研究報告書 2024.07.31 アジアの「民主主義」第7章ミャンマーミャンマー危機とアジアの民主主義 この記事は分で読めます シェア Tweet 中西嘉宏 京都大学大学院東南アジア地域研究研究所准教授 概要 軍支配による政権が長年続いたミャンマーで、2016年に民主的な選挙で選ばれたアウンサンスーチー政権が誕生した。スーチー政権の発足当初はミャンマー民主化の実現として、国内外から大きく歓迎されたが、それからわずか5年後の2021年に起きた軍事クーデターによってスーチー政権は転覆する。クーデターの発生でミャンマーの民主主義は後退したとされる一方、正統な国家の存在が危ういなかでそもそも民主的な政治の前提条件があるのかどうかも疑問視されている。 現在も軍政が続くミャンマーは、多くの人々が期待していた2020年代の行く末とは大きくかけ離れている。民主化の停滞どころか、軍事政権もまた安定せず、国家という形式そのものが危機に陥っている状態だ。統治能力と正統性を欠いた国家で民主主義が機能することは非常に困難であり、ミャンマーの今後は不確実性が極めて高いといえる。 植民地統治からの独立以降、ミャンマーでは国家としての統治能力の脆弱性と少数民族との国民統合の失敗は大きな問題とされてきた。そして、民主的な権利を制限しながら経済開発に注力するという開発体制、いわば独裁制と民主主義が共存するハイブリッド体制が維持できず、国家が脆弱化したといわれる。民主化が必ずしも万能な最適解ではないことを示すミャンマーの事例は、アジアの民主主義を再考するきっかけとなるだろう。アジアの「民主主義」・序論―欧亜比較の観点から―・第1章インド―権威主義革命と「世界最大の民主主義国」の行方―・第2章シンガポール―シンガポール政治の変容と将来:緩やかに進む民主化への道―・第3章パキスタン―ポピュリスト政党後の政党連合政権、軍部の影響力―・第4章フィリピン―グローバル化とフィリピンの政治変動―・第5章タイ―タイの今とこれから―・第6章インドネシア―インドネシアの今とこれから―・第7章ミャンマー―ミャンマー危機とアジアの民主主義― PDFで読む INDEX はじめに 1.主要政党と野党、その動き 2017年までのミャンマー政治史 2つの危機:(1)2017年ロヒンギャ危機 ロヒンギャ危機の構造的要因 2つの危機:(2)2021年2月のクーデター発生 2.どのような勢力と政党が結びついているのか 3.直近の選挙 今後の動向 4.対外関係 5.まとめ ミャンマー連邦 基礎情報 図表表1 ミャンマー政治史(主な概要)図2 ミャンマーの武力衝突数(2021年1月〜2023年8月) はじめに 軍支配による政権が長年続いたミャンマーで、2011年に民政への移管が実現し、2015年には自由で公正な選挙が実施された。その選挙で選ばれたアウンサンスーチー政権が2016年に誕生した。ミャンマー民主化の実現として、スーチー政権の発足は国内外から大きく歓迎されたが、それからわずか5年後の2021年2月1日に軍事クーデターが勃発したため、民主的に選ばれた政権は転覆することになる。クーデターが起きたことで、ミャンマーの民主主義は後退したといえる。しかし、そもそもスーチー政権が民主主義だったのか、また、民主主義が安定するための前提条件がこの国にあるのかどうか議論の余地がある。つまり、2016年にできたスーチー政権でさえ、脆弱な民主主義の基に成り立っており、民主主義が前進したという認識自体が錯覚だったとも考えられる。そうなれば、軍事クーデターの発生は、予期せぬ出来事ではなく、予想の範囲内の出来事だと受け止められる可能性もあるだろう。それは何故か。 10年以上に渡り世界各地で民主主義の危機が議論される一方で、ミャンマーのように、そもそも欧米列強による植民地統治のもとで国家形成が進んだ国々では、国民統合や国家のガバナンスの面で多くの問題を現在も抱えていることが多い。例えば、東南アジアでも制度的にはフィリピンやインドネシアが民主主義国家と言われているが、実際に権力を握るごく少数のエリートに富と権力が集中しがちなオリガーキー(寡頭制)であるとよく指摘される。こうした社会では階層を移動する社会的流動性が極めて低く、家族間で権力を継承していくことも少なくない。こうした事態は長年問題視されてきたもので、「民主主義の後退」という現在の世界的潮流とは必ずしも直結していない。見方によっては、「民主主義の後退」とされるような現象は従来から存在していたともいえるだろう。表面的な政治体制に焦点を当てるだけでは、各地域、各国の政治的動態を正確に知ることは難しいのである。 