宇野重規
NIRA総合研究開発機構理事/東京大学教授
重田園江
NIRA総合研究開発機構上席研究員/明治大学教授
渡辺靖
NIRA総合研究開発機構上席研究員/慶應義塾大学教授

概要
 NIRA総合研究開発機構では日本人の価値観、およびそれが政府への信頼にいかなる影響を及ぼすかについて調査してきた。日本では自由と平等では自由を選択する人が多いが、それは自己と他者が等しく一定の社会規範やルールを遵守することを前提にした自由であった。そして、政府の公正さに対し強い関心を持ち、サービスが公正に配分されないことで政府への不満や不信を抱きやすい。(宇野論考)
 さらに政府への信頼は、社会的・経済的に不安定な立場にある人が低く、特に階層意識との関係が顕著である。階層意識の低さは、年収のほか「働き盛り」とされてきた年代で無職であることや、配偶者がいないことによっても影響を受ける。現在の政治家に信頼を置けず、政府のあり方にも不信感を抱く人たちは、直接的な強いリーダーシップを望むことになる。(重田論考)
 このような政府への不信は、ポピュリズムの温床になり得る。欧米と比べると日本の状況はマイルドだが、破壊主義ないし「多数派の専制」に陥らないためにも、レファレンスポイントとなる情報を多く提供・発信し、相対化してゆくことが求められる。(渡辺論考)
 日本人の自由と平等の価値観に合致した政策を展開し、より良い政治過程や政策過程を実現するためには、基本的な信頼の下に政策について議論し判断できる社会をつくり上げていくことが重要である。

INDEX

日本人にとっての自由と平等
その政策的含意

宇野重規
NIRA総合研究開発機構理事/東京大学教授

 NIRA総合研究開発機構ではこれまで、日本人の価値観、およびそれが政府への信頼にいかなる影響を及ぼすかについて調査を行なってきた。特に「日本人にとっての自由と平等とは何か」については、NIRAオピニオンペーパーを含め、調査結果の報告・発信を続けている(注1)

 そこで明らかになったのは、日本人が自由を平等より重視していること、ただし、コロナ危機でも明らかになったように、安全のための自由の制限はむしろ積極的に受け入れること、また自由を選ぶ人はもちろん、平等を選ぶ人でも「行政サービスの簡素化」を望む人が目立つことであった。

 これらの調査から浮かび上がった論点の1つが「政府への信頼」である。しばしば指摘されるように、日本において、政府に対する信頼、特に身近な地方自治体に比べ国レベルの政府に対する信頼は決して高くない。このような傾向は世界的に見られるが、日本の場合、消費税などの増税に対する忌避感が特に顕著である。またコロナ対応においても、政府による様々な施策に対する批判が根強く、ロックダウンなど政府の直接的な規制よりも自粛を選ぶ傾向が強かった。

 しかしながら、その一方で、日本においては、諸外国でしばしば見られるような、財政赤字の削減や政府の財政規律を強く求め、「小さな政府」を標榜する政党は見当たらない。所有権をはじめとする個人の自由の最大化を求め、その裏返しとして政府による規制や再配分の最小化を目指すリバタリアニズムの思想も強くない。

 結果として、増税や政府による規制を嫌うという意味で「大きな政府」を支持するとは言い難い日本人は、同時に、財政赤字の削減や政府の財政規律を強く求めず、膨大な財政赤字を許しているという意味で「小さな政府」の支持者でもない。これを日本人の自己矛盾と呼ぶのは容易だが、このような判断の背景にある日本人の自由と平等に関する微妙な感覚や、政府への信頼の両義性については、さらなる検討が不可欠であろう。

 特に注目されるのが、政府の公正さに対する日本人の強い関心である。言い換えれば、増税や政府による規制を嫌うのは、はたしてそれが公正であるかについて疑念があるからである。一連の調査を通じて浮かび上がったのは、不正に特権を享受する人々がどこかに存在するのはないか、また政府の施策はそれら「ズルい」人たちをむしろ利するものではないかという疑念の根強さであった。このような疑念は特に社会階層意識の低い層に強く見られ、結果として最も社会保障による行政サービスを必要とする人々が、むしろ政府の積極的な役割に否定的であるというパラドクスを生み出している。

