河本和子
NIRA総合研究開発機構上席研究員/一橋大学経済研究所ロシア研究センター専属研究員

概要

 2022年224日、ロシアの大統領ヴラジーミル・プーチンは、ウクライナに対して事実上の宣戦布告を行い、ロシアは対ウクライナ侵攻を開始した。この戦争がなぜ起きたのか、理解は容易ではない。本プロジェクトは、ロシアおよびウクライナに関する専門家5名の手助けを得て、この戦争が何なのかを解明しようとするものである。
 論者と論題は次の通りである。松里公孝氏は、戦争に至る危機が生じた背景について、歴史的要素と現代の安全保障ならびにウクライナ東部ドンバスの地域事情とから明らかにする。加藤美保子氏は、侵攻前のロシアの軍事・外交政策を明らかにすることで、国際社会の戦争への反応が一義的にならなかった背景を示唆しつつ、来るべき国際秩序のブロック化に警鐘を鳴らす。田畑伸一郎氏は、科された制裁とその短期的・長期的影響、ロシアによる対応策を論じ、将来的な国際経済秩序の変容を展望する。油本真理氏は、大統領支持率、政治エリートの動向、異論派への締め付けに、侵攻前後でどのような変化が生じたか明らかにすることを通じて、見えにくいロシア政治のありように迫る。小泉悠氏は、今般の戦争の特徴を論じた上で、核抑止の下での古典的な戦争と性格付け、核保有国を仮想敵とする日本がくみ取るべき戦訓を明らかにする。
 論者が共通して扱った論点を2つ末尾で紹介する。1つは開戦理由であり、ウクライナのNATO加盟に関する見立てが論者間で微妙に異なるが、究極的な食い違いはない。もう1つはアイデンティティー問題である。ロシアの自己像が未確立なことが各論考でさまざまな形をとって論じられていることを指摘する。

ロシアのウクライナ侵攻
・総論:ロシアのウクライナ侵攻
1章:ウクライナ危機の起源
2章:ロシアのウクライナ侵攻とアジア
3章:ロシアへの経済制裁とその影響
4章:ウクライナ侵攻とロシア内政
第5章:ロシアの対ウクライナ戦争

INDEX

1.はじめに

 2022年2月24日、ロシアの大統領ヴラジーミル・プーチンは、ウクライナに対して事実上の宣戦布告を行い、ロシアは対ウクライナ侵攻を開始した。開戦から9カ月以上が過ぎたが、現在でも戦闘は続いている。このような長期化は、少なくともロシア側は予想していなかったように見える。現在までにウクライナ軍、ウクライナ市民にも、ロシア軍にも多大な損害が発生しているが、和平交渉の見通しは立っておらず、先行きは見通しがたい。

 この戦争の勃発は大きな衝撃をもたらした。多くの人びとにとって、ロシアがなぜこのような戦争を決意したのかは、大きな謎となっていることだろう。何が戦争を決意させる判断材料になったのだろうか。急激な外交的展開から唐突に始まったかに見える戦争に、ロシアの政治エリートは、あるいはロシア社会はどのように反応したのか。また、アメリカをはじめとする西側諸国は侵略戦争を非難し、ロシアに制裁を科すが、それに同調しない国々も相当数あることをどのように理解すればいいのだろう。さらに、経済制裁はどのような効果を持つだろうか。ロシアはどう対応するだろうか。もちろん、戦争そのものの行方は非常に気になる。ウクライナ軍が予想よりもはるかに善戦している、裏を返せば強大といわれたロシア軍が苦戦しているのはなぜだろうか。そして、戦争によって、世界はどう変わるだろうか。日本の安全保障にはどのような影響や教訓があるだろうか。

 疑問のリストは尽きることがなく、この戦争は、今後、長きにわたって研究対象として注目され続けるだろう。本プロジェクトは、未来に生み出される研究の先駆けとなるべく、ロシアおよびウクライナに関する専門家5名の手助けを得て、現在進行形で展開する戦争とそれに付随して起こる国際政治・経済上の事象を目の当たりにしながら、この戦争をめぐる謎の解明に取り組む。