日本では1990年代からアジアの政治経済発展をめぐる開発体制論が盛んになり、国民の生活水準が上昇することで、民主的な権利や自由に対する制限を国民が受け入れる体制の持続が議論の対象となった。その後も、アジアの現状を理解するために、民主主義だけでなく、その他の論点も含めて、アジア政治をどのように理解するのかについて検討が行われている。 本章では現在も様々な側面で危機に瀕するミャンマーについて、2017年に発生したロヒンギャ危機や2021年の軍事クーデターという2つの危機に焦点をあて、スーチー政権の転覆の理由やミャンマー軍の影響力、そして国際社会の中での日本の役割と在り方について考察する。 1.主要政党と野党、その動き 2017年以降、ミャンマーでは2つの大きな危機に直面している。1つ目は、ロヒンギャ危機と呼ばれる2017年に発生したムスリムに対する迫害と大量の難民流出が挙げられる。2つ目の危機は、アウンサンスーチー政権下で起きた2021年の軍事クーデターである。それぞれの危機について述べる前に、2017年までのミャンマー政治史の概要を整理する。 2017年までのミャンマー政治史 ミャンマー政治史を確認するうえで留意すべき前提として、軍事政権時代(表1)が著しく長期に渡り続いていたことが挙げられる。第2次世界大戦後の1948年にミャンマーが独立した際にイギリス型の議会制民主主義を14年間採用したが、その間もクーデターが発生していた。1958年に1度目のクーデター(1960年の総選挙後に軍は政権を文民政府に移譲)が起き、1962年には2度目の軍事クーデターが勃発した。こちらは軍が主導して1988年まで社会主義的な軍事政権を続けた。その後、1988年のクーデターで社会主義が終わって直接軍事政権に転換し、2011年の民政移管まで続く。民政移管後は半分軍事政権のような体制だったが、2016年にスーチー政権が発足したことで民主化は進んだ。しかし、2021年のクーデターにより、ミャンマーは様々な側面において歴史的転換点を迎え、現在に至る。 表1 ミャンマー政治史(主な概要) (出所)筆者作成 ミャンマー政治史を外観して重要なのは、ミャンマーの軍政が、タイやインドネシアの軍政とは異なり、憲法や議会のない期間を長く経験していることである。具体的には、1962年から1974年の12年間、1988年から2011年の23年間がそれに該当する。その間、憲法や議会がないまま軍が統治していた。そのため、憲法で政治的な競争ルールを決め、全員で合意するという立憲主義的な基礎がきわめて脆弱である。2011年の民政移管時に発効された憲法も、2008年の軍事政権下で起草されたもので、政治勢力間の合意ではまったくない。クーデター後は軍に抵抗する勢力は、2008年憲法の無効を一方的に宣言し、軍も抵抗勢力も互いをテロリストと糾弾しあっている。機能不全だといってよい。 国際的な民主主義の指標を用いると、当然のことながら2016年のスーチー政権発足時に民主主義指数が急激に上がっている。例えば、Polity5が出した民主主義指標では、2016年のミャンマーを上限値10に対して8という高評価をつけている。これは私には過大評価だと感じる。スーチー政権誕生によりミャンマーが民主的になったという国際的な誤解を反映しているのだろう。次にスーチー政権発足から2021年のクーデター発生までの経緯と現状について、2つの危機を通してみていきたい。 2つの危機:(1)2017年ロヒンギャ危機 他のアジア諸国と同様に、ミャンマーでも宗教的少数派への対応には、多くの課題を抱えている。ミャンマー西部に位置するラカイン州では、ロヒンギャと呼ばれるイスラーム教徒が長年暮らしてきた。彼らはバングラデシュに住むムスリムと比較的に近い特徴を持ち、言語はベンガル語のチッタゴン訛の強い言葉を話す。2017年8月25日にラカイン州のミャンマー軍や警察の施設30カ所以上が、ロヒンギャのムスリム武装勢力に襲撃された。これに対し、ミャンマー軍はラカイン州北部を作戦地域に指定し、掃討作戦を開始した。掃討作戦の内容には不明な点が多いものの、相当数の死傷者が出て、広範囲で村落が破壊されたものと考えられる。隣国のバングラデシュにロヒンギャ難民が70万人流出したと言われる。現在バングラデシュ側にある難民キャンプには、以前からいた難民と合わせて約100万人近くが暮らす。 事件の解明のために、国連の人権理事会の調査委員会が発足し、ほかにもアムネスティ・インターナショナルやヒューマン・ライツ・ウォッチなどの国際人権団体、さらに国境なき医師団のような人道支援団体も調査を行った。