 もちろんこのような日本人の感覚は歴史的に形成されたものであり、その起源や原因を単純に特定することは難しい。しかしながら、この傾向はコロナ危機を通じてさらに強まっている。それだけに、これから政府への信頼を回復し、様々な政策の実現を可能にするためにも、このような日本人の価値観についての分析と評価が重要である。以下の報告はいずれもあくまで仮説的なレベルでの推論にとどまるが、今後の検討の一助としたい。

 最初に日本人の自由と平等の感覚について指摘しておきたい。すでに言及したように、日本人は平等より自由を重視する傾向にあり、この傾向は国際比較においても顕著である。しかしながら、その場合の自由とは個人の無制限な自由を擁護するものではなく、むしろ自己と他者が等しく一定の社会規範やルールを遵守することを前提にした自由である。

 コロナ危機においても、ロックダウンなど政府による直接な規制を嫌う日本人は、同時に移動や行動の自由の無制限な承認にも消極的であり、多くが人々の自発的な「自粛」を評価した。そこに見られるのは、法的な規制ではなく、むしろ諸個人が自ら社会的に望ましい行動を取ることへの期待であった。逆に、そのような期待に反する他者の行動に対しては厳しく、それが強まれば、コロナ期間中に見られたいわゆる「自粛警察」のような同調圧力ともなる。

 社会秩序や安全のために一定の制約を自ら引き受けることを厭わない日本人は、同様の制約を他者も受け入れることを期待する。その意味においては、日本人にとっての自由は「平等な自由」である。

 ただし、それは道徳法則が普遍的であることを求めるカントのそれとも(注2)、多様な価値観を持つ人間の共存のルールとして正義を捉えるロールズのそれとも異なる(注3)。日本人にとっての基準は、時に「空気」(山本七平)(注4)、時に「世間」と呼ばれる、ある種の社会的コンセンサスであろう。コロナ期間中においても、公共の場所におけるマスクの着用を求めたのは政府による規制ではなく、一定の社会的なコンセンサスであった。

 ただし、これを「日本人の特殊性」とみなす必要はない。これはこれで世界に広く見られる、1つの「平等な自由」のあり方だろう。問題はむしろ、この報告で渡辺靖が強調しているように、「平等な自由」を支える「レファレンスポイント(参照点)」の混乱である。

 日本人にとっての「自由」の感覚が、ある種の「平等」の理念に支えられているとすれば、重要なのは参照点となる他者の存在である。人々は日常的に、自分の行動や判断を比較するための他者を探し求めている。そのような参照点としての他者を基準に、自らの振る舞いを決定し、今度はその基準の実現を別の他者に求める。それが満たされないときに感じるのが、「ズルさ」への不満である。

 ところが現在の日本において、伝統的な地域はもちろん、会社や業界といった、これまで個人にとってレファレンスポイントとなってきた中間集団が弱体化している。人々は比較の基準を見失い、テレビのワイドショーやSNSなどのネット情報への依存を強めている。結果として基準はときに迷走し、ときに急進化する。「特権」や「上級国民」といった「ズルい」人々への批判がしばしば話題になるのが、その証左であろう(注5)

 逆に、財政や社会保障問題を論じるにあたっては、先々の生活に不安を感じる高齢層と、自分たちが無視されていると不満を感じる若年層、さらに子育てと介護の負担に苦しむ中間世代を結びつける共通の基準は不在である。それぞれは他の年代に対して不満と断絶を感じ、世代を超えた、義務と権利、負担と享受のバランスあるイメージを抱きにくい。

 その意味では、現在求められているのは、年齢や性別、置かれた境遇の違いを超えて、人々が自らの人生を展望するためのレファレンスポイントを回復することであろう。生涯を通じて見るならば、自分の負担と享受にはバランスが取れており、しかも他者と比較しても公平で平等である。このような感覚を取り戻すための基準を再検することが、今後の日本にとっての大きな課題となるはずである。

