松田和憲
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科特任研究員

概要

 イスラーム世界で2番目の人口規模を誇るパキスタンは、1947年のインド・パキスタン分離独立以降、対インド政策とパキスタン軍部との関係性を軸にパキスタン政治を展開してきた。カシュミール地方の帰属問題のみならず、近年ヒンドゥー至上主義を標榜するインドとの対立は深化し続け、アメリカとの良好だった関係も様々な要素が重なったことで関係が悪化した一方、2010年代以降は対中国依存度が増加するなど、パキスタンの対外政策に変化が訪れている。
 また、近年は国内政治における変化も顕著である。民主化と国家の安定が必ずしも合致しないパキスタンにおいて、独立後76年の間で軍政が実権を維持した期間は31年にわたり、総選挙の実施回数も多くはない。そのような民主主義の未熟さが見られるパキスタンで、2018年にこれまでの既成政党にはなかった、国民の声を聴き、反汚職を掲げるパキスタン正義党(PTI)が、政権を獲得する事態が起こる。国民から圧倒的な支持を得て首相の座に就いたPTIのイムラーン・ハーンだが、軍部との関係性の悪化と他政党との対立により失脚する。
 政権奪取した政党連合のパキスタン民主運動が、今後どのような動きを見せるのか。これまでのパキスタン政治の既定路線を踏襲するのか、それとも新たな変化を生み出そうとするのか。国民の声よりも既得権益を優先する政治家が多いとされるパキスタンで、ポピュリスト政党失脚後の政治と社会の行方を検討する。

アジアの「民主主義」
序論―欧亜比較の観点から―
第1章インド―権威主義革命と「世界最大の民主主義国」の行方―
第2章シンガポール―シンガポール政治の変容と将来:緩やかに進む民主化への道―
・第3章パキスタン―ポピュリスト政党後の政党連合政権、軍部の影響力―
第4章フィリピン―グローバル化とフィリピンの政治変動―
第5章タイ―タイの今とこれから―
第6章インドネシア―インドネシアの今とこれから―
第7章ミャンマー―ミャンマー危機とアジアの民主主義―

INDEX

パキスタン・イスラム共和国 基礎情報

はじめに

 イスラーム世界で2番目に多い2億4,149万人(2023年国勢調査)の人口を有するパキスタンは、ヒンドゥー至上主義を掲げるモーディー政権との対立による緊張状態が高まっている。また、1947年のインド・パキスタン分離独立時のカシュミール地方にまつわる国境問題が、のちの印パ戦争を引き起こすなど、いまだにインドとの紛争の火種となっている。宗教の違いだけでなく、地理的かつ歴史的経緯によるインドとの根深い対立が長年にわたり続くパキスタンだが、国内の政治動向は知られていないことも多い。

 イスラーム国家としての威厳と対インドに対する強硬な姿勢を軸に外交を展開してきたが、9・11同時多発テロ事件や米中関係など国外からの影響を直に受けることも珍しくなかった。そのため、国防という観点から、独立当初から軍部における政治への影響力は非常に大きく、軍部との関係性により政権崩壊やクーデターが発生することもあり、パキスタン政治は極めて不安定な状況にあるといえる。しかし近年、軍部やアメリカなど国外の意向に揺り動かされる政治体制や既成政党への批判を行い、人々から高い支持を受け、政権奪取したパキスタン正義党の出現により、パキスタン政治に変化が訪れたかのように思われた。エリートや既得権益層に戦いを挑んだポピュリズム政党は、どのような背景から誕生し、そして発展したのか。現状も踏まえ、パキスタン政治のこれまでの動向を確認する。

1.主要政党の動き

 イスラーム教を国教とするパキスタンでは連邦共和制の政治体制を取り、国家元首の大統領と首相を有し、上院・下院の二院制を採用している。パキスタンには下記8つの主要政党が存在するが、それぞれの特徴や成り立ちについて順に説明する。

1.パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派(PML-N)
2.パキスタン人民党(PPP)
3.イスラーム・ウラマー党ファズルルラフマーン派(JUI-F)
4.パキスタン正義党(PTI)
5.パキスタン・ムスリム連盟カーイデ・アーザム派(PML-Q)
6.統一民族運動(MQM)
7.イスラーム党(JI)
8.パキスタン・ラッバイク運動(TLP)

1.パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派(Pakistan Muslim League-Nawaz(PML-N))

