久末亮一
アジア経済研究所開発研究センター企業・産業研究グループ副主任研究員

概要

 1965年に独立したシンガポールは、短期間で驚異的な経済発展を遂げ、小都市国家ながらも先進国の仲間入りを果たした。しかし、この華やかに見える繁栄の陰で、国内では初代首相のリー・クアンユーが築き上げた権威主義的統治が、長年にわたって続いてきた。
 表面的な政治体制は、三権分立による共和制国家となっているが、実質的には三権分立が機能せず、与党「人民行動党」(People's Action Party, PAP)の一党絶対優位体制が敷かれてきた。一方、野党は厳しい制約の中で、僅かに存在を許されるに過ぎなかった。人工、統制、効率、功利を特徴とするリー・クアンユーの統治モデルは、経済発展と内政安定をもたらした一方で、言論統制や内国治安法(Internal Security Act)などの圧力手段を行使することで、国内を統制してきた。
 しかし、近年は政治意識が向上した国民からの圧力により、PAPの一党絶対優位体制にも次第に変化が見られる。多様化した民意という現実を前にして、シンガポールの政治は、緩やかではあるが、不可逆的に民主化への道を歩みつつある。そして、近い将来の国家指導者層の世代交代を経て、さらなる政治的な変化が進むことも予想される。

アジアの「民主主義」
第1章インド―権威主義革命と「世界最大の民主主義国」の行方―
・第2章シンガポール―シンガポール政治の変容と将来:緩やかに進む民主化への道―
第3章パキスタン―ポピュリスト政党後の政党連合政権、軍部の影響力―
第4章フィリピン―グローバル化とフィリピンの政治変動―
第5章タイ―タイの今とこれから―
・第6章インドネシア(近日公開予定)
・第7章ミャンマー(近日公開予定)
・第8章ベトナム(近日公開予定)
・総論(近日公開予定)

INDEX

シンガポール共和国 基礎情報

はじめに

 1965年の独立以降、シンガポールは急速な経済発展を遂げ、小さな都市国家ではあるが、今日では先進国として確固たる地位を築いている。東京都区部を一回り大きくした国土面積で、総人口約592万人(内:国民355万人、永住権保有者52万人、在住外国人185万人。国民の人種構成は、華人系約74%、マレー系約14%、インド系約9%、その他約3%の多民族国家)と、国内規模は決して大きいとは言えないが、2023年の国民1人当たりの名目GDPは約91,100米ドルで、世界第5(注1)となっている。シンガポールは19世紀以来、その地理的な利便性から地域内の経済センターとして機能しており、周辺の東南アジア諸国も含めた地域統括の拠点として、世界的にも事業戦略上の重要拠点と認識されている。加えて、近年では地域内の国際政治でも確固とした存在感を見せ、特に米中関係の悪化で地域が不安定化するなか、小国ながらも両国と深い関係を持つシンガポールの動向には、注目が集まっている。

 一方で、国内政治に目を向けると、近年は変化の兆しが現れている。独立以降、「建国の父」リー・クアンユー元首相が築き上げたシンガポールの政治統治体制は、きわめて権威主義的で厳しい社会統制を伴うものであった。しかし、この10年の間では緩やかに、そして確実に民主化の道を辿りつつある。リー・クアンユーの長男で現首相であるリー・シェンロンは脱世襲化を進め、その彼の引退が間近に迫る中で、建国以来の中心軸の1つであった「リー・ファミリー」への依存は、幕引きを迎えつつある。さらに国民の価値観も多様化が進む中で、シンガポールの政治は今後どのような動きを見せるのであろうか。

 本章では、21世紀初頭まで建国以来の特異な政治統治体制を維持してきたシンガポールが、なぜ権威主義の終焉と民主化への移行という新旧統治モデルの岐路に立つことになったのかを、国内政治の動向や争点を確認しながら考察しつつ、今後の行方を検討するものである。

1.主要政党と野党、その動き:シンガポール政治の史的展開と構図

リー・クアンユーによる独立・建国後の社会改造

 2011年からの十数年間で、シンガポールの政治は緩やかではあるが民主化への道に向かい、それは不可逆に進みつつある。シンガポールといえば、「明るい北朝鮮」という誤った表現が一般に流布しているように、その統治はつねに強権的・統制的であるというイメージが浸透してきた。しかし政権・与党の体制側も、もはやそのような統治手法では、情報と社会の開放化・自由化の波には抗えず、国として成り立たないことを認識しており、現実は大きく変化している。それでは、このシンガポール政治の権威主義にはどのような淵源があり、それは21世紀に入ってから、どのような変化の影響を受けたのであろうか。

 シンガポールは、1819年にイギリス東インド会社の交易拠点として開港し、その後もイギリス植民地として統治されてきたが、1950年代の自治運動を経て、1959年にはイギリス自治領シンガポールとなった後に、1963年にはマレーシア連邦に加入した。ところが、クアラルンプールの中央政府との間では、連邦全体で見た場合の多数派であるマレー系と少数派である華人系のが発生し、実質的に連邦から追放される形で、1965年にはシンガポール共和国として分離独立した。