それらによると、武装勢力だけでなく、民間人の殺害がなされ、さらに広範囲にわたり村が破壊されたということが明らかになった。しかしながら、現場での調査が許されず、援助関係者も非常に限定された形でしか近寄ることができないため、実態の解明には至っていない。それどころか、軍側はあくまで「テロリスト」に対する攻撃だったと主張しており、謝罪も反省もしていない。当然ながら、国際的な非難がミャンマー政府に集まり、アウンサンスーチーは軍に対して掃討作戦の中止を命じ、バングラデシュ政府と難民の帰還に合意した。しかし、ミャンマー側での責任追及が進まない以上、当事者であるロヒンギャのなかに帰還を望むものも少なく、難民帰還は進んでいない。 ロヒンギャ危機の構造的要因 ポストコロニアル問題 ロヒンギャ危機にまつわる構造的要因としては、ポストコロニアル問題が挙げられる。他のアジア諸国よりも比較的遅い19世紀後半に全土が植民地化されたミャンマーをイギリスは、統治の効率性の観点から英領インドにビルマ州として編入した。インド大陸に比べるとミャンマーは人口密度が低かったため、インド(特に南部)から多くの労働者がミャンマー側に渡った。多くはヤンゴン(当時はラングーン)のような都市部への移民だったが(注1)、農村部にも広がり、現在のミャンマーとバングラデシュとの国境にあるラカイン北部には多くのムスリムが移住した。都市部では短期の労働移民が多かったが、農村部では家族による定住も少なくなかった。19世紀から20世紀の初頭にかけて、多くの人々が国境の西側からミャンマー側へと移動した。同時期はミャンマー・ナショナリズムの勃興期で、ナショナリストたちはインドからの移民たちを外からの他者として位置づけた。「我々」には含まれない人々である。そうした植民地期の人の移動に加えて、1971年のバングラデシュ独立戦争時に多くの難民がミャンマー側に移動したことで、不法移民すなわち外からの侵入者としてラカイン州のムスリムをとらえる認識が強化された。その後、徐々にロヒンギャを対象としたムスリム脅威論と結び付いていくことになる。 危機の背景から発生へ ミャンマーは、大東亜戦争の終戦から3年にもならない1948年1月に独立している。国土は荒廃し、国家の統治能力も乏しく、当時は必要な税収額の3割未満しか徴税できなかった。また、植民地期には間接統治地域であった少数民族地域も、独立後は1つの国民国家に組み入れられたものの、統合がうまくできないまま、一部の勢力が武装蜂起した。最初に武装蜂起を起こしたのはビルマ族を中心に構成された共産党だったが、カレン民族同盟(KNU)が1949年に武力に訴えるとさらに情勢は悪化し、国家危機に陥る。当時、武装蜂起に参加した勢力にはラカイン州のムスリムたちも含まれていた。ムジャヒッド(Mujahids)と呼ばれた彼らの中には、ラカイン北部の分離とパキスタン(当時)との統合を目指すものもいた。当然ながら、主権の分裂を企てるものとミャンマー軍は警戒していた。その後、1950年代に軍がその装備の強化や制度化を進めると、次第に武装勢力は劣勢となり、1962年のクーデター後には軍中心の政治体制が構築された。 ところが、2010年代の改革の波のなかで政治的な自由化が進展すると反イスラーム感情が拡大していく。その際にはスマートフォンなど通信技術の普及が鍵となった。ただし、機能は両義的で、一方において反イスラーム感情を社会に拡大し、また一方でロヒンギャのような抑圧されてきた人々の集団的抵抗のツールになる。 ミャンマー国内では多数派のビルマ族が、人口の6割を占める。ラカイン州では、少数派民族で仏教徒のラカイン人が多数派で、ムスリム教徒のロヒンギャは少数派だが、北部の郡では過半数を超えるところもある。ビルマ族が中心のミャンマー政府および軍、ラカイン州での多数派で仏教徒であるラカイン族、そしてロヒンギャと、少なくとも3つの集団が基礎になっておきた事件だと考えなければならない。国全体としては少数派であるラカイン族が、州では多数派になるというねじれが、三者間の関係性を複雑にしており、ただ、多数派で強者たるミャンマー国家が少数派で弱者であるロヒンギャを弾圧した延長としてだけ危機をとらえてはならないだろう。実際、ラカイン人は民兵として掃討作戦に参加したが、軍と違い武器を貸与されなかったため、代わりに村落破壊に関わったと言われている。主に民間人で動員された民兵か、または地元のいわゆる自警団が、軍の掃討作戦で住民が避難した後の村に火を放ったとされている。 