 関連して政府への信頼についても一言しておきたい。政府への信頼の低下は世界的な現象であり、特に世代が低下するにつれてその傾向が強まるのも共通している。ただし、政府への信頼を失ったために、それに代えて市場化や民営化を重視する新自由主義や、個人の絶対的な所有権を擁護するリバタリアニズムが強まっているアメリカと比べると、日本でいう「政府への不信」はそれとは異質であるように思われる。日本人の「小さな政府」志向は決して強くない。人々は間違いなく政府に一定の期待をしているが、そのサービスが公正に配分されていないことに不満を募らせているのである。

 同様に、政府の財政破綻から自国の政府や通貨を信用せず、米ドルなどの保有へと人々が走る南米諸国の場合とも違っている。日本の場合、一部の例外を除いて、海外への移住や、自らの資産を海外へと移転する動きは加速していない。むしろときに「内向き」と言われるような国内志向が世代とともに強まり、自国通貨への信頼も低下していない。このような傾向が今後も続くかは定かでないが、少なくとも現状においては、南米諸国に見られるような政府不信は希薄である。

 そうだとすれば、日本における「政府への信頼の低下」なるものは、新自由主義的な市場・個人志向とも、自国やその政府への不信による海外志向とも結びついていないことになる。むしろ一定の「良き政府」への期待があるために、逆にそれが充足されないことによる不信や不満が目立つようになっていると捉えるべきであろう。

 もちろん、だからと言って、日本の状況が相対的にはましであると評価するわけにはいかない。すでに指摘したように、NIRAの調査でも、社会階層意識が低いほど、政府やその政策への不信が強く、政党支持においても新興政党へと向かう傾向が見られる。日本において現状においてポピュリズムの脅威が極めて大きいとは言えないが、今後、社会階層意識がより高い層においても同様の傾向が強まれば、政党支持の構造が一気に流動化することも考えられる。現在のような政府への信頼の低下を放置するならば、大きな不安定化要因となることは間違いない。

 今後、日本においてより良い政治過程や政策過程を望むのであれば、この報告で重田園江が指摘しているように、「基本的な信頼の下に政策について議論し判断できるような社会」をつくり上げていくしか道はないだろう。日本人の自由と平等の価値観に合致し、人々に生涯にわたるバランスある負担と享受の展望を提供するための、公正で信頼ある政策形成のネットワークを構築すべきである。このことをもって本報告の結論としたい。

宇野重規(うの しげき)

NIRA総合研究開発機構理事。東京大学社会科学研究所教授。専門は西洋政治思想史、政治哲学。

日本人が政府を信頼しない背景
NIRA基本調査の結果から

重田園江
NIRA総合研究開発機構上席研究員/明治大学教授

はじめに:「政治的無関心」という古典的な問い

 「日本には政治的無関心が蔓延している」。こうした主張は数十年前からある。そもそもこの概念は、リースマンが『孤独な群衆』で1950年にすでに提示していた。リースマンは同書で、「政治はお上がやるもの」という伝統的なタイプとは異なる、新しい政治的無関心に着目した。それは、政治に関する一定の知識と政治参加の重要性の認識を持つ人々が、それにもかかわらず政治に冷淡な態度を取ることとして描写された。つまり、民主主義と政治参加がそれなりに行きわたった社会における政治的無関心は、必ずしも昨今の日本に特有の問題ではないということだ。むしろ、大衆社会あるいは民主主義社会に共通する政治的な課題であるといえる。

 実は政治的無関心はつかみどころがなく、リースマンの著書でもその像ははっきりしない。政治に無関心でも投票に行く人もいれば、突如として政治的行動に駆り立てられる場合もあると、リースマンは指摘している。

政府への信頼

 コロナ禍で焦点化されたのは、政治的無関心とは似て非なる政治的態度としての「政府への信頼」だった。政治的無関心は、自ら積極的に政治に参加するか、政治の話題に興味を持つかなど、人々の「能動的」な政治的態度や行動の欠如として理解される。これに対して政府への信頼は、政府が行っていることを市民が評価する場合、また政府の要請にしたがうかどうかを決める場合に表れる。ここでは、能動的な政治参加が行われるかどうかではなく、政府による特定の政策や行動指針を是認するか否かという、政策の受容者としての態度が問題となる。