 しかし、独立後はマレー半島という後背地を失い、小都市国家としての生存を余儀なくされる。こうした中で国内では、分離独立の引き金となった民族間の人種対立や、リー・クアンユーが率いる「人民行動党」(People's Action Party, PAP)政権と対立する左派系労組や民族主義的な華人資本家層の策動もあって、国内情勢はきわめて不安定であった。さらに対外面でも、人種・宗教面で多数派が異なり、少なからず敵対的な態度をとるインドネシアとマレーシアに南北を挟まれていた。このため独立国家となったシンガポールは、表層的には三権分立に基づく民主共和制の政治体制をとったが、リー・クアンユーは自国の生存のためには、与党PAPによる一党絶対優位体制の確立によって国内基盤を完全掌握し、実質的な独裁制によって加速度的に国家建設を推進する必要があると考えた。

 こうした背景からリー・クアンユーが作り上げた統治モデルは、人工、統制、効率、功利が特徴として挙げられる。表面的にはイギリスに範を取り、三権分立の近代法治国家を擬してはいるが、実質的には一党独裁政治となっている。そして、野党や反対勢力の排除、言論統制、「内国治安法」(Internal Security Act)の濫用を行うなど、様々な公式・非公式な圧力によって社会的自由を厳しく制約した。一方では、多民族国家であるがゆえに表面的にはメリトクラシー(能力優先主義)を重視したが、この底辺にはリー・クアンユーの持つ優生学的思想があり、ヒューマニティの欠如した人口政策、教育政策、言語政策、人材政策などを進めていった。これらの諸政策は統治上一定の成功を収めたものの、その反動として1980年代から現在に至る深刻な少子高齢化をもたらした。

 経済面では、計画的、統制的、傾斜的な政策を採用して、雇用確保と経済成長を極度に重視した。この目的達成のため、資源のないシンガポールは19世紀以来の中継港しての集積力を活用すると同時に、外資の積極的な導入によって急速な工業化を実現することで、高度経済成長を達成した。1980年代には「シンガポールの奇跡」と呼ばれる高度経済成長を達成した。しかし、国民への富の再分配は必要最低限に抑制され続け、一方で経済発展の成果は、「政府投資公社」(GIC)や持株会社「テマセック・ホールディングス」を通じて網の目のように所有する政府系企業群(Government Linked Companies, GLCs)が、外資に開放した分野以外の国内主要産業を幅広く支配することで、多くが国家に集約され、これが再投資・膨張するという「国家資本主義」が実現することになった。

「遅れてきたファシスト」

 シンガポールはなぜ、このような特徴を持つに至ったのであろうか。それは独立前後の国内外環境に加えて、リー・クアンユーという人物が持つ政治思想が根底にあると考えられる。すなわち、そこには「ファシズム」の影が付きまとうのである。リー・クアンユー自身は、ファシズムに影響されたことを公言したことはないが、彼の青少年期は1930年代の国家・社会改造運動としてのファシズムの台頭期と一致し、その影響を少なからず受けたものと推測される。さらにはPAPの党旗デザインが、1932年に成立した「イギリス・ファシスト連動」のそれと相似していることも、偶然の一致で済まされるものではない。

 だが、この「遅れてきたファシスト」は、1930年代に世界を席捲したファシズムの失敗も理解していた。このため、ファシズムのイデオロギー的要素を前面には出すことなく、あくまでもシンガポールという新国家における社会建設・改革手段として、ファシズムの手法を巧妙に取り入れ、活用したのであった。その結果として、以下のような成果を獲得することに成功する。

 ①絶対的な政治的安定性のもとでの継続的かつ弾力的な国家運営
 ②汚職の少ない効率的な行政
 ③持続的な経済成長と健全財政の確立
 ④安全で利便に優れ、比較的清潔な都市の実現
 ⑤住宅政策、公共医療、年金制度など、国民への一定の社会保障
 ⑥効率的経済発展と国家への利益還元・独占を可能にする「国家資本主義」の確立

 そして、この「リー・クアンユー・モデル」とも言える国家発展・統治手法は、シンガポールの「成功体験」として、21世紀に入っても継続した。政権自体は1990年にゴー・チョクトン、2004年にリー・シェンロンへと受け継がれたが、リー・クアンユーは閣内で上級相、さらには顧問相として残留することで隠然たる影響力を行使し、その存在感が薄れることはなかった。このため政府は、時代・環境の変化にも関わらず、基本的には従来の発展・統治手法を踏襲した。

 しかし、2010年前後に入ると1人当たりのGDPは4万米ドルを大きく越えたにも関わらず、「永久運動」のように表面的な経済成長や国家発展をひたすら追い求め、富の再配分や社会的自由を抑制し続ける政府の姿勢に、国民の疑問や不満は高まっていった。ところが政府は、各種政策を微修正して調整するにとどめ、国家・社会のあり方について、根本な見直しには手をつけることができずにいた。