 パキスタンでは2022年4月から2023年の8月まで、パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派(Pakistan Muslim League-Nawaz(PML-N))のシャハバーズ・シャリーフが首相を務めた。パキスタンには全国展開する政党が存在せず、地域・州を基盤とする政党が大半を占める。ムスリム連盟ナワーズ派は、1986年の軍事政権下でシャハバーズ・シャリーフの兄にあたるナワーズ・シャリーフが設立した。中道右派で、パンジャーブ州を地盤とする。1988年にズィヤーウルハク軍事政権崩壊以降、3度にわたり政権を担う。ムスリム連盟ナワーズ派の最高指導者であるナワーズ・シャリーフは、2017年の3期目にパナマ文書流出が発端となり、汚職疑惑で議員資格停止(終身)判断により議員辞職した。2018~2019年に刑務所に収監されていたが、1カ月間ロンドンの病院で心臓病の療養をする許可を得て渡英し、数年にわたってロンドンに滞在し続けていたが、2023年10月21日にパキスタンに帰国した。政党の若手有力政治家としては、ナワーズ・シャリーフの娘、マリヤム・ナワーズと現首相の息子であるハムザ・シャハバーズがいる。マリヤム・ナワーズは2018年下院選挙出馬予定だったが、汚職容疑で選挙資格を喪失している。ハムザ・シャハバーズは、2013年に下院議員当選し、2018年にはパンジャーブ州議会議員となったが、翌年2019年に汚職疑惑で逮捕された。その後、保釈され、2022年4月30日から7月26日までパンジャーブ州首相を務めた。

2.パキスタン人民党(Pakistan Peoples Party(PPP))

 パキスタンの民主化を考える上で重要な役割を果たすのが、中道左派のパキスタン人民党である。1967年に設立し、スィンド州やパンジャーブ州南部に地盤がある。アースィフ・アリー・ザルダーリーが総裁を務めている。息子のビラーワル・ブットー・ザルダーリーは30代半ばの若い政治家だが、シャハバーズ・シャリーフ政権下で外務大臣を務め、20237月には来日している。もともとビラーワル・ブットーの祖父、ズルフィカール・アリー・ブットーがパキスタン人民党を結成し、その娘であるベーナズィール・ブットーが、1988年にイスラーム世界初の女性首相に就任したことで広く知られている。 

 ズルフィカール・アリー・ブットーは、1958年からのアユーブ・ハーン軍事政権下で外務大臣等を歴任した。第3次印パ戦争の敗北やバングラデシュ独立に伴う敗戦処理を進め、経済改革として国内企業の国有化政策を行うとともに、核開発を推し進めた人物としても知られる。また米中関係では、ニクソン大統領の訪中に一役を買ったといわれている。余談だが、202311月に亡くなったキッシンジャー元国家安全保障問題担当大統領補佐官の1971年極秘訪中はパキスタン経由であり、北京への移動はパキスタン大統領専用機が使用された。ズルフィカール・アリー・ブットーは1977年のズィヤーウルハクによるクーデターで失脚し、1979年に絞首刑に処された。

 ベーナズィール・ブットーはズルフィカール・アリー・ブットーの娘で、イスラーム世界初の女性首相という輝かしい肩書の裏で汚職疑惑や、1996年当時に下院解散権を有していた大統領との不和で失脚する。一部でアフガニスタンのターリバーンを援助していたという噂があり、ムシャラフ軍事政権下では国外に追われた。20073月以降のムシャラフ政権の弱体化に伴い、10月にパキスタンに帰国した。帰国直後にテロに遭遇し無事だったものの、20071227日にラーワルピンディーで開催された集会で暗殺された。

 2008年に実施された選挙では夫であるアースィフ・アリー・ザルダーリーが勝利し、2013年まで政権を担っていた。彼も同様に汚職疑惑があり、事業のコミッション手数料10を要求するため、「ミスター10%」と呼ばれている。

3.イスラーム・ウラマー党ファズルルラフマーン派(Jamiat Ulema-e Islam Fazi(JUI-F))