 現にNIRA調査でも、政治への関心と政府への信頼は必ずしも連動しないことが示されている(図1)。

図1 政府への信頼と政治への関心

(注)本文中の図表は、NIRA基本調査(本文ではNIRA調査と記す)の集計結果である。調査は2023年3月オンラインで行われた。回収数は2,000件であり、うち有効回答数は1,805件であった。分析はトラップ設問をクリアした人のみを対象とし、「国勢調査(2020年)」の18歳以上の日本人を母集団とみなしウェイトによる補正を行った。

なぜ信頼が問題となったのか

 コロナ禍では、ふだんは見られないような、市民の日常生活の基本的な部分にまで立ち入る、政府によること細かな要請が出された。

 なかでも、都道府県をまたいだ移動の自粛やテレワークの要請、学校の休講やオンライン授業など、移動や行動の制限が、コロナ以前には想像もできなかった規模で行われた。

 そうなると、政府が繰り出すあれこれの要請に対して、どういう根拠があるのか、なぜ生活が制限されるのかが問題になる。また、それによって飲食業や旅行業をはじめとして、商売が成り立たない人たちが出てくるのをどうするかなど、行動制限に付随した問題も続出した。つまり、人類が100年間経験しなかったパンデミックをきっかけに、基本的な行動の自由が制限されたことで、政府への信頼というテーマが大きくクローズアップされることになったのだ。

 そして、行動制限やワクチン接種など、政府からの要請や指針が出るたびに、その妥当性が疑われ、批判が噴出した。根底には、「本当に政府の言う通りに行動すべきなのか」という疑念や、持続化給付金などを含めた政策が、適切かつ妥当なものかについての厳しい見方があった。

 コロナに関する専門家会議からの提言や政府の方針をめぐって、人々は不満を募らせ、メディアでは毎日喧々諤々の論争が行われた。いまとなっては、感染症はいつか沈静化するのだから人々はもう少し冷静であってもよかったと思われる。だがそのときは、いつ終わるとも知れない不自由へのいら立ちがあり、格好のはけ口が政府だったようにも見える。

 いずれにせよ、こうした議論や意見表明を通して、「日本における政府への信頼」というテーマが焦点化されたことはたしかだ。

政府を信頼しないのはどのような人か

 日本では政府への信頼度があまり高くないことは、コロナ以前から指摘されてきた。もっとも、アメリカでも急速に信頼の数値が落ちてきているので、これも日本だけの問題ではないのだろう。

 では、日本の内部をもう少し詳しく見た場合に、相対的に政府を信頼しないのは、どのような人たちだろうか。コロナ禍によって、私たちは奇しくも政府への信頼を測る具体的な争点をいくつも手にすることになったので、これらについて見ていこう。

 以下では、コロナ禍で行われたNIRA調査をもとに政府への信頼と社会属性との関係を示し、信頼/不信の要因となっている事柄を確認していく(図2)。

図2 属性別にみた政府への信頼

 最初に概観を述べる。年齢区分では若年層は政府への信頼度が低く、学歴では大学院卒、年収では1,000万円以上の高学歴・高所得層は政府への信頼度が高い。年齢、学歴、年収ともに、それ以外の層ではあまり差が見られない。

 年収よりむしろ顕著なのが、階層意識による信頼度の差である。階層意識が低いほど信頼度は下がる。

 NIRA調査から、高齢者を除いた現役世代で見ると、階層意識と世帯年収は比例していることがわかる。しかし、年収のみが決定的な要素ではない。

 年齢・性別・職業を指標としてこの点を見た場合、40〜59歳の無職男性が最も階層意識が低いことが分かる。また、配偶者ありは配偶者なしより男女ともに階層意識が高くなる(図3)(図4)。

図3 階層意識別にみた世帯収入(60歳未満)

図4 就労状態と階層意識

 つまり、40代から50代という「働き盛り」とされてきた年代で無職であること、また配偶者がいないことなど、社会的な地位や属性が階層意識を決定する要因となっていることが分かる(図5)。

図5 配偶者の有無と階層意識

(注)女性については目立った差が見られなかったため、男性のみについて示す。

 ここで政府への信頼と経済の見通しとの関係についても述べておく。自身の家計、日本経済の将来ともに、先行きに厳しい見方をする人は、政府への信頼が低くなる(図6)。

図6 1〜2年後の日本経済への見通しと政府への信頼

 また、野党支持者で政治家への信頼度が低い人は、一般に政府を信頼しない(図7)。これについては、政治家が私利私欲のために動くといったイメージを持っていれば、政治家不信と連動して政府への信頼度が下がるのは当然のことだろう(図8)。

