられるべきか、こうした問いに答えるために変化を遂げてきたアプローチについて述べる。

気候的正義へのアプローチ

 伝統的・自由主義的アプローチは、国家の領土管轄内にいる人間の被害者が実際に経験する現在の被害を対象とする。国家はその域内での作為ないし不作為について責任を負う。しかしながら、環境被害は国境の外へ容易に広がるため、国境外に広がる被害について国家の責任を問いにくい。この問題に対処するため、将来の気候変動を防ぎ、現在の問題を管理する多国間枠組みが作られてきた。

 とはいえ、化石燃料を用いる経済がもたらす人新世の被害は、伝統的な越境汚染とは異なり、複数の空間、時間、主体にまたがり、原因とその効果が絡まり合って広がっていく。実務においては、被告がこの錯綜した状況を責任回避のためにしばしば利用する。曰く、気候変動は、無数の民間および国家の主体が何十年にもわたって引き起こした拡散的でグローバルな現象であり、いずれの国家も統御しておらず、どの国家の管轄権にも服さない。

 国際的な規制で上記の問題を改善してなお、課題は残る。既存の人権システムは、特定の被害と人権侵害との間に因果関係があることを要求するからだ。厳密な因果関係の要求は原告たちの訴えを困難にする。したがって、彼らはこの因果関係の要件を緩和するよう求めている。ここで新たに台頭したのが、進歩的・批判的アプローチである。このアプローチは、実際の被害から潜在的な被害へ、人権から非人間的主体の権利へ、特定の国家の領土から領土外へ、現在の世代から将来世代へ、と責任を負う範囲を拡大する。このアプローチは、法的な議論と実務の主流に入りつつある。

 ただし、このアプローチも、複数の空間、時間、主体にまたがって絡み合いながら生じてきたという気候変動の特徴を認識できていないため、十分ではない。この絡まり合いを真剣に受け止める研究者たちは、修復的アプローチを提唱している。このアプローチは、空間、時間、主体の面から伝統的な権利に基づくアプローチを再構成する(Petersmann 2024)。すなわち、潜在的な被害から絡まり合った被害へ、非人間的主体の権利から人間を超えた存在への配慮義務へ、国家の領土外から地上全体へ、将来世代から永続する時間へ、とさらに責任の範囲は拡大されるべきだと考える。このアプローチは、複数の空間的・時間的次元にまたがって原告が修復を求めることを可能にする。

結論

 気候変動がもつ越境的・持続的な性質は、既存の環境法と人権法に挑戦している。人間を超える問題に対処する柔軟なガバナンスが、気候変動ゆえに必要となっている。パネルの主題に戻れば、人新世において責任ある行動(または、批判的法学者たちが言うところの「応答可能性」)とは、従来の法的枠組みを超えたアプローチを探求することだ。気候変動がもたらす複数の空間、時間、主体が絡まり合う被害を考慮に入れる法的メカニズムを求めなければならない。また、人新世概念と気候変動がもたらす新たな思考は、私たちの時代における多義的な被害と不均衡な脆弱性に対する想像力をいかに持ち、いかにそれらに対処するかを問うている。

4.討論

 3報告の後、討論が行われた。民主主義の退潮は何にどう影響するか、民主主義は持続可能なのかなど多岐にわたる議論が展開された。

民主主義の退潮

 民主主義の退潮がどのような影響をもたらすか、は大きな関心を集めた。民主主義は長らく唯一の正統な政治体制として認識されてきたが、今や民主主義国であるはずの米国のトランプ大統領が率先して民主主義の価値を攻撃している。民主主義が弱ってしまい、将来的には民主主義体制は数ある政治体制のうちの1つに成り下がるのかとの疑問が生じて当然である。

 市原氏はこうした疑問に対して、トランプ大統領は民主的な価値に関心を持っておらず、今後も価値は相対化されていくだろうと予測した。そのうえで、近年、中国が自分たちこそ民主的な価値を体現しているとの主張を強めており、民主主義の価値をのっとられる危険性があると指摘し、リベラリズムに焦点を合わせたナラティブづくりをあきらめずに行っていく必要があると述べた。

 また、民主主義が後退していくならば、国際秩序も変わるとの懸念もある。唯一の超大国である米国が国際公共財を提供して成り立つ自由主義的国際秩序は、19世紀的な勢力均衡あるいは力の支配にとって代わられるかもしれない。そのような変化を防ぐにはどうしたらよいだろうか。グローバルサウスに嫌がられている欧米中心主義的な価値の押し付けと受け取られない形で世界秩序を再生することはできるだろうか。

 この点につき、市原氏は、まず、米国の覇権による安定に期待することをやめ、多国間主義的アプローチでこれを代替する必要があると述べた。その際、日本、欧州、カナダといった古参の先進国だけでなく、韓国、台湾、インドなどもリーダーシップをとり、既存の秩序を守らなければならない。また、国家だけではなく、多様なアクターを取り込むべきであり、自由主義を担うNGO、メディア、研究者らが、自由主義をまだ信じている政府と協働関係を築いて1.5トラック外交を展開していく必要があるとした。