 もちろん、このプロジェクトのみで何もかも解明できるわけではないのは当然のことである。むしろ問題を拡散させすぎないために、各論者のテーマはそれぞれシンプルなものである。しかし、どの論者も、シンプルな問いを重層的に展開させ、非常に読み応えのある議論を構築している。

 論者と論題は次の通りである。第1章、松里公孝氏(東京大学大学院法学政治学研究科教授)の「ウクライナ危機の源泉―歴史、安全保障、地域の特性―」は、戦争に至る危機が生じた背景について、歴史的要素と現代の安全保障ならびにウクライナ東部ドンバスの地域事情とから明らかにする。第2章、加藤美保子氏(広島市立大学広島平和研究所講師)の「ロシアのウクライナ侵攻とアジア―ロシアの軍事・外交政策と今後の地域秩序―」は、侵攻前のロシアの軍事・外交政策を明らかにすることで、国際社会の戦争への反応が一義的にならなかった背景を示唆しつつ、来るべき国際秩序のブロック化に警鐘を鳴らす。第3章、田畑伸一郎氏(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター教授)の「ロシアへの経済制裁とその影響―短期的影響と長期的展望―」は、科された制裁とその短期的・長期的影響、ロシアによる対応策を論じ、将来的な国際経済秩序の変容を展望する。第4章、油本真理氏(法政大学法学部教授)の「ウクライナ侵攻とロシア内政―大統領支持率、エリート、異論派―」は、大統領支持率、政治エリートの動向、異論派への締め付けに、侵攻前後でどのような変化が生じたか明らかにすることを通じて、見えにくいロシア政治のありように迫る。第5章、小泉悠氏(東京大学先端科学技術研究センター専任講師)の「ロシアの対ウクライナ戦争―核抑止下での通常戦争―」は、今般の戦争の特徴を論じた上で、核抑止の下での古典的な戦争と性格付け、核保有国を仮想敵とする日本がくみ取るべき戦訓を明らかにする。

 以下、それぞれの論考の概要を示す。

2.ウクライナ危機の起源

 松里公孝氏(東京大学大学院法学政治学研究科教授)は、分離運動とロシア介入の舞台となったクリミアにもドンバスにも、諸々の事件が起きる以前から足を運んで調査を行い、そのようにして得た現地の情報のみならず、幅広く歴史も踏まえて研究を行ってきた専門家中の専門家である。松里氏の議論は、今般のロシアによるウクライナ侵攻が起きた背景・要因について、長期にわたる歴史的事象から現在の地方レベルの情報まで、広い範囲に及んでおり、歴史と現在をつないだ理解を可能にする。

 歴史に関しては、民族がどのように捉えられてきたか、という入り組んだ問題がまず扱われる。もっとも重要なポイントは、東スラブの3民族――ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人――の民族認識枠組みがどのように変化していったか、また政策的に変更されていったかである。

 プーチン大統領ら右派は、過去の枠組みのうち、ソ連時代の民族政策に強い不満を抱いているという。ソ連期には、それぞれの民族は別々の存在であって、自前の領域で自治を行うという考え方が採られ、帝政期に存在しえた重層的な民族アイデンティティーが許されなかった。このように、人為的に固定された民族がそれぞれ独自の共和国を持つというあり方は、巨大国家の分裂を容易にしたと考えられ、この点に右派の怒りが向けられる。こうした経緯から、右派のロシア人概念はソ連時代のそれより拡張されている。

 以上に述べた歴史的背景を前提に、松里氏はロシアの戦争目的、すなわち安全保障上の問題を論じる。戦争目的に関するロシアの主張は変化しているが、開戦前に主に主張していたのはウクライナのNATO加盟阻止とされる。また、両国間にはクリミアとドンバスという領土問題が2014年に発生した。安全保障問題をめぐり、内政と外交は相互に影響し合う。松里氏の議論から、負のスパイラルを読み取ることができるだろう。

 ロシアはウクライナおよびグルジアのNATO加盟を絶対に阻止するという態度を明確にしてきた。これに対し、ウクライナの政治家たちは、NATO加盟という安全保障問題を選挙での勝利のために使ってきた。