図7 支持政党と政府への信頼

図8 国会議員への信頼と政府への信頼

階層意識とポピュリズム政治

 階層意識の低い人は、政府以外の対象への信頼度も全般的に低い(図9)。ただし、新聞・雑誌、家族、市民社会への信頼と比較した場合、SNSへの信頼度は相対的に高くなる(図10)。階層意識が低いと、失業や生活費の心配が大きくなり、目の前の生活をやりくりすることで精一杯だということが分か
る。

図9 階層意識別にみた信頼度

(注)各対象について「非常に信頼する」を3点、「やや信頼する」を2点、「あまり信頼しない」を1点、「全く信頼しない」を0点とし、その平均値を算出した。

図10 階層意識別にみた近い将来の心配事

 そのため年金や生活支援といった、自身の生活にダイレクトに関わってくる政策について、政府に不満を持つ。また、将来のための自己鍛錬を行う暇もなく、自分よりも後に来る将来世代に対して、その未来を顧慮する余裕もない人が目立つ(図11)。

図11 階層意識別にみた学習・自己投資・訓練にかける時間

 低い階層意識を持つ人たちはまた、努力によって豊かになれると思うことができない。そして、自身の行動が政治的に意味を持つとも思えなくなっている(図12)(図13)。

図12 政府への信頼とポピュリズム傾向

図13 階層意識と生活・政治への意識

 現状の政治家に信頼を置けず、政府のやり方にも不信感を抱くこうした人たちは、おそらく政党政治や代議制に失望しているせいで、直接的な強いリーダーシップを望むことになる。これは階層意識の低い人々が、ポピュリズム政治へと巻き込まれていきやすい心理状態を示しているように思われる。

 とりわけ、若くて階層意識の低い人は、年金制度、学校教育、子育て支援、雇用支援の全てついて、他の人たちよりも強い不満を持っている(図14)。

図14 若く階層意識の低い人の政策への不満

政府を信頼しない人の像を把握する

 政治的無関心と政府への信頼は異なるという知見は、それ自体重要である。政治への関心はあるけれど、かといって政府を信頼していない人がいることは、容易に想像できる。むしろ政治への関心が強いために、政策の不公正や政府の瑕疵、政治家の無責任などに気づく機会が増え、不信感が増すこともあるだろう。逆に、政府を信頼できないという思いがつねにその動向に注意を払うことにつながり、政治への関心を呼びさます場合もありうる。

 信頼と(無)関心との関係は、このように一筋縄ではいかない。だが一方で、NIRA調査をもとに述べてきたような「政府を信頼しない人」の像を示されると、不安をかき立てられはしないだろうか。

 もちろん、階層意識の高低をそれ自体として見るなら、それはいいものでも悪いものでもない。階層意識が高くても自暴自棄の人だっているだろうし、階層意識が低くても希望を持って生活している人もいるだろう。

 しかし、NIRA調査に見られるように、階層意識が低い人が目先の生活に手いっぱいで、将来のことを考えることも自己鍛錬する余裕もないとしたらどうだろう。また、努力しても無駄だと感じ、たとえ何か政治的なアクションを起こしたとしても自分は無力だと考えているとしたら。さらにはこうした諦念の一方で、現状の政策や政府のやり方に強い不満を抱いているとしたらどうだろう。

 階層意識が低いほど政府への信頼度が下がる国というのは、誰のための政治が行われている国なのだろう。これは、政治は誰のためか、とりわけ政府による政策はどんな社会を目指しておこなわれるべきなのかという問いへとつながる。

 たしかに、階層意識の高さが現状の生活への満足を伴っており、それが政府への信頼につながることは、一面では理解できる。だが他方で、将来への希望が持てず、政策にも不満が大きい人々が、階層意識の低い層の中で一定割合いることは、その人たちだけでなく、社会にとっても政府にとっても不幸なことである。