 20224月から238月まで政権を担っていた政党連合、パキスタン民主運動(Pakistan Democratic Movement(PDM)を創設した宗教政党が、イスラーム・ウラマー党ファズルルラフマーン派(Jamiat Ulema-e Islam Fazi(JUI-F)である。イスラーム・ウラマー党の歴史は長く、1945創設、ハイバル・パフトゥンハー州とバローチスターン州に地盤を有する。ズィヤーウルハク軍事政権に対する態度を巡り党内で対立が発生し、1980年に分裂した。宗教政党ということもあり、右派・反米・反イスラエルを推進している。2002年の軍事政権下での選挙で、宗教政党連合(Muttahida Majlis–e–AmalMMA))の一翼を担い、342議席中59席を獲得し、第3党へと躍進を遂げた。

4.パキスタン正義党(Pakistan Tehreek-e Insaf(PTI))

 2018年の総選挙で342議席中142議席を獲得し、第1党に躍り出たのは、パキスタン正義党である。創設は1996年と比較的に新しく、中道、ポピュリズム、反汚職を掲げ、ハイバル・パフトゥンハー州やパンジャーブ州、都市部の若者から支持を集める。創設者の元クリケット選手であるイムラーン・ハーンが20224月まで政権を担っていたが、内閣不信任案が可決され失脚した。この背景には、2021年秋にイムラーン・ハーンが軍統合諜報局の長官人事に口を出したことで軍との関係悪化、軍からの支持を失ったという事情がある。内閣不信任案可決後の20225月に大規模デモを企画するも、軍部の介入からか、中止を余儀なくされた。

 下
野後は、アメリカ陰謀説を提唱し、アメリカの「輸入政府」としてのシャハバーズ・シャリーフ政権や軍部への批判を展開し、選挙の早期実施を要求していた。これはパキスタン正義党への支持が高いうちに選挙の実施をねらうものだったが、政権与党を含むその他の政党は、イムラーン・ハーンの公職資格停止に向け力を注ぎ、イムラーン・ハーン支持のテレビ局の放映禁止措置などを行った。暗殺未遂事件や外国からの献金問題に関する疑惑がかけられるなど、イムラーン・ハーンに対する攻撃が高まり、202359日に逮捕される事態となった。この逮捕が引き金となり、イムラーン・ハーン支持者たちがラホール軍団長の住居や軍施設を攻撃するといった暴動が起こると、政権側はこの暴動をテロ(パキスタンの911)と見なし、容疑者たちを軍事裁判にかけるまでに発展した。512日に最高裁はイムラーン・ハーンの逮捕を違法と認定したが、この事件後、逮捕や裁判を通した圧力により、パキスタン正義党の主要な政治家が離党、または政界引退に追い込まれ、崩壊状態に陥っている。

 20242月実施予定の選挙を見据えた動きとして、パキスタン正義党議員には3つの選択肢があった1つ目は、202368日に結党したパキスタン安定党(Istehkam-e Pakistan Party(IPP))に加入し、政治家としての活動を継続することである。実業家・元国会議員で、元パキスタン正義党の幹事長であるジャハーンギール・タリーン・ハーンが先導して結成された党だが、59日の暴動以降、パキスタン正義党の離脱者の取り込みを行っている。2つ目は、パキスタン人民党(PPP)に加入し、次期政権の要職就任をねらうパターンである。そして3つ目は、禁党処分もありうるパキスタン正義党(PTI)に残るという選択肢で、事実、一部の党員が該当する。

5.その他の政党

 2024年2月予定の国政選挙は、上記4政党いずれも単独過半数は難しいとの見方が大半で、特にムスリム連盟ナワーズ派は他党との交渉を活発化させて議席調整を行っている。2024年2月実施予定の選挙で話題となりそうな4つの政党を紹介する。

 パキスタン・ムスリム連盟カーイデ・アーザム派(Pakistan Muslim League-Qaid(PML-Q))は、先述のムスリム連盟のナワーズ・シャリーフに反感を抱く党員らが中心となり、2002年に結成された政党である。シュジャート・フサイン党首のもと、2002年から2008年まで政権を担い、ムシャラフ軍事政権の御用達政党(中野2014: 102)と称された。2018年の総選挙では、獲得議席は5議席のみだったが、パキスタン正義党(PTI)と連立政権を組んだ。2022年のイムラーン・ハーン失脚後、一部の指導者はパキスタン正義党入りしたものの、2023年12月には、10月に帰国したナワーズ・シャリーフとパキスタン・ムスリム連盟カーイデ・アーザム派の指導者が会談を実施しており、選挙協力が話し合われたのではないかと言われている。