戦争と民主主義

 正しい戦争はありうるかという問いは昔から存在しており、議論の蓄積がある。では民主的な戦争と呼びうるものは存在するのだろうか。

 市原氏はウクライナを例にとる。曰く、ロシアから侵攻されているウクライナは、外部の民主主義諸国から援助を受けるためにも、自身が民主主義国であることを示さなければならない。そのために、ウクライナは同国の根深い問題である汚職・腐敗に積極的に対処しようとしてきた。とはいえ、親ロシア的として野党を禁止したり、ニュースを大本営発表のように一本化して伝えたりしている点は、戦時中のため避けられない一方で、民主的行動という呼び方はできない。

 すなわち、戦争中のウクライナを一面的に民主的と捉えることには困難が伴う。戦争中という困難な状況に鑑みて、ある程度までは、援助する民主主義諸国は目こぼしをしていると整理できる。目こぼしが可能なのは、ロシアが一方的な侵攻に及んだからであり、その政治体制が権威主義とみなされているからであろう。

民主主義の未来

 今衰えつつある現代の民主主義は、少なくとも第2次世界戦後の80年間において、機能してきたように思える。民主主義を時代の幸運の産物に終わらせず、次世代につなげていくために必要な制度改革があるとしたら、それはどのようなものであろうか。

 あるいは、そもそも主権者である国民は主権者としてまともに意思表示できてきたのか、という既存の民主主義そのものに対する疑念もあるだろう。そうであるならば、民主主義の先をいく新しい政治体制を考える必要もあるかもしれない。

 これらの疑問に対し、瀧川氏は大きな制度改革も民主主義以外の体制も特段求めない姿勢を示し、ものごとを比較で考えるよう呼びかけた。すなわち、危ぶまれている現状の民主主義でさえも、手続き面においても実績面においても、権威主義より優れている。権威主義体制と比べれば、民主主義体制の下で主権者はよりまっとうにその意思を示すことができている。こうした優位性からすれば次世代においても民主主義を選ぶべきであろう。

 また、全く新しいものを追い求めるよりも、今ある民主主義を手直ししていく方が堅実だと瀧川氏は考える。民主主義の改良にあたっては、民主主義にバリエーションがあり、抱える問題が多種多様であることに意を払う必要があるという。あまたある問題を類型化したうえで、それぞれの類型に対して適切な対処がとられるべきだ。デモクラシーを補完する法の支配あるいは市原氏のいう価値や規範などから適した手法を選び、少しずつ改善していく方向性を瀧川氏はよしとする。

主権者・デモスの範囲

 民主主義が権威主義よりも優位であるとしても、民主主義にとって悩ましい問題はもちろん残る。筆頭に挙がるのが、主権者すなわちデモスの範囲である。瀧川氏が報告で論じたように、どこで線を引くのかを民主主義によって決めることは不可能であるにもかかわらず、線は一定の基準でとにかく引かれる。

 線の外にはじき出される典型例が将来世代である。瀧川氏は、各世代が主権を持つという世代主権の考え方をとると、現役世代が将来世代の主権を侵害していることになると指摘し、線引きの悪影響を緩和する措置の必要性を例証した。

 翻って、デモスの範囲を線引きすることに倫理的正当性があるかという疑問も成り立つだろう。これについて、瀧川氏は、デモスの境界線は自明のものとして引かれているが、根拠があるかどうかは問い返される必要があると述べた。つまり、線は引き直される可能性があるということだ。

 ただし、瀧川氏は、デモスの範囲を考えるとき、人間と非人間の関係で考えれば、非人間を必ず境界線の外に置くと述べ、人間以外の存在に対する責任を考えるジロドゥ氏とはその点が異なるだろうと指摘した。この指摘を受け、ジロドゥ氏は、線を引いて内と外にわけるという考え方自体を転換する可能性があると述べ、内と外の相互関係ではなく、内部における関係(intra-relations)という捉え方を提唱する。ジロドゥ氏は、また、こうした転換が責任概念の再構築に重要な基礎を提供しうるという見通しを示した。

人新世という概念の意義

 人新世という概念についても議論がなされた。その出自と使われ方が論点となった。

 ジロドゥ氏によると、人新世は実は新しい概念ではないという。19世紀にはフランスですでに議論されており、2000年に大気化学者パウル・クルツェンが同概念を呼び起こして提唱したとされる。

 この概念提起を、環境保護活動家や環境法学者は、最も批判的な見地から思考を練る絶好の機会を提供されたと受け止め、概念を環境法学・環境訴訟の中でさらに発展させてきたとジロドゥ氏は述べた。具体的な訴訟で活動する法律家たちは、気候変動訴訟を戦う上での理論的発展に関心を持っており、学界での議論から戦略を練り、学界の議論は実務を参照しながら行われている。このように、人新世の理論と法的実践は互いに影響を与え合っている。その意味で、人新世という発想はすでに理論だけでなく、国際気候変動訴訟の実務レベルで影響力を持っているとジロドゥ氏は指摘した。