 クリミアとドンバスの分離を引き起こしたのは、ユーロマイダン革命の暴力であり、この革命は当時のウクライナ大統領ヤヌコヴィチがEUとの連合協定を直前になって取りやめたことに対する抗議運動から発生した。ロシアはクリミアを併合する一方、ドンバスはウクライナ内に残して、同地域がウクライナのNATO加盟を阻止することを期待したが、これを可能にする合意(ミンスク2)は実現しなかった。ロシアはミンスク2の精神に反する行動を取りはじめ、ウクライナ側には履行の意思がなくなった。

 最後のメッセージは重要である。われわれはウクライナそれ自体に関心を持たなければならない。ロシアとの関係に照らして考えるから、ウクライナの問題点を指摘することが、そのままロシアの肩を持つことと理解されてしまう。これはウクライナにとっても不幸なことである。

3.ロシアのウクライナ侵攻とアジア

 加藤美保子氏(広島市立大学広島平和研究所講師)は、ロシアのアジア・太平洋政策を中心に、ロシアを含む多国間の外交関係についての研究で知られる若手の専門家である。ロシアの近年の軍事・外交政策の変化と成果から、プーチン大統領の世界観、ウクライナ侵攻へのアジアを含む国際社会の対応が一様にならない理由、今後の世界秩序と日本外交への示唆まで幅広く論じている。

 加藤氏の議論は、侵攻に先立つ約10年間に見られたロシア対外政策の変化から始まる。2008年のグルジア戦争を嚆矢(こうし)として、ロシアは、国境を越えた軍事介入をエスカレートさせてきた。同時に、ロシアは東方外交を活発化させ、中東、中央アジア、南アジア、北東アジアという広い地域で活発に活動し、これらの地域における仲介者としての地位を確立させてきた。

 この間、対外政策を決定する立場にあるプーチン大統領は、アメリカの一方的行動が既存の秩序を揺るがしていると不満を表明してきた。こうした不満はロシアに限らず世界的に広く分布している。ただし、ロシアは国境の外に自らの主権が及ぶ範囲があるとの考え方を採り、実際に軍事介入するようになっており、アメリカを単純に非難できる立場ではなくなっている。

 プーチンは主権に特有のニュアンスを与えた。すなわち、安全と経済成長を自前で確保できる国家が主権国家だという。彼の世界観は、完全な主権を有した国家と、それに依存する中小国で構成される極が複数併存し、極同士が競合する多極秩序として捉えることができる。

 ロシアによるウクライナ侵攻に対して、世界大で見れば、対応はさまざまに割れている。西側諸国はロシアを非難して制裁を科したが、非難はしても制裁を科さない国も、非難もしなければ制裁も科さない国もある。それぞれ国の利害に基づく行動であり、ロシアの東方外交の成果という側面もある。他方で、従来よりもロシアから距離を取る国もある。

 戦争は長期化し、ロシアに対する不信感も続くと加藤氏は予測する。世界では西側諸国vs.中国・ロシアというブロック化が進み、ブロックを越えた対話が困難になる可能性がある。こうした中で、日本は西側の一員として対ロ制裁に参加しなければならない。ただし、ロシアと間に領土だけでなく、漁業やエネルギーなどさまざまな案件を抱えている日本は、アメリカと緊密な関係を維持しつつも、ロシアも地域秩序に取り込んでいく戦略を必要としている。

4.ロシアへの経済制裁とその影響

 田畑伸一郎氏(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター教授)は、ロシア経済の数量分析および制度分析を専門とし、ロシアの石油・ガス依存等に注目して研究を重ねてきたベテランの研究者である。田畑氏は、今般のウクライナ侵攻を理由とした対ロシア経済制裁につき、制裁とそれへのロシア側の対応、ロシア経済への短期的・長期的影響、また世界経済秩序への長期にわたる影響を論じている。

 まず、ウクライナ侵攻後の対ロ制裁は、高度技術品の輸出禁止や石油・ガス等の輸入禁止を含み、以前からの制裁とは次元を異にするほど厳しいものだと田畑氏は指摘する。これに対し、ロシアは、輸出規制による国内市場への供給確保、為替管理によるルーブル暴落防止、政策金利の引き上げによるインフレ防止、石油・ガス収入の一部を財源とする国民福祉基金の活用による財政破綻回避で応じた。