2.2011年以降の大転換

2011年国会総選挙における野党躍進

 時代・環境の変化に政策の対応が遅れを取り始める中、2011年にはシンガポールの歴史的な転換点となる出来事が相次いで起こる。その1つが、2011年の国会総選挙における野党躍進である。建国以来の国会は、表面的な三権分立や民主制を装うために設置されてきたが、政権・与党は野党に対してつねに厳しい締めつけや与党有利の選挙制度を維持することで、定数80議席前後にわずか1~2議席のみ野党の存在を許容し、それ以上の拡大は許さない姿勢を堅持していた。

 ところが、上記のような野党に対する厳しい制約にもかかわらず、2011年に実施された国会総選挙では定数87議席を争う中、野党の「労働者党」(Worker’s Party, WP)が、突然6議席を獲得するという快挙を成し遂げ、PAPは81議席しか獲得できなかった。しかもPAPの得票率が、通常は70%前後の得票率を獲得するのが常であったにもかかわらず、この選挙では歴代最低の60.1%を記録したことも、予想しない厳しい結果であった。これは実質的に、体制側の「敗北」を意味するものとなった。

 もう1つの出来事は、同年に大統領選挙が行われたが、この結果が、与党系の元副首相であるトニー・タンが得票数74万5,639票(得票率35.20%)で当選したものの、次点で73万8,311票(得票率34.85%)を得た元PAP所属の国会議員タン・チェンボク(現在、野党「前進党」(Progress Singapore Party, PSP)党首)との差はわずか0.35%と、かろうじて勝利した形になったことであった。1991年の大統領公選制の導入以降、1993年の選挙以外は全て与党系単独立候補者による無競争・無投票当選であったことから、この結果は、政権・与党に強い衝撃を与えるものとなった。

 一連の選挙結果の背景には、国民が、長年にわたる政府の政策や社会運営、特に国民生活に直結する雇用、移民、住宅、物価などの構造的問題に不満を高めたことがある。加えて、若い有権者が従来の社会統制のあり方に不満を募らせ、SNSを活用して意見を自由に表明する動きが活発化したことも、大きく影響した。すなわち、これまでは新聞やテレビといった旧来型メディアを政府が管理することで、一方的な情報伝達による操作が可能であった「民意」が、双方向・多方向での自由な情報発信を可能にしたSNSを活用する若い世代の台頭によって、操作の容易ではない新たな政治要素となる。この結果として政権・与党は、従来は多くを考慮する必要のなかった国民の「民意」と向き合い、これに配慮する必要性に迫られた。

「リー・クアンユー・モデル」の終焉

 衝撃をもたらした2011年の国会総選挙から1週間後、政府は、これまで閣内に顧問相と上級相として留まっていたリー・クアンユーとゴー・チョクトンの両名が、辞任することを発表した。もっとも、すでに同時期のリー・クアンユーは、老齢による心身の衰えが顕在化しており、たとえばメディアのインタビューなどでも、これまではあり得なかったような失言をするようになっていた。そして、閣外に去ってからは次第に表舞台から姿を消し、「古いシンガポールの終焉」を象徴するように、2015年3月に死去した。

 一方で、総選挙直後の2011年5月、リー・シェンロン首相は演説で、新しい時代に向けた3つの政策の柱を掲げた。1つ目は、社会と国民に歩調を合わせ、政府も変化する必要があると述べた。これは従来の政府の姿勢について、国民への歩み寄りと反省を示したという点で、非常に衝撃的なものとして受け止められた。2つ目は、政治システムはさらに多様な見解、多くの討論、多数の参加に適応する必要性があると述べ、3つ目には、多様な意見を聞き、日常の問題を理解して懸念解決に努力し、開かれた政府にすることを掲げた。これらは政府が、建国以来の「成長至上・規模拡大・低再分配による国家発展」というモデルの大幅修正を明言したという点で、画期的な出来事であった。

 そして、政府は宣言を実行に移し、まず、国民の不満が最も高かった外国人労働者問題の軌道修正をはかった。21世紀初頭、シンガポールの労働市場では、外国人労働者が労働人口のおよそ50%前後という状態であったが、これを適正範囲(30%~35%)に修正するため、その流入規制・選別や、国民優先の雇用政策(シンガポーリアン・ファースト)を導入した。同時に、在住外国人を増加させることで総人口のかさ上げを図るという膨張政策を棚上げし、総人口と雇用や社会インフラとの適正バランスを考慮した、穏健な人口政策に移行した。

 この他、2013年の演説でリー首相は、社会政策の抜本的な見直しを表明し、さらに高齢者福祉や低所得層保護の導入を目的としたPAPの党規約改正も行い、国民への再分配強化に取り組み始めた。それまでは国民への最低限の保障を前提としつつ、積極的な再分配には否定的であったことを考慮すると、この転換も革新的な政策転換であった。演説の中でリー首相は、「これまでわれわれを成功に導いた道筋とは違う道であったとしても、もはや後戻りはできない」と、実行に向けた決意を述べている。