 階層意識が低く、政府を信頼しない人たちとは、どのような存在なのか。今後はこの人たちの労働形態や過重労働の有無、孤独感やつながりの問題など、必ずしも政治的な事柄にかぎらない多様な側面について、さらなる調査が必要だと思われる。

 それを通じて、政府を信頼するかしないかという、コロナ禍での人々の行動決定をめぐって期せずしてクローズアップされた政治の一側面が、今後の日本の政治のあり方を測り、導く上で、重要な示唆を与える可能性がある。

 階層意識には、物理的・客観的な生活水準や年収だけでなく、配偶者の有無など家族のあり方、また周囲からの承認についての自己理解、そして「世間」の中で自己の位置をどう捉えるかなど、社会関係と社会意識を示す指標がさまざまに反映されている。だからこそ、政治への態度や政府への信頼を見る上で、階層意識との関係に注目すべきだ。

おわりに

 コロナ禍で真っ先に雇用を切られたのは、社会的弱者だった。また「エッセンシャル・ワーク」と称して、感染の危険を伴うハードな対面労働の継続を強いられたのもまた、社会的弱者であった。

 他方で、一部の企業が政府からの莫大な支出の受け皿事業を受注して大儲けしたこと、持続化給付金の不正受給などが広く知られるようになった。

 こうした1つひとつの事柄が全て、政府が信頼を得られるかどうかに関わってくる。人々が「ずる」や「不信」といったネガティヴな感情に支配されることなく、基本的な信頼の下に政策について議論し判断できるような社会を作るには、政治的信頼に着目したさらなる調査が必要である。

重田園江(おもだ そのえ)

NIRA総合研究開発機構上席研究員。明治大学政治経済学部教授。東京大学大学院総合文化研究科博士課程満期退学。専門は政治思想、ヨーロッパ政治社会思想史、現代思想。

日本における政治不信とポピュリズムの行方
米国との比較から

渡辺靖
NIRA総合研究開発機構上席研究員/慶應義塾大学教授

「自由」や「平等」よりも「世間」

 「自由」と「平等」は必ずしも対概念ではない。「自由を平等に保障する」「不平等は不自由をもたらす」など、含意や文脈によっては矛盾なく用いることができる。本プロジェクトでは私が(リバタリアニズムに関する拙著があることから)「政府の関与や介入に否定的」=「自由放任的」との立場からコロナ禍における防疫体制や支援体制に関して調査協力してくださった方々を「挑発」する役割が期待されていた。

 その過程で分かったことは、人びとは必ずしも「自由とは何か」「平等とは何か」に関して確固たる原理原則を有しているわけではなく、むしろ「周囲」=「世間」の空気を参照としている点である。これは「自由」や「平等」をめぐる論争や闘争を経てきた欧米の民主主義国との歴史的経緯の違いに由来しているのかもしれない。たとえば、米国では再分配から社会保障、銃規制、教育カリキュラムにいたるまで、「自由とは何か」「平等とは何か」を考える習慣(ハビトゥス)が日本よりも根付いていると思われる。

 日本の状況が善いか悪いかは分からない。「自立した自由市民」という観点からすると日本の状況は付和雷同的であり、「多数派の専制」につながりかねない。その一方で、個々人の原理原則にこだわるあまり、妥協が「敗北」と見なされ、人々の協調メカニズム=ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)が棄損される状況が望ましいとも思えない。

 もっとも「世間」の空気を参照するといっても、「世間」を捉える視座は一様ではない。究極的には個々人によって異なるが、ある程度、社会的な属性の影響を受けると私は考える。すなわち方法論的個人主義(=名目論)に落とし込むのではなく、世代、性別、居住地域、所得、学歴、職業などによって何かしらの傾向は確認できるのではないか。NIRAのアンケート調査はその点で極めて有意だった。

米国との比較

 とりわけ興味深かったのは、「ズル」に対する鋭敏な感覚である。他者が「ズル」を働くことに厳しい眼差しを向けている。これは必ずしも日本特有の現象ではない。米国では左派は「ビッグ・ビジネス」が、右派は「ビッグ・ガバメント」が、それぞれ市民の利益を蝕んでいると批判している。2010年代には左派による「ウォール街を占拠せよ」運動と右派による「ティーパーティ」運動が起きた。それはそれぞれ「サンダース旋風」、「トランプ旋風」へとつながっていった。