国籍が付与されていないロヒンギャは、法的身分が不安定であり、識字率が低く、教育水準も低い状態に留め置かれていた。しかし、ラカイン人たちにとっては、ロヒンギャは勤勉で安価な人材だったため、搾取の構造においても非常に重要な労働力と考えられていた。2013年の宗教対立による紛争後は、ロヒンギャたちの採用コストが上昇したため、ラカイン人雇用者たちは人件費の高騰に頭を悩ませていた。その一方で、2011年の民主化、そして自由化により、字が読めないロヒンギャたちもSNSを介して情報を入手することができるようになっていった。ロヒンギャの人々の間ではSNSのWhatsAppを利用し、音声ファイルを通じたやり取りもなされていた。音声と動画で情報を共有できるSNSの影響力は大きく、宗教指導者の音声を使い、人々に指示を出して動員していた。 こうして民衆蜂起と武力勢力の攻撃を合致させ、ラカイン州北部の未開発の地域において一晩で同時に30か所以上の軍・警察施設に攻撃が仕掛けられた。首謀した組織はロヒンギャ救世軍(ARSA)とされるが、実際には多くの民間人が動員され、民衆蜂起の側面もあった。その後、ミャンマー軍による「掃討作戦」が実施され、各地でかなり一方的な暴力が軍および民兵によってロヒンギャに対して行使された結果、バングラデシュに約70万人の難民が避難した。 外交への余波 2017年に起きた軍の掃討作戦により、ミャンマー政府と軍は欧米とイスラーム諸国からの批判にさらされた。軍によるロヒンギャ虐殺疑惑に対して、スーチーが軍側に立って擁護したため、国際的な評価が急降下していく。その余波は国際司法の場での責任追及にまで及んだ。ICC(International Criminal Court、国際刑事裁判所)とICJ(International Court of Justice、国際司法裁判所)である。ミャンマーは本来ICCに加盟していないが、ICC加盟国のバングラデシュにミャンマーから強制移住させられた人々がいたことで管轄権が認められ、掃討作戦での虐殺疑惑についてICCが捜査を行うことになった。また、ミャンマーも加盟しているICJでは、西アフリカの国ガンビアが虐殺違反としてミャンマーを提訴した。イスラームの国際機関であるOIC(Organization of Islamic Cooperation、イスラーム協力機構)の実質的な代表としてガンビアが訴訟を提起したかたちで、国際法上の責任追及が求められた。 法務大臣など司法当局の責任者がICJの裁判に出廷し説明することが多いが、2018年12月の口頭弁論ではスーチー自身が法廷に出向いた。当時の状況から考えると、ICJの国際法廷に出廷したスーチーの最初の口頭弁論で、戦争犯罪に該当する軍の過剰な武力行使が行われたかもしれず、否定はしないと柔らかに認めたことは一定の姿勢の変化を示すもので、それはICJの対策チームに軍関係者を入れなかったからこそできたことかもしれない。しかしながら、そうした事情は国際社会にとっては瑣末な話として無視される。結果的にスーチーは恥の上塗りだと糾弾された。ミャンマー軍だけでなく、ミャンマー政府も国際社会から切り離されていった。自由主義圏との関係をつなぎ留める役割を果たそうと日本が試みたものの、2021年の軍事クーデターによって、その道が閉ざされることとなる。 2つの危機:(2)2021年2月のクーデター発生 2つ目の危機となる軍事クーデターは、2021年2月1日に起こった。この日は2020年選挙の結果を受けた下院の招集日で、この選挙を不正選挙と主張していた軍は下院の招集を阻止するためにクーデターを実行した。軍は秘密裏にことを進め、放送局を押さえ、アウンサンスーチーやウィンミン大統領をはじめとする政府幹部を拘束し、軍出身の副大統領を使って非常事態宣言を発出した。 クーデター自体は無血だったが、ことはそれでおさまらなかった。軍に対する抵抗が人々の間で巻き起こったのである。軍のクーデターに対して市民が取った抵抗には、大きく3つの形式がある。1つは街頭デモ、2つ目は公務員(一部民間企業の職員含む)のボイコット、そして3つ目は2020年選挙で当選した議員たちによる政府の発足である。抵抗の定型である街頭デモは言うまでもないが、2つ目の公務員のボイコットに関しては、近年反政府運動が盛り上がった香港やタイでは広がっておらず、ミャンマーの特徴と言えるだろう。市民的不服従運動(CDM: Civil disobedience movement)と呼ばれるもので、公務員をはじめ、多くの医師や大学関係者なども職を辞した。CDMはミャンマーの政治用語として定着したといえる。