 統一民族運動(Muttahida Qaumi Movement(MQM))は、スィンド州カラーチーやハイデラバードに居住し、ムハージル(インドからの移住者で、特にウルドゥー語母語話者)権益保護を目的に、1984年に設立された中道・リベラルを掲げる政党である。1970~80年代は、ブットーの政党であるパキスタン人民党(PPP)の勢いが非常に強く、スィンド州内におけるPPPの勢いを削ぐため、軍部が設立に関与したともいわれている(中野2014: 103)。カラーチーの治安問題に非常に関わっており、過去に準軍事組織を有し、敵対人物に対する暗殺、誘拐、拷問などを行っていたため、当時は軍事掃討作戦が実施された。党の設立者は1990年代からイギリスに移住し、党への影響力はなく、パキスタン在住のMQM党員が分派のMQM-Pを作った。内部抗争が盛んで、2018年の総選挙時は、分派のMQM-Pが7議席獲得し、パキスタン正義党(PTI)と連立を組んでいたが、現在は離反し、PDM政権の一員となった。2023年11月に次期選挙でムスリム連盟ナワーズ派と協力する合意を発表した。

 3つ目は、1941年にイスラーム思想家、アブルアアラー・マウドゥ―ディーが創設したイスラーム党(Jamaat-e Islami(JI))である。ズィヤーウルハク軍事政権時代のイスラーム化政策に影響を与え、右派・反米・反イスラエルを掲げる。パキスタンで最もよく組織された宗教政党であり、「汚職はしない、受け取らない」というスタンスを表明している。2002年の下院選挙時の宗教政党連合(MMA)の一翼を担い、国会議員数は少ないものの、過去にカラーチー市長を輩出するなどの存在感を示す。

 最後の4つ目の政党は、2015年に設立された極右宗教政党、パキスタン・ラッバイク運動(Tehreek-e Labbaik Pakistan(TLP))である。ハーディム・フサイン・リズヴィーが創設し、サアド・フサイン・リズヴィーが現在党首を務める。基盤はパンジャーブ州で、2011年にパンジャーブ州首相を冒涜の咎で銃殺したボディーガードを英雄視するイスラーム学者が集まり、結党した。近年では、2020年にフランス大統領によるムハンマド風刺画の擁護声明に反発し、フランス大使追放運動を展開した。その最中、創設者のハーディム・フサイン・リズヴィーが新型コロナウイルスのような症状を発症して亡くなり、その息子のサアド・フサイン・リズヴィーが後継として党首の座についた。暴力的な抗議運動が展開されたことにより、2021年4月から11月まで禁党処分を受ける。下院では議席を獲得していないが、スィンド州議会に168議席中3議席を有していた。

過去の選挙結果と近年の政権の変化

 各主要政党の特徴について確認したが、パキスタン政治の変遷について、過去の選挙結果を踏まえて説明するパキスタンにおいて5年の任期満了に伴う総選挙の実施回数は、1947年のインド・パキスタン分離独立以降、3回のみに留まる。下院の総選挙回数についても1970年に1回目が実施されて以来、11回しか行われていない。民主主義に基づいた選挙制度を採用しているものの、その実、軍部等による影響で長年パキスタン政治に民意の反映が困難な状況が続いていたまず、最初の下院選挙が行われた1970年にアワミ連盟(東パキスタン)が第1党となったが、翌年1971年にバングラデシュとして分離独立したため、第2党だったパキスタン人民党PPPが政権を担うようになった。その後は、軍政(および準軍政)と民政が交互に入れ替わる時代が2008年まで続く(詳細は「2.どのような勢力と政党が結びついているのか」を参照)。軍政下で行われた選挙は1985年と2002年に過去2回あり、1985年は非政党ベース、2002年はパルヴェーズ・ムシャラフの軍部トップが結成させたムスリム連盟カーイデ・アーザム派PML-Qが第1党となったそれ以外の民政下の歴代政権は、パキスタン人民党PPPか、ムスリム連盟ナワーズ派(PML-N)が担っていた。