 しかしながら、こうした変化は、従来の政策との間で不整合を生じさせ、副次的な問題も引き起こした。たとえば、外国人労働者政策をめぐっては、国民優先雇用政策によって外国人ホワイトカラー職へのビザ発給が大きく制限されたことで、シンガポールに直接投資をもたらす外資系企業を中心に、支障と懸念が生じ始めた。また、国民への再分配強化についても、少子高齢化の深刻化から社会支出の増加拡大が見込まれる一方で、国家財政は基礎的財政収支が恒常的な赤字となっており、これを政府系ファンドの運用収益で補填している現状の中で、どのようにして安定財源を確保するのかが問われ始めている。

慎重で漸進的、しかし不可逆的な社会の自由化

 一方で、従来からの社会的自由のあり方については、リー・クアンユーが影響力を持っていた時代の統制的かつ抑圧的な社会管理方法はもはや通用しないことが明白であるものの、現在のところは海外の複数の調査において、シンガポールは低い評価を受けている(注2)。もっとも、急速な自由化を進めることは、シンガポールの置かれた対内的・対外的な現実を考えた場合に難しいのが実情であり、2022年5月にはリー・シェンロン首相も、「われわれにとって機能する民主主義を実践している」と発言し、現行体制の大きな枠組み自体には問題がないという認識を示している。

 この結果、現在でも様々な手法で、野党、活動家、ネットメディア、反対者の言論や活動が制約されている。たとえば近年は、政府への批判的視座からのネットメディアやSNSページが影響力を持ち始めたことで、これに対して「オンライン虚偽情報・情報操作防止法」(通称「フェイク・ニュース防止法」)などの新法を相次いで導入し、管理を強化している。

 しかし、かつてのように露骨な権力乱用に近い統治姿勢や、特定価値観の強制といった社会管理手法は、もはや若い世代の国民を中心に受け容れられないことも、政権側は理解している。そのため現実における社会や国民の認識変化とのバランスを取りながら、緩やかではあるが確実な自由化を進めざるを得ないというのが目下の状況である。

 自由化や民主化という観点では、以前のシンガポールは周辺国に比べて歩みが遅い印象であった。しかし、この10年の動きを見る限り、タイ、インドネシア、フィリピン、ミャンマー、カンボジア等のASEAN各国のほうが、クーデター、強権的弾圧、社会的自由の抑圧などによる後退現象が起きている。言い換えれば、シンガポールは緩やかだが着実にリベラルな方向に向かっており、それがもはや不可逆的であるという点でも、大きな希望を見出すことが可能である。

 実際にシンガポールの社会は、リー・クアンユー時代との比較はもとより、21世紀初頭と比較して、より自由度が上がっていることは確かである。この変化が最も表れたのは、2022年の刑法377A撤廃による同性愛の合法化である。同条項はイギリス植民地時代の1930年代に成立した男性間の同性愛行為を違法とする法律であるが、リー・クアンユーが同性愛を著しく忌避していたことに加え、国内には保守的価値観を持つイスラーム教徒やキリスト教徒、さらには伝統的価値観を持つ華人が一定数存在していたことから、この法律は長年存続していた。しかし、政府は10年ほどの時間かけて、世論調査やデータ分析を行って検討を重ね、同性愛や同性愛者に対する見方は若い世代を中心に大きく変化していることを確認した上で、2022年に同条項の廃止に踏み切った。

 以前からリー首相は、「世代が進めば環境も変わり、価値観や次世代への影響も変わる。彼らの期待や願望は、政治に反映される」と語っており、これはシンガポールの今後の方向性を示すものと考えられる。

3.直近の選挙:世代交代と首相後継者をめぐる動き

「第4世代」への政権継承

 様々な時代と環境の変化を受けて、緩やかに変わりつつあるシンガポールではあるが、目下の政治における喫緊の課題は、次世代への政権継承である(表1)。リー・シェンロン首相は以前より、70歳を目途にした首相職の退任を公言しており、それは2020年からの新型コロナウィルス流行という非常事態への対処のため先延ばしされてきたが、近い将来の退任自体は既定路線となっていた。一方で次期首相については、すでに2010年代の半ば以降、次世代の政治エリートである「第4世代」からの候補者選定に関心が集まってきたが、それは従前の世代交代のパターンとは異なる動きを見せてきた。

表1 PAP政権の世代交代

(出典)筆者作成。

 1965年の独立以降、リー・クアンユーと政権・与党は、シンガポールが確固たる政治安定性を基礎に国家発展を持続しなければ、ただちに独立と生存が脅かされる都市国家であることから、十数年おきの世代交代を計画的に行ってきた。最初の世代交代は、1954年のPAP結成から1965~1970年代の建国期をリー・クアンユーと築いた「第1世代」が、1980年代から徐々に引退を開始する一方、「第2世代」の若手がこれを引き継ぎ、1990年のゴー・チョクトンの首相就任で完成した。2回目の世代交代では、1990年代後半から「第2世代」の引退がはじまり、最終的に2004年のリー・シェンロンの首相就任で「第3世代」への継承が完了する。