 次いで、制裁の影響が短期と長期とに分けて論じられる。2022年に予想される短期的影響としては、GDPのマイナス成長、石油・ガスの輸出量減少、インフレ、ルーブル下落、株価下落が挙げられる。このうちインフレと通貨については政策的対応もあり改善が見られた。他方で、長期的な影響は、まず財政にある。戦争が長期化し、原資となる石油・ガスの輸出収入が減少すれば、政府系ファンドによる財政の赤字補填が困難になるからである。このことは、これまでのように石油・ガス輸出に依存した経済体制を維持することができないことも意味する。ロシアは世界経済から切り離され、中国を通じてのみ世界とつながることになるだろう。この際、輸入代替が進展すると考えられるが、外国からの技術移転が激減するため、品質の悪化は避けがたい。

 田畑氏は、さらに世界経済秩序に議論を広げる。ロシアによるウクライナ侵攻が示したのは、アメリカ中心の世界経済秩序の外にロシアがあったことであり、制裁に参加しないインドなども、秩序に十分には組み込まれていなかったことである。アメリカが秩序維持者として振る舞えなくなってきた中、新しい秩序形成には困難が伴うだろう。台頭した中国がアメリカと政治的に対立したとしても、経済的にはうまく付き合える体制を築く必要がある。構築できなければ、秩序が存在しないか、機能しないかのどちらかになる、と田畑氏は警告する。

5.ウクライナ侵攻とロシア内政

 油本真理氏(法政大学法学部教授)は、ロシアの内政を中央から地方まで幅広く研究している若手の専門家である。ウクライナ侵攻に際してロシアの内政はどう変わったのか、あるいは変わらないのか。大統領支持率、エリートの動向、反政権的な異論派への統制を手掛かりに、侵攻の前後をそれぞれ比較しながら、見えにくい実態を論じている。

 ロシアの内政に関する情報は乏しいため、想像をたくましくした不確実な情報が広がりがちであり、希望的観測に陥ったり、うわさに飛びついたりする姿勢は報道等でも珍しくない。油本氏はこうした姿勢を戒め、事態をより正確に把握するために、われわれは断片的な情報を積み重ねて地道にかつ慎重に分析するしかないとする。このような思考から、油本氏は、ウクライナへの侵攻でロシアの内政にどのような変化が生じたのかという問いに対し、複数のトピックを選んで、侵攻前後の状況を比較するという方法で迫る。選ばれたトピックは、大統領支持率、エリートの動向、異論派への統制、という内政上の重要論点である。

 プーチン大統領の支持率は、クリミア併合で上昇した後、2018年夏に年金支給年齢引き上げで低下したものの、プーチン政権は力を失ったわけではなかった。侵攻後には大統領支持率は上昇した。差し当たりロシア国民の多数派はロシアの軍事行動を支持しているように見える。ただし、クリミア併合時のような社会の熱狂は見えないと指摘される。

 エリートの動向はもとよりその区分も、もともと見えにくいという。侵攻前に、保守派イデオローグが台頭したが、リベラルが凋落したとは言い切れず、保守的でない者も含めてテクノクラートは自律性を保っている。侵攻後のエリートの離反は少数にとどまるが、亀裂が生じているという情報もある。しかし、現段階で目立った変化はない。

 最後に、異論派とは、政権の公式な言説体系には収まらず、それに挑戦しようとしていると政権に見なされている団体やメディア、一般人と定義される。異論派に対する抑圧は、プーチン3期目以降に顕著になった。侵攻後、反戦デモおよび抗議運動は起きたが、抑え込まれている。国外脱出者もいるが、その数を過大に見積もるべきではない。メディアへの統制も強化されている。他方で統制に限界もある。政権は、インターネットを完全には統制できていない。

 以上のように、プーチン大統領の政権基盤は今のところ揺らいでいない。しかし、侵攻に伴う不確定要素があるほか、強めすぎた統制ゆえの見通しの悪さを抱えている。

6.ロシアの対ウクライナ戦争

 小泉悠氏(東京大学先端科学技術研究センター専任講師)は、ロシア軍に関する研究から出発し、それを踏まえて国家戦略やロシア社会のあり方にまで視野を広げて研究を進めてきた若手の専門家である。本書では、戦争全体の特徴、ロシアの作戦失敗と戦略変更、西側諸国からの対ウクライナ援助、さらに戦争の行く末、日本の安全保障政策へのインプリケーションまで論じている。