 政策的には両者は「水と油」の関係にあるが、ポピュリズム(反エリート主義)という点では共通している。陰謀論というと右派を連想しがちであるが、左派の側でも「ビッグ・ファーマ(製薬会社)が政府と結託して(科学的効果が十分に立証されていない)ワクチンを推奨し、市民の安全を犠牲にしながら、グローバル資本を追求している」との陰謀論は存在する。右派の側の「政府による個人の権利の侵害」とは異なる理屈だ。

 陰謀論はやや極端としても、「われわれ」対「やつら」という図式で社会関係を捉える政治的トライバリズム(部族主義)は今日の米国政治におけるキーワードと言って良い。いわゆる「ウォーク文化」や「キャンセル文化」などはその派生的現象である。現代の米国政治における逆説の1つとして、医療保険改革や公害対策など、労働者層に大きな恩恵をもたらすはずの政策を当の労働者層自らが拒む傾向が指摘される。単に実利面での合理性だけでは説明がつかず、「反リベラル」「反政府」など、社会認識の根底にある「ディープストーリー」まで理解する必要が指摘されている(注6)

 米国で「ズル」に対する鋭敏な感覚が助長された要因としては、格差拡大(ジニ係数の増大)や地域コミュニティの衰退などによるソーシャル・キャピタルの低減が挙げられる。また、政府に対する信頼度が(戦時や好景気時を除き)ほぼ右肩下がりとなり、1960年代半ばの70%台後半から、近年では20%前後を低迷している点も指摘できよう(図15)(注7)

図15 アメリカにおける政府に対する信頼の推移

(出所)Pew research center, Public Trust in Government: 1958-2023

日本における注目層

 もっとも、ポピュリズムの波が国政の中心にまで及んでいる欧米と比較すると、日本の状況はかなりマイルドに思われる。その理由としては、深刻な移民・難民・人種問題に直面していないこと、失業率が低いこと、政党のコントロール(候補者公認や党議拘束など)が強いこと、議院内閣制であること、などが挙げられよう。コロナ禍においても主要な政党やメディアは基本的な防疫対策(3密回避やマスク着用、ワクチン接種など)を奨励していた点は共通していた。

 ただ、今回のNIRAのアンケート調査では、「ズル」に対する感覚があらゆる属性に均等に存在しているわけではないことも浮き彫りになった。総じて言えば、社会的・経済的に不安定な層、より具体的には、若年層や低学歴層、低所得層において、政治への信頼度が低い点がうかがえる(注:政治不信と政治的無関心は必ずしも同義ではない。たとえば、政治に関心はあるが、政府を信用していないケースは十分に想定し得る)。調査結果からは、政策に対する不公平感から政府への不信感を抱いているケースや、社会階層意識が低く、世間への猜疑心をもちやすいケースが多い点が推察される。

 米国では「若年層」は左派のポピュリズムに、低学歴層や低所得者層は右派のポピュリズムに、それぞれ共感しやすい傾向が見られる。双方ともに、「内向き」傾向が強く、保護主義色が濃く、海外支援や対外関与(ウクライナ支援を含む)に消極的である。ヨーロッパにおいても概ね同様の傾向が見受けられる。日本の場合、「若年層」が果たして左派のポピュリズムに共感しがちなのかは不明である(むしろ革新系の政党を守旧派、逆に、保守系の政党を改革派とみなす傾向があると見聞する)。ただ、今後、人口比率を増すこの層が世論形成に与える影響については注視する必要があろう(注8)

 近年の生成AIやロボット化などの技術革新によって、米国では産業構造が大きく変容しつつある。かつてないほど生産性が高まり、「創造的破壊」が起こりやすく状況は高学歴・高スキルの「持てる者」にとっては大きな機会が眼前に現れることを意味する。その半面、「持たざる者」にとっては社会参加へのハードルがより高くなり、疎外感や被害者意識が助長されかねない。つまり「ズル」している者を引き摺り下ろし、叩きのめしてくれるポピュリストを「救世主」のごとく待望する誘惑が左右双方で高まる可能性がある。程度の差こそあれ、日本もこうした大きなトレンドと無縁ではないかもしれない。