 そして、次の「第4世代」を担うのが、現在40~50代の現役閣僚たちとなる。政権は2011年以降、計画的な「第4世代」閣僚への世代交代を進めており、2011年から2015年に7人、2015年から2020年には5人と、首相と副首相クラスを除くほぼ全ての閣僚が、10年間で「第4世代」に入れ替わった。しかし、リー首相の後継者となる人物については、その選出に2010年代後半を通じて時間を要した。

 シンガポールという国は、リー・クアンユーの突出したリーダーシップの印象が強かったため、首相の権力・権限が大きいものと考えられがちである。しかし、実際の政権運営では最高指導層内での合議やコンセンサス形成が重視されており、ましてや派閥化や権力闘争などを起こさせないことは不文律となっている。ゆえに次期首相の選出も、過去2回の世代交代と同様に、その人物をチームとして支える同世代の同僚から、リーダーとして承認されることが重要となる。

 一方で、「第4世代」には以前の世代とは異なり、「リー・ファミリー」という建国以来の大前提がない。シンガポールを「リー・ファミリー」という要素抜きでも運営できる「普通の国家」に転換することが、リー・シェンロン首相にとって最大の政治的課題であり、その証拠に彼は自身の子息たちを政界に入れようとはしなかった。このため、「リー・ファミリー」がリーダーシップの大前提となる中で育ってきた「第4世代」にとっても、自らの最高指導者を仲間内での円満なコンセンサス形成を経て選ぶことは、過去に類をみない困難を伴うものとなった。

 こうして最終的には、2018年11月に当時の財務相で、「第4世代」の中では最も年長であったヘン・スイーキアが、次期首相に内定した。同氏は強いリーダーシップを発揮するタイプではないが、有能かつ円満な性格ではあることから、「第4世代」でのコンセンサスが得られた。こうして1度は「第4世代」の後継者候補が決定し、2019年5月の内閣改造でヘンは副首相に昇格した。

新たな転機:2020年7月の国会総選挙

 翌年2020年7月に行われた国会総選挙は、ヘン副首相が将来的に首相となって率いる「第4世代」指導体制への、実質的な信任投票の意味合いが強いものであった。したがって、好ましくない結果を残せば、次期首相・政権の安定性を損なうことになるため、政権・与党は事前に自陣有利の選挙区割りを実施し、また、政権・与党への支持率に影響しやすい物価上昇率などの経済状況を見極めながら、総選挙の実施時期を慎重に検討した。この結果、​2020年6月23日には国会解散が決定した。

 この総選挙では、定数93議席(4議席増)に対し、11政党・1無所属の合計192人が立候補したが、結果はPAPに厳しいものであった。得票率は歴代3位の低さとなる61.2%(注3)で、定員増となったのにも関わらず、獲得議席は現有83議席のままで横ばいとなった。しかも、PAPは事前調査で劣勢が分かっていたイーストコースト・グループ選挙区に、もとは別の選挙区を本拠としていたヘン副首相を投入して確実な勝利をおさめる目論見であったにもかかわらず、結果は野党側との得票率差がわずか6.78%での辛勝となってしまった。これによって、ヘン副首相が国民からの絶対的支持を得られていないという現実が露呈してしまった。

 PAPが苦戦をしいられた一方で、野党WPは4議席増の合計10議席となり、定員増加分を全て獲得した。また複数の選挙区では、「シンガポール民主党」(Singapore Democratic Party, SDP)や、2011年大統領選挙に出馬して惜敗したタン・チェンボクが創設し、これにリー・シェンロン首相の実弟であるリー・シェンヤンも加わったPSPなどの野党勢力が、PAPに対して善戦したことも見逃せない。すなわち、事前に与党有利の選挙区割りが行われていたにもかかわらず、得票率が僅差となった選挙区が複数あったことを考慮すると、情勢次第では野党側がさらに数議席を上積みした可能性もあったと考えられる。

 こうした選挙結果を見ると、国民から「第4世代」への信任が無条件に行われたとは言い難く、むしろ従来の「政治の常識」に変化を求める動きが、建国以来の体制の価値観から脱却しつつある若い世代を中心に拡大していることが、各種の世論調査からも明らかになっている。特に、PAPに対して白紙委任を与えるべきではないと回答した割合が、支持政党や年齢を問わず47%にも及ぶことからも、民意の変化が見てとれる。これを受けてリー・シェンロン首相は、「国会の意見多様化への明確な要求」が見えたとして、特に「若い有権者が野党の拡大を望んでいる」ことを認め、長年の野党軽視を改めて、公式に国民の意見の一部として尊重する意思を示した。