 軍・準軍政権を率いたムシャラフが失脚することになった2008年の下院総選挙以降は、現在まで民政が続く流れとなる。2008年選挙ではパキスタン人民党(PPP)が第1党になり政権を奪取する。ベーナズィール・ブットーが暗殺された直後だったため、弔い合戦の意味合いを強く持つ選挙であった。次の2013年選挙では、ナワーズ・シャリーフのパキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派(PML-N)が過半数に迫る議席を獲得するが、その一方で、パキスタン人民党(PPP)とパキスタン・ムスリム連盟カーイデ・アーザム派(PML-Q)は大幅に議席を失うそして、2018年選挙では、ポピュリスト政党のパキスタン正義党(PTI)が第1党に躍進し、パキスタン・ムスリム連盟カーイデ・アーザム派(PML-Q)や統一民族運動(MQM)、その他諸政党との連立政権が発足する。しかし、4年後の20224月に統一民族運動(MQM)が離反し、過半数割れで不信任案が採択されると政党連合のパキスタン民主運動PDMが代わりに政権を担うようになった。パキスタン民主運動(PDMは、イムラーン・ハーン元首相に敵対する勢力が集い、パキスタン正義党(PTI)政権を打倒するためだけに結成された諸政党連合政権で、それ以外の政策や方針については必ずしも一致していないPDM政権では、パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派(PML-N)のシャハバーズ・シャリーフが首相、パキスタン人民党(PPP)のビラーワル・ブットー・ザルダーリーが外務大臣を務める。新体制ではあるものの、2018年から大統領は変わらずにパキスタン正義党(PTIのアーリフ・アラヴィーが務めていることから、一見ねじれが起きているようにも見える。しかし、大統領が下院議会解散権を有していた1990年代とは異なり(注1)、現在はそのような権利もないため、このねじれによる影響は少ない

 このように近年ダイナミックに揺れ動くパキスタン政治においては民政を維持していたとしても、軍部との関係性は依然として強く影響する。軍と政治との結びつきやパワーバランスについて、次に確認する

2.どのような勢力と政党が結びついているのか

政治への軍部の影響力―軍事クーデターと軍政

 軍政と民政が交互に入れ替わるパキスタン政治においては、1947年のインド・パキスタン分離独立当初から国防という観点でも、軍部による政治への影響力は非常に大きい。独立後まもなく、パキスタン建国の父であるジンナーが亡くなり、右腕だった首相も暗殺され、憲法制定までに9年間という長い時間を要した。そのような観点からも、軍部の影響力や重要性は非常に根強く、政権安定のためには軍部の支持・協力が必須となっていった。現に、イムラーン・ハーン政権も軍部の支持が徐々に失われて、政権交代へと向かう政治力学に変化したという経緯がある。歴史的にも不安定な状況が続くパキスタン政治について大阪大学の山根教授は、次のように指摘する。「パキスタンでは、国民の政治参加や政治発言を認める民主制度の定着と、政治的安定や経済発展が重ならない場合が往々にして存在した。したがって、パキスタンの国家体制や社会を考える場合、民主化と国家の安定が必ずしも両立しない(山根2015: 2)」。それでは、民主化の動きとは反比例する国家の安定において、政治にも大きな影響力を持つ軍部の役割はどのようなものだろうか。

 パキスタンでは、政党や政治家の未熟さゆえに、過去に民政に対する軍部のクーデターが3回、そして軍政に対して軍の一部が起こしたクーデターが1度発生している。純粋な軍政期間は17年4カ月だが、軍部主導の総選挙実施で文民内閣を成立させ、軍が実権を維持する「軍・民権力分有体制」の期間を含めると計31年となる(表1)。これまでのパキスタンの政権には、民政・軍政のほか、軍部が総選挙を実施し、文民の政権を立て、軍が後押しするという準軍政がある。

   表1 政権と政党システムの展開  
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     (出典)筆者作成

 3回の民政へのクーデターは、不安定な政治や、大地主が多い政治家への不信感による「世直し」を行うことを目的としていた。1958年に最初にクーデターを行ったアユーブ・ハーンは、「国民の才能にかなった統制された民主主義」の実施という大義名分のもとに、クーデターを正当化した。また、軍事政権の強力な指導の下、政治的・経済的安定がもたらされたという事実も、この大義名分を裏付けるものとなった。2回目のクーデターは、1977年にズィヤーウルハクが起こすが、その2年後にソ連によるアフガン侵攻があり、アメリカなどの欧米諸国や日本から、膨大な資金が流入し、そこで多少の経済的な豊かさを得るという現象が発生した。1999年に3回目のクーデターを起こしたパルヴェーズ・ムシャラフは、2年後の9・11同時多発テロ事件でアメリカから立場の表明を迫られた際に、イスラーム側ではなくアメリカ側を支持したことによって、アメリカなどの欧米諸国から大量の資金が流れ込み、経済的にやや回復するという事象も起こっている。