3つ目は、2020年選挙を無効とする軍に対抗し、当選したNLDの議員らが中心に組織した並行政府である。当時はZOOMなどのオンラインツールを駆使して、物理的に同じ場所におらずとも、関係者が意思疎通することが可能だった。2021年4月1日には国民統一政府(NUG)が結成された。さらにはアウンサンスーチーの非暴力主義から方針を転換し、「自衛のための戦い」として武装闘争を宣言するにいたる。 こうしてクーデター後の抵抗は拡大し、一部地域での武力紛争となって現在も継続している。軍が圧倒的な影響力を持つミャンマーにおいて、どのような人々が軍を支持しているのか。 2.どのような勢力と政党が結びついているのか 軍を支持する主要な勢力とは何か。この問いに答えることは容易ではない。というのも、1962年から実質50年間にわたって軍事政権が続くなかで政府、経済、社会、さまざまなところに軍の影響力が浸透している。例えば、1988年に市場経済化に舵をきったあとに成長した企業グループは、程度に濃淡はあれど、軍との関係なしにはビジネスを拡大することは不可能だった。ビルマ語でも「タイクーン」(英語のtycoonから来る)と呼ばれる実業家たちは、その真意を窺い知ることはできないにしても、軍の影響力のなかで成長した実績があるため、軍を支持する傾向にある。軍に近い企業にはトゥー・グループやアジア・ワールド・グループなどがある。 2011年の民政移管以降は、与党である連邦団結発展党(USDP)がそれに加わる。当時の与党は、もともとは軍事政権時代の大衆動員組織であった連邦団結発展協会(USDA)を改組したもので、幹部には元軍幹部が就任していた。具体的には2011年から大統領となるテインセインや、下院の議長になるシュエマンである(注2)。USDPは2010年の総選挙で勝利して与党となった。ただし、注意が必要なのは、軍出身者が幹部を務めるとはいえ、USDPと軍との利益は必ずしも一致しないことである。近いながらも自律的な存在であった。 軍自体も大きな規模を誇る。正確な数字はわからないが、20~30万人が所属し、彼らの家族や親族を含めると軍関係者は約100万人近くにはなるだろう。軍関係の家族、親族が軍を支持する集会に動員されることも多かった。しかし、クーデター後はその頻度も減り、軍内でも指導部への不満が強まっている。実際、軍を自発的に離れる兵士も現れていている。入隊の志願者も激減し、戦線が拡大しているにも関わらず、軍は人員不足に悩まされ、ついには2024年から徴兵制を施行するに至った。 軍関係でいえば、軍は企業を所有している。ミャンマー経済公社(MEC)やミャンマー連邦エコノミックホールディングス(UMEHL)といった企業が特権的な企業グループとして、いわゆるオフバジェットと呼ばれる軍人の収入源になっている。 軍に共鳴する社会勢力には右派の仏教僧たちがいる。仏教徒が多数を占めるミャンマー社会において僧侶たちの影響力は大きい。多くの僧侶は政治を俗と考え、出家者が関わるべきことだとはみなさない。しかし、ミャンマーのナショナリズムは仏教の護教と不可分であるため、政治的な僧侶は国家主義に流れやすい。正統性の点で弱みがある軍事政権もまた、自身の正統化のために仏教擁護的になり、軍事政権時代の指導者たちが高僧に寄進したり、仏塔や仏像の建立によって「良き仏教」であることを示そうとする。サンガ(仏道修行をする僧侶・見習僧の集団)も政府の法によって縛られる以上、軍からの統制も受ける。結果として、仏教界の一部と軍は強く結びつき、一体ではなくとも、軍の支持基盤となる。 3.直近の選挙 2021年の軍事クーデターの発端となった2020年選挙では、前回の2016年選挙と同様にスーチー率いる国民民主連盟(NLD)が圧倒的な勝利を収めた。最大の要因は国民の間でのスーチー人気だが、小選挙区制が大勝を可能にしたともいえる。NLDは約6割の得票率で8割の議席を確保したためである。この8割という数字が大事なのは、上下院ともに定員の4分の1が軍に割り振られており、その軍人議員たちは選挙によって選出されるわけではないからである。つまり、議会で過半数を獲得するには、残り4分の3の議席の3分の2、すなわち7割近くの選挙区で勝たなければならないからである。ミャンマーのような多数の民族からなる国ではこうした選挙制度は民意を反映させるうえで適切ではないのではないかという議論があり、比例代表制の導入も検討されたものの、NLD政権には自党に有利な制度を変える動機がなく、議論は有耶無耶うやむやになる。 2016年に成立したスーチー政権の公約の柱は3つあった。