 その後、政府は最大野党であるWPのプリタム・シン書記長に、国会での「野党指導者」としての地位を公式に認め、国会内特権、スタッフや資金の割り当て、限定的だが重要機密事項にアクセスする権利などを与えることを発表した。また、惜敗率の高い選挙区の野党候補者に、国会の意見多様化の確保のため議席を与える「非選挙区選出枠」の制度を用いて、複数選挙区でPAPとの接戦を演じたPSPには2議席が与えられた(表2)。以降、国会では野党による質問で議論が活発化し、これに対する国民の関心も高くなっている。

 無論、野党への圧力がまったく弱まったわけではなく、むしろ野党側のスキャンダルに対しては、政権・与党や官製メディアが執拗な圧力をかけるなどの事象も、いまだに見られる。しかし、もはや国民の意志が明確化されている以上、野党の緩やかな拡大を受け入れざるを得ないことは確かである。比較的リベラルな姿勢で国民の人気が高いターマン・シャンムガラトナム上級相(現大統領)は2020年の総選挙結果を踏まえ、「もはや我が国の政治は、恒久的な意味で変化しつつある」と発言している。

表2 2020年国会総選挙の結果

(出典)筆者作成。
(注1)議席数は93議席だが、選挙後に「非選挙区選出枠」の制度に基づき、前進党に2議席が付与され、95議席となる。
(注2)2023年11月時点では議員辞職・休職などのため、人民行動党79議席、労働者党8議席、前進党(非選挙区選出枠)2議席となっている。

ヘン副首相の後継者辞退とウォン財務相の選定

 20214月、ヘン副首相は突如として次期首相の地位を辞退すると表明した。その理由について、新型コロナウィルス流行の終息後から長期政権を担うには、当時ですでに59歳を過ぎていたことから、年齢的な壁が生じたためとの説明がなされた。こうして振出しに戻った後継者選出では、「第4世代」メンバーである19名の意見集約が困難を極めた。このため国内だけでなく、海外からもシンガポール政治の空白や不安定性の懸念が生じ始めた。2022年1月の新年の新聞紙面には、「第4世代」が連名で、後継者選出が最終段階にあることを伝える広告を打ったが、やはり最終的な意見集約が進まなかった。そこで、20223にはリー・シェンロン首相と2人の上級相の依頼を受け、政界を引退した「第3世代」のコー・ブンワン前運輸相が調整に乗り出した。

 こうしてコーは秘密保持を約束した上で、「第4世代」全員からヒアリングをおこなった結果、ローレンス・ウォン財務相が15名の支持を集め、その旨が20224月に公表された。1972年生まれのウォン財務相は中産階級・非エリート校の出身だが、政府奨学金を獲得して米国に留学した。卒業後に官僚となり、通産省、財務省、保健省での活躍を経て、2005年には将来の閣僚への登竜門である首相首席秘書官に抜擢された。そこで十分な活躍を認められた後、2008年に就任したエネルギー管理局長官を経てから、2011年に国会議員に初当選した。以降は、2012年に文化・地域・青年相代行、2014年に正式昇格、2015年に国家開発相、2020年に教育相、2021年に財務相に就任するなど、順調な出世を遂げていった。

 しかし、ウォン財務相が選出された背景には、彼が有能であること以外にも理由があった。まず第1には、リー・シェンロン首相が進める脱世襲に適っていた。第2には国軍を政治要素にしないため、軍出身者でない点も重要であった。シンガポールの軍エリートは、軍籍を離れても有能な政治家、官僚、企業家として活躍するが、その影響が拡大して政治要素化することは好ましくなく、文官出身者が望ましかった。第3に、安定的に今後の長期政権を担える年齢であることも重要であった。そして第4に、現実的で柔軟なバランス感を持つ人物が必要とされた。すなわち、従来の硬直的な価値観や視野のエリートとは異なる視座で、若い世代とも向き合い、国をまとめ上げることができる人材が求められたのである。

 一方で、官僚の延長線上としての閣僚は務まったとしても、国家の最高指導者としての力量は未知である。加えて、コー前運輸相のヒアリングでは、「第4世代」のうち3名がウォン財務相を第1候補として指名しなかったことが明らかになっている。従来であれば、衆目の一致する形で事前にコンセンサスが形成され、次期首相候補として承認されてきたが、今回のように全員の賛意を得られなかったという事実は、今後の政権運営における不安要素となる可能性がある。

 2022年6月の内閣改造でウォンは副首相に昇格して、名実ともにリー・シェンロン首相の後継者としてリーダーシップを学びつつ、また、国家将来像を再検討・刷新する「フォワード・シンガポール」計画を発表したり、様々な行事やメディアにも登場するなど、次期首相として国民間でのコンセンサスを固めている。同時に、対外的にも次期首相含みで積極的な外国訪問を行うなど、政権継承に向けた準備が進みつつある。一方で、この継承に向けては3つの懸念事項があった。1つ目は2023年9月までに実施の必要がある大統領選挙、2つ目は「第4世代」内でウォンを最高指導者として推挙しなかった者の存在、そして3つ目は2025年11月までに実施の必要がある次期総選挙の実施タイミングである。これらについては2023年に、相次いで具体的な動きとなってあらわれた。