 しかし、もともとカシュミール問題でインドとの軋轢があり、反インドを掲げるイスラーム急進派を軍部が支援していったという背景から、軍部がイスラームの過激派、急進派とつながりがあるのは明らかである。「イスラーム体制確立を掲げてテロ活動を続ける急進派」は、軍部とイスラーム組織との関係性が取りざたされてきたとされる(山根2015: 3)。パキスタンの著名なイスラーム思想家であり、イスラーム党JIの創設者・マウドゥーディーが、ジハードの正当化として、「ジハードは防衛を目的にしたもの」で攻撃するものではないと提唱したが、1960年代以降にこの考え方がイスラーム世界に流布していった(山根2015: 2)。そして結果的に、アルカイダによる反米ジハードの推進や、イスラーム世界防衛のための反米ジハード正当化といったような過激な解釈へとつながった。1979年の対ソ連戦争では、神を否定する共産主義に対する戦いを軍部が称揚したが、アメリカも同様の理由で称賛したとされる。ズィヤーウルハク軍事政権下では、ハラールの遵守や1日5回の礼拝を必須とするなど、イスラーム化政策を強く推し進めていった。預言者ムハンマドやイスラームを冒涜した者を死刑に処すという、現在においても問題視されている法律ができたのもこの時である。また、1994年の隣国アフガニスタン内戦時には、軍の諜報機関がターリバーン設立を支援し、援助したといわれているが、これも防衛のためのジハードと捉えられる。

 このように対外的また宗教的に強硬な姿勢を見せるパキスタン軍部だが、これまでのパキスタン政権において、軍部の支持を得ることが非常に重要であった。支持における1つの境界線となるのが、対インド政策である。政権がインドに歩み寄る姿勢を見せると、軍部からの牽制が入り、場合によっては傘下の組織に命じてカシュミールを攻撃させ、対インドとの関係性を意図的に悪化させていた。軍部とのパワーバランスもあり、これまでのパキスタン政権が軍批判を行うことはなく、たとえ個人であっても軍を批判すること自体、拘束のリスクを抱えるものであった。また、軍部が複数の会社を経営し、膨大な既得権益を有していたため、富の面でも軍の力は大きいものであった。そのような強い影響力を持つ軍に対して対峙するイムラーン・ハーン元首相のような政治家は、ごく最近まで現れなかった。

 また、政治家をはじめ、軍に干渉する勢力はこれまで不在であったが、近年では最高裁判所が軍に対して牽制を示すようになりつつある。最高裁の過去の役割としては、軍がクーデターを起こす場合に正当性が求められるが、最高裁判所が必要性の法理を発出し、クーデターにお墨付きを与えるという形が取られていた。しかし、最近では、クーデターなどで憲法を停止すると、クーデターの発起人は処刑か終身刑といった重い刑に科されることが憲法で定められたため、クーデターを起こす傾向がこれまでよりも低くなっている。以前は、軍部がクーデターを起こした際に、裁判官に対して軍政権に誓いを立てることを迫り、誓約させていた。つまり、いわゆる軍支持の裁判官だけを最高裁に残すという方法で、クーデターを擁護する流れになっていた。しかし、2007年のムシャラフ軍事政権下では、最高裁判所の長官と対立した結果、ムシャラフ政権が終焉を迎えたという経緯もある。近年の最高裁判所は、政府や軍と対等する力を持つ重要なアクターとなっている。

 軍部と政府との関係性や最高裁判所の現在までの立ち位置について確認したが、次に目まぐるしい動きを見せるパキスタン政治の今後の展開について検討する。

3.今後の動向

 パキスタンでは、国民の意見を聴き、その声を政治に反映させるというよりは、自らの利益や自己保身のために政治家を目指すという人が多く見受けられる。そのため、政治家が他の党に移籍することは珍しくない。例えば、イムラーン・ハーン政権下で外務大臣を務めた政治家のシャー・マフムード・クレーシーは、最初はパキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派(PMLN)に所属し、その後パキスタン人民党(PPP)、2018年の選挙前にパキスタン正義党(PTI)に移籍した経歴がある。政治家の利害を優先の姿勢や、政党間での政治家の流動性の高さは、結果的に政党や政権の不安定さにも直結する。国民から高い人気を誇ったイムラーン・ハーンが政治の舞台から退場を余儀なくされた今、パキスタン政治の今後はどう予測されるか。