 私自身はポピュリズムを必ずしも否定的に捉えておらず、民主主義は一定程度のポピュリズムを必要としているとさえ考えている。さもなければ特定の権力ないし権力者が固着化・世襲化し、事実上の権威主義や身分制社会に限りなく接近すると危惧するからである。とはいえ、情動的ないし煽動的に走りすぎてしまえば、ポピュリズムは単なる破壊主義ないし「多数派の専制」に帰結してしまう。内政のみならず、外交や地方政治にとってもそれは不幸であろう。

求められるレファレンスポイント

 そうした事態を回避するのはどうすれば良いか。技術革新や所得格差、学歴社会などは構造的な課題であるため、即効性のある解決策はないかもしれない。ただ、情動的ないし煽動的になりがちなリスクをヘッジする1つの方法としては、「ズル」と思われている事象に対し複数の参照点(レファレンスポイント)を提供するのはあり得るのではないか。たとえば、海外との比較や過去との比較を通して、今、感じている「ズル」をより相対的に捉えることができよう。

 本レポートを執筆している時点(2023年9月)では、たとえば、自民党の国会議員が海外視察の際に観光名所で撮った写真が政治問題化し、党の女性局長を辞任する結果となった。議員辞職を求める声も存在している。物価高騰で生活に汲々とする市井の人々の現実とはかけ離れた「上級国民」の優雅な姿に「ズル」さを感じている点や、国会議員としての緊張感のなさや海外視察制度そのものの見直しを求める点は理解できる。

 しかし、仮に米国の連邦議員が東京タワーをバックにした写真をSNSにアップロードしたとして、これほどの大ごとになるとは到底思えない。日本と米国のどちらが「健全」なのかを論じているわけではない。海外との比較や過去との比較を通して、自らの社会が知らぬ間に陥ってしまっている認識バイアスに気付くかもしれないということである。この点は、「ズル」に憤慨している市民のみならず、政策担当者や研究者にとっても必要と思われる。あるべき「自由」や「平等」、さらには「民主主義」の姿について真摯に論じているつもりでも、気づけばエスノセントリックな「ズル」さの感覚や基準に流されている可能性についでは自覚的であるべきだろう。NIRAのようなシンクタンクは喫緊の政策課題に対して、そうしたレファレンスポイントを積極的に提供・発信してゆくべきだと思われる。

渡辺靖(わたなべ やすし)

NIRA総合研究開発機構上席研究員。慶應義塾大学環境情報学部教授。ハーバード大学大学院博士号取得。専門は、アメリカ研究、文化政策論、パブリック・ディプロマシー、文化人類学。

引用を行う際には、以下を参考に出典の明記をお願いいたします。
(出典)宇野重規・重田園江・渡辺靖(2023)「政治不信は民主主義をどう変えるのか―社会に潜むネガティブな感情をつかむ―」NIRAオピニオンペーパーNo.74

脚注
1 宇野重規(2022)「日本人にとっての自由と平等とはなにかー熟慮・熟議型調査から考える(3)ー」NIRAオピニオンペーパーNo.62、宇野重規・重田園江・渡辺靖(2022年4月号)「2000人調査から見えた日本人の『自由』と『平等』観」中央公論 pp.134-145.
2 イマニュエル・カント・波多野精一他訳(1979)『実践理性批判』岩波文庫
3 ジョン・ロールズ・神島裕子他訳(2022)『政治的リベラリズム 増補版』筑摩書房
4 山本七平(2018)『空気の研究』文春文庫
5 現在、日本人の平等への評価が低いことも、このことと関係しているのかもしれない。さらなる検討が必要である。
6 Thomas Frank, What’s the Matter with Kansas: How Conservatives Won the Heart of America, Metropolitan Books, 2004. A.R.ホックシールド(2018)『壁の向こうの住人たち アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』岩波書店
7 渡辺靖(2022)『アメリカとは何か 自画像と世界観をめぐる相剋』岩波新書
8 同上

©公益財団法人NIRA総合研究開発機構

※本誌に関するご感想・ご意見をお寄せください。E-mail:info@nira.or.jp

研究の成果一覧へ