2023年9月の大統領選

 2023年5月、野党からヴィヴィアン・バラクリシュナン外相とK・シャンムガム内相兼法相が居住する国有住宅の賃借手続きに疑義が提示され、首相府は汚職取締局に調査を命じた。6月の捜査報告では、法律違反や腐敗の問題はなかったと結論付けられ、この件は落着となった。しかし7月には、「第4世代」の1人であるS・イスワラン運輸相が、著名実業家であるオン・ベンセン氏と共に突如逮捕された。正式な容疑は発表されていないが、汚職取締局が捜査を主導したことから、両者に癒着があったとの見方が有力である。また、7月には同じく「第4世代」であるタン・チュアンジン国会議長について、同僚国会議員との不適切な交際関係が露見し、その責任をとって辞職している。

 シンガポールでは政権・与党、特にその最高指導層のメンバーによるスキャンダルは、特段の理由がない限り、表沙汰になることは極めて稀である。特に政権移行が間近であり、しかも後述のように大統領選挙を控えた時期に、明らかに政権・与党にマイナスとなる2つの事件が露呈したことには、何らかの思惑が働いているとの憶測もある。すなわち4名いずれかは、ウォンを次期首相として推挙しなかった3名であり、牽制あるいは排除されたのではないかというものである。

 一方で、2023年半ば以降からは、大統領選挙に向けた動きが顕在化していった。この大統領選挙が重要であった理由は、大統領職が象徴的な元首ポストとはいえ、積立準備金の支出許可や重要公職の任免などに、最終的な権限をもっていることにある。このため仮に2011年大統領選挙のように、何らかの趨勢で政権・与党とは異なる勢力から大統領が選出される事態となり、これが新首相とコアビタシオン(保革共存)の状態になった場合、「第4世代」の継承後における政権運営に支障をきたす可能性も皆無ではない。それゆえに、こうした事態は万難を排して避けなければならなかったのである。

 実のところ、同様の問題は2017年大統領選挙でも懸念されていた。すなわち、新型コロナウィルス流行という番狂わせが起きなければ、2017年に選出されたハリマ・ヤーコブ前大統領の任期内に政権継承が実現しているはずであった。このため2017年の大統領選挙でも、ハリマ・ヤーコブを確実に当選させるため、事前に候補者の資格規定が変更され、少数民族優遇制度が導入された。これによって2011年大統領選挙で接戦を演じた華人系のタン・チェンボクは排除され、実質的にマレー系候補者のみが出馬可能となった。そして、ハリマ・ヤーコブ以外に立候補した2名のマレー系候補も、資格審査要件の厳格化によって事前に排除された結果、ハリマ・ヤーコブの無投票当選となったのである。ところが、この政権・与党の露骨な策謀は国民からの強い非難を招き、禍根を残すことになった。

 こうした中で政権・与党側は2023年大統領選挙について、PSP党首であるタン・チェンボクだけでなく、リー・シェンロンの実弟であるにもかかわらずPSPに参加し、前回総選挙での同党躍進を支えたリー・シェンヤンの立候補を強く警戒していた。リー・シェンヤンは、リー首相とは家族間問題で確執を抱えており、一方では政権側を強く批判し、またLGBTの理解普及に以前から積極的に取り組むなどのリベラルな姿勢でも知られており、「リー・ファミリー」としてのカリスマもあわせて、国民から一定以上の支持を得ていたためである。しかし、2023年3月に警察当局は、リー・クアンユーの遺産処分を巡って虚偽発言があったとして、リー・シェンヤン夫妻を捜査中であると公表した。通常、内偵中の捜査情報は伏せられ、逮捕後に公表されることを考えると、これは明白な圧力であった。このため同氏は出国先の欧州から帰国することなく、実質的な亡命状態となった。

 結局、大統領選挙では与党系から、比較的リベラルな良識的賢人として国民から幅広い人気のあるターマン・シャンムガラトナム上級相(前副首相)が出馬を表明した。「第3世代」に属する彼は、リー・シェンロン首相の後継者についての各種世論調査でも、「第4世代」の誰をも差し置いて圧倒的な人気をもっていた人物であり、大統領としても衆目一致する候補であった。そして、他2名の華人系実業家も立候補を表明したことで投票実施が確定し、9月に実施された大統領選挙では、ターマン・シャンムガラトナムが70.4%の得票率で勝利して、正式に大統領に就任した。

 こうして政権継承への環境が整ったことを見計らい、2023年11月5日のPAP党大会の席上でリー・シェンロン首相は、2024年11月の党創設70周年までに、ローレンス・ウォン副首相に地位を譲る意向を表明した。

4.まとめ

 1965年からリー・クアンユーが創り上げてきた成長と発展の特異な統治モデルによって、シンガポールは世界有数の富裕な国家へと成長した。しかし、21世紀に入ると内外の環境変化によって、その有効性は失われていった。これが社会に様々な矛盾を引き起こし、国民の不満が高まった結果が、2011年の国会総選挙で衝撃となってあらわれた。以降の10年間、政府は既存モデルの軌道修正を迫られ、新たな道を模索してきた。小都市国家として引き続き生き残りをかけねばならないシンガポールにとって、まさに2010年代は新しい未来につなげてゆくための「転換期」であった。そして、リー・シェンロン首相は新旧モデルの転換を開始したと同時に、「リー・ファミリー」の世襲終焉を推進したという点で、将来的にその功績が評価されるべきである。