紛争当事者との和平交渉、より民主的な政治体制を目指した憲法改正、そして経済開発である。うち、最初の2つは軍との調整が必要であり、憲法改正については議会の4分の3を超える信任、すなわち軍人議員の賛成がなければ国民投票に発議することができない。利害も国家観も対立する民主化勢力と軍は緊張関係にあるため、両者の間の調整は困難だった。結果として、日常的に過半数で可決する立法では政権が優位に立ち、しかし、憲法改正という政権の目標は軍が実質的な拒否権を発動して実現しない、という共にストレスのある状態が生まれた。この対立の蓄積がクーデターの遠因となったことは間違いないだろう。 ほかにもミンアウンフライン最高司令官の野心がクーデターの要因の1つとみられる。5年の任期で、解散がない議会である。2020年選挙の結果を認めた場合、2026年までスーチー政権が継続することが確定する。ミンアウンフライン最高司令官は2021年6月に迎える予定だった定年を見据え、2020年選挙で親軍政党であるUSDPが勝利して、自らが大統領に選出されると信じていたともいわれる。 軍事クーデター後、軍に拘束されたスーチーやNLD幹部は、収賄や選挙違反などで長期の禁錮刑を科され、軟禁生活や刑務所での服役生活を送っている。なかには死刑判決を受けて実際に執行された人々もいる。ミャンマーで汚職は珍しくなく、汚職や不正を監視する機関の能力も低い。そのため、汚職や不正が政敵を追い落とす道具になってしまっている。クーデター後は不正や汚職を追求できる立場にいる軍が、それらを利用して権力を行使しているのであり、厳正かつ公正な捜査や司法プロセスに則った責任追及の仕組みはない。 今後の動向 軍事クーデターの実行は国民の強い反発を招いた。コロナ禍にも関わらず、大勢の人々が集い、大規模なデモを開催した。しかし、軍によるデモ隊への弾圧が強まるにつれ、デモから武力闘争へと抵抗の手段が変わっていった。その変化には、長年ミャンマー内で政府と戦ってきた少数民族武装勢力の一部が貢献した。代表的な例として、1949年以降ミャンマー軍と戦いを続ける世界最長の少数民族武装勢力であるカレン民族同盟(KNU)がある。NLDの拘束されなかった議員たちも、まずはKNU地域に移動して勢力の立て直しを図り、デモに参加していた若者たちも同地域で訓練を受けた。 2021年3月から軍の弾圧が始まったが、統一戦線の武力闘争路線は9月に正式採用となり、武力衝突数は減ることなく、最近では増加傾向にある(図2)。毎月およそ200から400件の衝突が各地で発生しており、特に国境地域が顕著である。ミャンマーの地理的観点では、多数派民族は中央部の平野に集中しており、周辺部はロヒンギャのような少数民族が多い傾向にあるが、近年最も衝突が起きている地域は中央平野の北西部にあたる。主要民族のビルマ族が8割から9割を占めており、クーデター以前は紛争がない平和な地域として知られていたが、クーデター後は軍の防備も不足しており、多くの武装勢力と軍が衝突するようになった。 図2 ミャンマーの武力衝突数(2021年1月〜2023年8月) (出所)ACLEDのデータベースより筆者作成 その他に、中国国境に位置する北部のカチン州やシャン州、タイ国境のカレン州などでも軍との衝突が増加している。軍の統治能力が低下すると、周辺部に元々存在していた少数民族の武装戦力が中央部に押し込めるようになっているが、今回のクーデターでの最大の変化は、周辺部だけでなく、主要民族のビルマ族が多い北西部の地域で衝突が増えた点だ。それぞれの地域で人々が自律的に武装組織を結成し、各々軍に対して抵抗するようになっている。統一された抵抗勢力として動いているのではなく、極めてネットワーク化された抵抗が進んでおり、「中心がない抵抗」ともいえる。 衝突による村落破壊も生じているため、先述のロヒンギャ危機のように少数民族と多数派民族の対立と単純化できる構図が、クーデターによって一段階複雑化し、主要民族の間でも政府の正統性をめぐる争いが起きている。しかし、首都ネピドーやマンダレー、ヤンゴンなどの主要都市は、基本的には軍の統治下にあり、統治が機能しているため、住民が武装勢力や抵抗勢力の影を感じることはあまりない。 各地で紛争が起きる一方、スーチーを始めとしたクーデター当初に拘束された人々は、現在も軍の厳しい管理の下、裁判に出廷している。スーチーは1990年代から2000年代にかけて15年間自宅軟禁されていたが、現在は首都ネピドーの刑務所の独房に収監されているといわれる。恩赦の減刑などがあったものの、27年の禁固刑を受けた78歳(その後、2024年6月に79歳になる)のスーチーにとって、実質上は終身刑に服している状況である。