 戦争全体について、小泉氏は、核抑止下での通常戦争と特徴づける。ドローン等の新しい技術が注目を集めてはいるものの、戦争のやり方自体が変化したわけではない。

 侵攻の動機は、ウクライナのNATO加盟問題よりは、プーチンの民族主義的な野望にあると小泉氏は見る。ウクライナの政権をすげ替えてコントロール下に置くというロシアの戦略目標は、作戦の失敗によって、次々と変化を余儀なくされた。失敗の理由として、ウクライナに対するロシアの過小評価、戦争への熱狂の有無が挙げられる。防衛するウクライナに熱狂はあるが、攻撃するロシア側にはない。

 ウクライナが戦う上で、西側からの援助は死活的に重要である。西側の援助は、ロシアの核抑止という制約を受けつつも、戦況に応じて拡大してきた。とはいえ、ウクライナが開戦ラインを大きく越えることは軍事的にも政治的にも困難とみられる。他方で、ロシアは核兵器で西側を抑止していると同時に、実際に核使用した場合の展開が予想不能なため、自身も抑止されていると小泉氏は指摘する。

 核抑止下の戦争は今後も続き、ロシアと西側の分断も続く。戦争が終結すれば、ウクライナのNATO非加盟・中立化という論点はまた浮上してくるだろう。ただし、ウクライナの安全のためには、単なる中立化ではなく、その軍事的保障に信ぴょう性を持たせる必要がある。

 日本の安全保障について、小泉氏は、仮想敵国がすべて核兵器を保有していることに注意を向ける。つまり、日本を巻き込む戦争が起きるなら、今般と同様に核抑止下での通常戦争となると考えられる。ウクライナの戦訓から学び、日本としては、アメリカの拡大抑止を確保し、日米安保の機能が失われた事態を想定し、また、ウクライナが行っているように情報発信を戦略的に行うことである。

7.おわりに

 各論者はそれぞれの専門領域を中心に議論しているため、重なり合う論点は多くはないが、そのうちの重要な1つが開戦原因である。松里氏、加藤氏、小泉氏がこの問題に触れている。中でもNATO拡大への評価を異にしていて興味深い。松里氏は、NATO拡大が、とりわけウクライナおよびグルジア(ジョージア)が加入を目指していることが、ロシアにとって受け入れがたいものであったとストレートに論じているが、加藤氏はNATO拡大というよりも、一極的な世界秩序を拒否し、主権を死守するという、つまるところアメリカがグローバルかつ一方的に介入できる状態をプーチンが拒絶する姿勢を示していることを重要視する。小泉氏は、ウクライナのNATO加盟が差し迫ったものではないことを強調し、開戦原因をむしろプーチンの野望に求める。

 これらの見解の違いは、それぞれの論者の個性を示している。とはいえ、究極的には食い違っているわけではなさそうだ。松里氏が強調するのは、加盟の可能性というより、ロシアのウクライナに対する執着の強さであり、別の論考でウクライナのNATO加盟が現実的でないと指摘している(松里2022)。松里氏の言う執着と、小泉氏の言う野望は、おそらく同じものを指している。また、加藤氏が論じる一極的世界がもたらした脅威の1つとしてNATO拡大を挙げることができる。

 ウクライナのNATO加盟が当面ないとすると、なぜこのタイミングで、軍事力を用いてまで当該脅威を取り除こうとしたのかという問題が残る。1つの可能性は、ウクライナがNATOに加盟せずともアメリカから軍事支援を得ており、さらに、オバマ政権が兵器の提供に応じなかったのに対し、トランプ政権がその取得を可能にしたことと関係する。すなわち、アメリカあるいはNATOの援助があれば、時間の経過とともにウクライナの軍事力は強力になっていくことが予想できる。NATOに加盟していなくても、アメリカにくみし、かつ軍事的に強いウクライナの形成は、それ自体、ロシアからすれば阻止するに値するように見えるだろう。