 ただし、新旧モデル転換は現在進行形の試行錯誤にあり、成否は明らかではない。これを具体的に深化・確立し、軌道に乗せるのが、今後十数年を担う「第4世代」指導者たちの使命となる。もはや、建国以来の権威主義やエリート主義に対して、批判精神を持つ若い世代は白紙委任を預けない傾向があり従来にも増して、政権・与党とは異なる意見や議論を求める声が拡大している。近い将来に誕生するであろう「第4世代」政権の運営は、この動きにどう応えていくのかが重要な鍵となる。同時に、国民の側にも変化が求められる。民主制への主体的参加の拡大や、今後に芽生えるであろうポピュリズムへの拒絶など、従来とは異なる政治意識が根づいてゆくのかが、今後の課題となる。

 「第4世代」政権への交代は、遅くとも憲法規定上から2025年11月までに実施する必要がある次期国会総選挙後に、早ければそれ以前の政権禅譲で、というパターンが想定されていたが、2023年11月のリー・シェンロン首相発言からは、2024年11月までの政権禅譲という形で実施される見込みが強くなった。これはウォン次期首相への信任投票となる総選挙を実施する場合、PAPに確実な勝利が見込まれるタイミングが必要となるものの、現時点では、国民の意見多様化に伴う野党伸張の趨勢は衰えておらず、一方で国民の政権・与党支持に直結する消費者物価や住宅価格の上昇抑制策の効果を見極める必要があるためである。ただし状況如何では、早期の総選挙実施の可能性が、未だ完全に潰えたわけではないことにも注意が必要である。

 いずれにしても、新たに誕生するウォン次期首相の政権には、国外では国際経済や安全保障環境の不安定化(注4)、国内では少子高齢化、価値観の多様化、社会的自由の緩和圧力、膨張する社会保障の最適均衡点​の模索など、多くの課題と挑戦が待ち構えている。こうした中で、小都市国家ゆえに安定性・持続性を保つ必要性から、政治面・社会面での自由化が一気に加速することは考えにくい。実際問題として、建国から現在に至るシンガポールでは、政府・与党のリードする体制が社会システムと一体化しており、その変調は現状では負の影響が大きい。この現実は政権・与党だけでなく、野党を含む国民全体が理解しており、基本的な枠組は急速に変化しないであろう

 しかし、政治意識が向上し、多様な意見を求める国民からの監視・圧力で、PAPの一党絶対優位体制が徐々に弱まっていることも事実であり、それは今後確実に進行してゆくと考えられる。こうした中で、ローレンス・ウォン次期首相が率いる「第4世代」の指導体制は、漸進的であっても、より「開かれた社会」への移行をめざす姿勢で、国家運営・社会統治に臨むことが求められる。言い換えれば、従来とは異なる次元で重責を担うことになるウォン次期首相の、国家指導者としての思想と力量が試されることになる。そして、政治・統治モデル転換の最終的な成就は、おそらく「第5世代」の時代という未来になると考えられるその「開かれた社会」における成熟した民主主義が実現したとき、シンガポールは真の成功物語を体現したと言えよう

参考文献


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引用を行う際には、以下を参考に出典の明記をお願いいたします。
(出典)久末亮一(2023)「アジアの「民主主義」第2章シンガポール―シンガポール政治の変容と将来:緩やかに進む民主化への道―」NIRA総合研究開発機構

脚注
1 日本の1人当たりの名目GDPは、約35,385米ドルで世界第28位となっている。
2 2022年の英国調査機関「エコノミスト・インテリジェンス・ユニット」(EIU)による民主主義指数では66位(欠陥ある民主主義)、国際NGO「国境なき記者団」の世界報道自由度ランキングでは180カ国中139位と評価されている。
3 PAPの得票率は、2011年総選挙では60.8%の史上最低に落ち込み、2015年総選挙では69.9%と一旦盛り返したものの、2020年選挙では再び史上最低水準に戻ったと言える。
4 シンガポールは建国以来、バランス外交を基本としており、冷戦期から現在に至るまで、米国を主軸とした地域内の安全保障体制に依拠する一方で、東側諸国や非同盟諸国などとも関係を構築してきた。冷戦崩壊以降は、経済を中心に中国との関係を強化してきたが、2012年の習近平政権の成立以降は、地域外交や安全保障などでも踏み込んだ協力深化を求める中国側に対し、シンガポール側は「一帯一路」や部分的軍事交流など、実益を得られるものに限って応じている。しかし、南シナ海問題や米中対立が加速し、従来の図式が構造的に変化する中で、そのバランス外交には次第に困難が生じている。

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