軍に対する抵抗や衝突が起こる一方で、軍は拘束した政権幹部の処罰を粛々と進めている。 クーデター後の国内避難民は、最も紛争が多いサガイン州を含め合計180万人に及ぶ。抵抗勢力に比べ、武器を保有するミャンマー軍が優位であることに間違いないが、地方や国境地域では武装勢力同士の膠着状態が続いている。抵抗が継続するにつれ、教育、保健、治安など基本的な国家としての軍の統治能力が脆弱化していることは明らかだ。半年ごとに延長された非常事態宣言が2年半を経過して長期化したため、現在は最高司令官を中心とした軍事独裁の既成事実化が進行すると見られる。 4.対外関係 東南アジアに位置するミャンマーは、タイ、ラオス、中国、インドとバングラデシュの5カ国に接しており、その中でも長い距離の国境を接しているのが中国、タイ、インドである。ミャンマーの地政学的な重要性については、特に中国からの視点によるものが大きい。中国の東海岸に物資を運搬する場合、東南アジアのマラッカ海峡やインドネシア、マレーシアの狭い海路を通る必要がある。経済および軍事安全保障上の観点から、このルートが閉ざされた場合を想定し、インド洋から直接ミャンマーを通って中国への物流ルートを確保したいという中国の思惑がある。 中国はミャンマーのラカイン州チャウピュー沿岸にある島で経済特区と深海港の開発を行っている。しかし、開発の進行は遅い。なによりも、ミャンマーを南西から北西へと抜ける道路と鉄道の敷設計画に実現の目処が立っていない。それは現在のように紛争が拡大する前から、ミャンマー軍の抵抗が強かったためである。隣国の大国である中国と慎重に付き合わなければならないためでもある。この中国に対する警戒心は、ミャンマーを始めとするベトナム、ラオス、カンボジアなど中国と国境を接する東南アジア諸国に多く見られる。 現状の関係性を悪化させないまでも、常に警戒の姿勢を示しているのは、彼らにとって中国が国境を挟んだ「すぐそこの脅威」と認識されているためである。ミャンマー軍も中国製の武器のみを保有する危険性を考慮し、物資のみならず兵士の出入りも可能となる中国の鉄道事業よりも、ロシアとの連携や日本政府の鉄道整備・建設を支持する軍関係者も少なくなかった。ロシアはミャンマーと国境を接しておらず、脅威の対象ではないミャンマーにとって主要な武器の供給元で、両国ともに欧米諸国から敵視されるなかで、近年では両国関係は急速に深まりつつある。 日本やアメリカも台湾有事を想定して2010年代はミャンマーへの関与を重要視していた。ミャンマーでは反中感情が広範に共有される一方で、親日感情が根強い。そこに付け入る隙があった。しかし、2021年のクーデター後は日本もミャンマーに対して距離を置くようになっている。標的制裁などで圧力をかける欧米諸国に引っ張られているところもあり、また同時に日本政府がミャンマーのような小国に対して、特にアメリカの方針を無視して独自のアジア外交を展開する動機を欠いていることもあるだろう。イランとともにミャンマーは日本独自の外交が展開されている国だとよくいわれるが、実態はそれほどではない。積極的な圧力が一方にあるがゆえに、消極的でことを荒立てない日本の姿勢が独自に見えるだけだろう。 アメリカの制裁に関しては、資産凍結だけでなくドル決済の停止も含まれ、1990年代の制裁の際には、シンガポールが密かにドル決済を代理で担い、ミャンマーから天然ガスを購入する海外企業もシンガポールの銀行を通して取引をしていた。しかし、近年では世界的にマネーロンダリングの規制が厳格化し、シンガポールももはやミャンマー軍にとって制裁の抜け穴にはなりえない。民間銀行であるユナイテッド・オーバーシーズ銀行(UOB)も2023年9月1日からミャンマーの地場銀行と他国の銀行間との送金取引を停止している。ミャンマー軍政のドル不足は深刻で現地通貨であるチャットの価格が急速に下落し、インフレに拍車をかけている。ミャンマーに拠点を置く日本企業にとってドル決済停止は影響が大きい。対応に苦慮した結果、撤退を余儀なくされるケースもある。そのため業種ごとに状況を精査していく必要があるが、全般的には日本企業のミャンマー拠点は縮小傾向にある。ミャンマーを重要な国として位置づけているのは、中国やインドだけではなく、隣国のタイも同様である。労働者不足のタイでは、ミャンマーからの労働者たちが肉体労働や建設関係などのいわゆる3Kの仕事を担っており、ミャンマーからの人の流入はタイにとってメリットもある。 現実的にミャンマー軍との仲介に入ることができる国や組織は存在しない。