 各論者の議論を通じて浮かび上がる共通の論点がもう1つある。ロシアのアイデンティティー形成から生まれる諸問題である。例えばNATOの東方拡大は、ヨーロッパの安全保障にロシアを取り込みにくくする選択であった。ソ連という長年にわたって形成してきたロシアの領域を失い、アイデンティティーを再確立する必要があったロシアにとって、NATOの東方拡大は、ヨーロッパあるいは西側という自己像獲得を遠ざけるものであった。さらにいえば、ロシア側にはNATOの不拡大が約束されたという認識があり、ゆえに、NATOの東方拡大は西側の裏切りの象徴であり、西側への敵意の源泉として機能することとなった。加藤氏が論ずるロシア外交の東方シフトも、欧米諸国との対立を背景に行われており、非西側的なアイデンティティー確立の試みを含んでいる。

 他方で、安全保障面とは異なり、経済においては、ロシアは、とりわけ石油・ガスの輸出国としてヨーロッパと深く結びつき、比較的良好な関係を築いていると考えられてきた。だからこそ西側諸国を敵に回すことが分かり切っている対ウクライナ侵攻は驚きをもって受け止められた。しかし、田畑氏が指摘するように、既存の秩序が転換期に来ていただけでなく、侵攻はロシアが秩序の外にあったことを示した。西側としてのアイデンティティーを得ず、安全保障面でヨーロッパに取り込まれなかったロシアにとって、西側との経済相互依存は、結局のところ、替えの効かないものではなかったということになるのだろう。

 開戦後のプーチン大統領は、例えば西側におけるLGBT尊重に難癖に等しい敵意を向けさえして、西側的価値観との決別を演出している。こうした対決姿勢に、ロシアの政治エリートがどのような態度を取るかは、今後の展開に影響するだろう。油本氏によれば、プーチン大統領を取り巻くエリートには多様性がある。西側と協調したい者から縁を切りたい者まで、実に幅が広い。エリートの振れ幅が大きいことは、国益を基礎付ける中核的アイデンティティーの不存在を示唆する。開戦後、差し当たって結束するエリートの間には齟齬も見えるという。どの立場の者が力を得ていくのか、注視が必要である。

 ただし、今後の展開と関連して、松里氏および小泉氏が指摘するように、ロシアの戦争目的が変化している点は注意を要する。目的が定まらないのは当初の目的がかなわなかったからでもあるが、当初から不明確だったゆえでもあろう。目的を特定できないのは、西側への恨みと敵意だけが突出し、ロシアが何をすべきかを明確に方向付けるアイデンティティーが不明瞭だからと考えられる。目的が定まらなければ、戦争をどこで終わりにしてよいかが分からなくなるだろう。ロシア側の行動がしばしば合理性を欠くように見える原因の1つはこのあたりにあるのではないか。

 対照的に、ウクライナ側は国土奪還、最大でクリミアおよびドンバスまで回復するという方向性の明確な目標を持つ。ウクライナを支援する西側諸国の目的も、国境線の不可侵などの国際秩序の維持とはっきりしており、ロシアの戦争目的の不明瞭さと鋭い対照をなす。この差異が戦争の行方にいかなる影響を与えていくかは即断できないが、現在のところ、ロシア側の目的が不明瞭なことは、停戦しても真摯に守られず、ロシアがまたすぐに攻めてくるのではないかとのウクライナ側の疑念を増幅させているだろう。もちろん、ウクライナがクリミアまで奪還することを目指し続けるとなると、今戦争を終わらせる理由はない。停戦も戦争の終結も、まだ視界の外にあるといわざるを得ない。

参考文献


松里公孝(2022)「未完の国民、コンテスタブルな国家:ロシア・ウクライナ戦争の背景」『世界』957号.

引用を行う際には、以下を参考に出典の明記をお願いいたします。
(出典)河本和子(2022)「総論 ロシアのウクライナ侵攻―不可解で残酷な戦争は何を意味するか―」河本和子編『ロシアのウクライナ侵攻』NIRA総合研究開発機構

©公益財団法人NIRA総合研究開発機構

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