5.結語

 本パネルでは、「責任」について、現代の民主主義が突きつけられた様々な問題にどう対処するかという観点から議論した。3つの報告は、独立した内容を持ちながらも、相互に関連し合う要素を持っている。

 市原氏は、自由民主主義が弱り切ってしまわないよう、攻撃から民主主義を守ろうと呼び掛けている。ただし、民主主義と名がつくすべてを無条件に守るべきだというわけではない。守るべき対象は、民主主義のソフトガードレールである価値、規範、慣習という、攻撃に弱いものに絞られている。このことは、民主主義のコアのありかと、それらが脆弱であることの両方を私たちに強く印象付ける。私たちはハードな制度さえ守ればよいのではなく、攻撃にさらされると容易に損なわれる価値を、責任をもって日常的かつ継続的に守らねばならない。

 価値を守る際に注意すべきは、民主主義が必然的に境界線を伴い、その外側に排除された存在があるという点である。線引きによって外部にくくりだされるにもかかわらず、境界線の内側で下された決定の影響を被らざるを得ない場合、反発したくなる人は当然少なからずいるだろう。特に難しいのは、瀧川氏が論じる時間的限界による将来世代の外部化である。彼らの選好を今の世代が適切に代表することは不可能であり、将来世代の主権に対する侵害は不可避である。しかし、だからといって開き直って将来世代の選好を顧みなければ、上の世代から下の世代へと連鎖的に負担を押し付け続けることになりかねない。そうなれば、私たちの社会の持続性は損なわれ、ひいては民主主義にも悪影響が及ぶかもしれない。

 境界線の存在が引き起こす問題への対処について、瀧川氏とジロドゥ氏は立場を異にする。瀧川氏は、民主主義が境界線を必然的に伴うことを前提としつつも、現存する政治体制の中では民主主義が優位性を持つとして、その枠内で責任を果たす姿勢をとる。すなわち、いったん境界線を引いたうえで、線引きを見直すか、線引きによるマイナスの影響を別の方法で軽減させるかで、境界線がもたらす問題に対応しようとする。いわば既存の民主主義を堅実に手直ししていく道をとる。

 これに対して、ジロドゥ氏は、人新世という視座を取り入れた気候変動訴訟において、境界性を引くこと自体を拒絶する新たな方向性が模索されてきた点に注目する。ジロドゥ氏によれば、責任ある行動(すなわち「response-ability」)とは、既存の枠組みにとらわれず、従来は存在しなかったアプローチを、粘り強く探り続けることである。すなわち、既存の制度の枠内で修正するというよりは、枠組みそのものを超えるイノベーションを志向する。

 以上の通り、責任ある行動は多様に存在しうる。わたしたちはどれかを選んで責任ある行動を心がけることもできるし、自身で責任ある行動を創造して実行することもできるだろう。

参考文献

Robert Jackson(1990Quasi-States: Sovereignty, International Relations, and the Third World, Cambridge University Press.
Marie Petersmann(2024Entangled Harms: A Reparative Approach to Climate Justice,” LSE, Legal Studies Working Paper No. 19.
Charles Tilly ed.1975The Formation of National States in Western Europe, Princeton University Press.
Lucan Way2022The Rebirth of the Liberal World Order?,” Journal of Democracy, Vol. 33, Issue 2, pp. 5-17.
スティーブン・レビツキー、ダニエル・ジブラット(2018)『民主主義の死に方:二極化する政治が招く独裁への道』新潮社

渡辺靖(わたなべ やすし)

渡辺靖(わたなべ やすし)

NIRA総合研究開発機構上席研究員。慶應義塾大学環境情報学部教授。ハーバード大学大学院博士号取得。専門は、アメリカ研究、文化政策論、パブリック・ディプロマシー、文化人類学。

引用を行う際には、以下を参考に出典の明記をお願いいたします。
(出典)渡辺靖(2025)「民主主義に対する私たちの責任―グローバルに、ローカルに、どう行動すべきか―」NIRAオピニオンペーパーNo.87

脚注
* 本稿のとりまとめは、NIRA総研主席研究員の河本和子が協力した。 * 本稿のとりまとめは、NIRA総研主席研究員の河本和子が協力した。
1 コンファレンス「いま、責任ある行動とは何かを考える―ヨーロッパと日本の視点から―」は、2025426日に赤坂インターシティコンファレンスにて開催された。同コンファレンスは、ジル・カンパニョーロ(フランス国立科学研究センター、パリ第1パンテオン・ソルボンヌ大学教授)、アドリエンヌ・サラ(早稲田大学講師)の発案を受け、共催したものである。記して両氏に謝意を表する。 1 コンファレンス「いま、責任ある行動とは何かを考える―ヨーロッパと日本の視点から―」は、2025426日に赤坂インターシティコンファレンスにて開催された。同コンファレンスは、ジル・カンパニョーロ(フランス国立科学研究センター、パリ第1パンテオン・ソルボンヌ大学教授)、アドリエンヌ・サラ(早稲田大学講師)の発案を受け、共催したものである。記して両氏に謝意を表する。

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