国連などの外部機関が仲裁することは難しい。ミャンマー軍にとって国連は中立にはまったく映っていないからである。ロヒンギャ危機の際に批判を受けて更に嫌悪感を募らせた背景がある。政治的仲介どころか人道支援すら困難に直面している。人道支援を目的とする国連機関や人道支援NGOも、軍に抵抗する勢力への支援につながると警戒しているため、その活動には制限が課せられている。 軍の強硬路線は変わらない一方、オンラインで発足した国民統一政府(NUG)は、外交にも力を入れている。国内での少数民族武装勢力との共闘を続け、軍の実効支配地域を少しずつ掘り崩しながら、同時に、国際社会からの外交的な圧力をかけている。国際社会との対話を積極的に進め、基本的には圧力外交を求める。実現の目処はまったく立っていないため空手形といえなくもないが、NUGはロヒンギャへの市民権付与などリベラルな公約を打ち出しており、スーチー政権の反省を生かした内容で、将来を見据えている。今後も並行政府の動きには注視が必要であろう。 5.まとめ 以上のようにミャンマーは主に2010年代の民主化の進展を経たあと、2021年のクーデターを機に混乱に陥っている。多くの人々が期待していた2020年代の行く末とは大きくかけ離れている。民主化が停滞したどころか、軍事政権もまた安定せず、国家という形式そのものが危機に陥っている。統治能力と正統性を欠いた国家で民主主義が機能することは大変に困難であり、この国の今後は不確実性が極めて高いといえる。 ミャンマーを始めとする東南アジア諸国を日本はどのように理解し、今後付き合うべきか。東南アジア全体としては、例えば米中対立のどちらからも利益を得ようとする外交姿勢が基本であるが、ミャンマーがアメリカと連帯することはないため、中国やロシア、インド、タイなどとバランスを取ると考えられる。民主化への道が遠のく現状で、当面は日本とミャンマーの関係性は現状の圧力と関与の間にある中途半端な状態が続くこと予想される。対中政策の一環として、東南アジアの位置づけが今後の日本にとって極めて重要になることは確かだが、フィリピン、ベトナム、インドネシアとの連携は強まっても、ミャンマーとはもはや短期的な関係改善は求めない。仮に軍政が倒れたとしても、統合された新政権ができる可能性は低い。 しかし、安全保障と経済だけでは外交のすべてではないはずである。混乱に陥った地域に日本としてどのように関わるのか。カンボジア和平やフィリピン南部での平和構築に日本政府は積極的に関わってきた。平和構築にまで至らない現在進行形の紛争に関わることは相当な困難を覚悟しなければならないが、地域大国である日本が無視してよい問題でないことは明らかであろう。狭い意味での日本の国益を守るために、事なかれ主義の選択をするべきではない。これからのアジアと日本は、どこかで一線が引かれた「アジアと日本」というものではなくなり、地域全体として変容するアジアの一角を占める「日本のアジア」になる。アジアの多様な政治経済と付き合ううえで、ミャンマーの混乱とどのように付き合うかは、アジアの民主主義の行方を考えるうえでも、また、これからますます変動するアジアに対する日本外交のあり方を見直すうえでも試金石になるだろう。 引用を行う際には、以下を参考に出典の明記をお願いいたします。(出典)中西嘉宏(2024)「アジアの「民主主義」第7章ミャンマー―ミャンマー危機とアジアの民主主義―」NIRA総合研究開発機構 脚注 1 例えば、当時ミャンマーの首都であったラングーンでは、1930年代の人口のおよそ半分が、インドからの短期移民の労働者だった。 1 例えば、当時ミャンマーの首都であったラングーンでは、1930年代の人口のおよそ半分が、インドからの短期移民の労働者だった。 2 シュエマンは2020年に党総裁を解任された。アウンサンスーチーへの接近が原因だといわれている。 2 シュエマンは2020年に党総裁を解任された。アウンサンスーチーへの接近が原因だといわれている。 シェア Tweet 関連公表物 アジアの「民主主義」第1章インド 中溝和弥 アジアの「民主主義」第2章シンガポール 久末亮一 アジアの「民主主義」第3章パキスタン 松田和憲 アジアの「民主主義」第4章フィリピン 日下渉 アジアの「民主主義」第5章タイ 外山文子 アジアの「民主主義」第6章インドネシア 本名純 アジアの「民主主義」序論 水島治郎 ©公益財団法人NIRA総合研究開発機構※本誌に関するご感想・ご意見をお寄せください。E-mail:info@nira.or.jp 研究の成果一覧へ