 2024年2月の次期選挙では、パキスタン正義党(PTI)から移籍した政治家たちの動向が注目される。現在、半ば亡命のような形でロンドンに4年間滞在していたナワーズ・シャリーフが2023年10月に帰国し、パキスタン・イスラム連盟ナワーズ派(PML-N)が過半数の議席取得には至らないが第1党になるのではないかと目されている。ナワーズ・シャリーフは帰国後、他政党に対して選挙区調整を持ち掛け、イスラーム・ウラマー党ファズルルラフマーン派(Jamiat Ulema-e Islam Fazi(JUI-F))や統一民族運動(MQM)とともに、次の選挙を戦う見込みである。反イムラーン・ハーンで共に戦ったパキスタン人民党(PPP)は、PMLNと袂を分かれ、元PTI政治家等を取り込む工作を実施している。もしPPPが選挙で勝利すれば、元外務大臣のビラーワル・ブットーが首相になるのではとの声が一部で上がっている。どちらにせよ、イムラーン・ハーンが圧倒的な得票率を誇った前回の2018年選挙時とは裏腹に、おそらくどの政党も過半数には至らないことが予想される。連立政党であれば、軍部が政局を動かしやすい側面もあるため、単独政権にはならないと考えられているのだ。前回選挙でPTIが勝利したパンジャーブ州の約80選挙区の結果次第で第1党が決定すると思われる。

4.対外関係

 パキスタン政治におけるカシュミール問題をはじめとする対インド政策やパキスタン軍部の影響力などを見てきたが、次にパキスタンと各国との関係について、歴史的経緯、地政学的リスク、そして経済的側面を鑑みながら確認していく。まず国内の経済・産業の状況だが、パキスタンの主な産業として、農業と繊維業が挙げられる。特産品のマンゴーは、主に海外に輸出され外貨取得源となっており、繊維業に関しては、朝鮮戦争前後にパキスタンの綿花を日本に輸出して以降、日本の復興にも貢献したといわれている。GDPの成長率は、2023年時点で0.29%と、前年比と比べて非常に低下し、実際にはマイナスになっていると考えられる。それに対し、物価上昇高が38%と、インフレに苦しんでいる。ウクライナ危機による原油高や洪水被害もあり、人々の生活を直撃している。主要貿易相手国として、輸出はアメリカ(61億ドル)、中国(25億ドル)、イギリス(22億ドル)、輸入は中国(161億ドル)、UAE(78億ドル)、サウジアラビア(50億ドル)の順番である。輸出品目は、繊維製品、植物性生産品、鉱物性生産品、輸入に関しては、鉱物性生産品、機械類、化学品である。国の対外累積債務残高が1,257億ドルで、パキスタン中央銀行の外貨準備高が80億ドルと、輸入2ケ月分のドルしか有していないのが直近の状況である。

アメリカ

 対外関係に関しては、先に独立時から関係性の深いアメリカに対するこれまでの対応を紹介する。1947年の独立以降、パキスタンはアメリカとの関係を1番重視し、アメリカ側も「アジアで最も緊密なアメリカの同盟国(加賀谷・浜口1977: 257)」と称するほどに良好な関係を築いていたが、徐々に互いへの信頼が失われ、関係性が悪化した。1960年代初頭の中国・インドの国境紛争で、アメリカがインドに武器供与を行ったことに不満を抱き、さらに1965年の第2次印パ戦争で、反共軍事同盟である東南アジア条約機構(SEATO)がパキスタン側を支援しなかったことに対しても不満を募らせていった。しかし、1970年前後にはアメリカ・中国の国交正常化に一役買うこととなる。Z・Aブットー首相期に核開発疑惑で対米関係は悪化したものの、1979年にソ連のアフガニスタン侵攻により、「前線国家(山根2015: 4)」・「親米的イスラーム国家(山根2015: 4)」として西側諸国・中東から莫大な支援がパキスタンに流入する。1989年にソ連がアフガニスタンから撤退し、パキスタンへの支援が停止すると、核開発疑惑でふたたび監視の目が強まっていく。1998年に実施した核実験により経済制裁を受け、パキスタン経済が崩壊寸前にまで陥った。そのさなか、1999年に軍部のムシャラフ大統領がクーデターを起こすことになる。

 2001年に発生した9・11同時多発テロ事件で、半ば強制的に(注2)アメリカ側として参加したが、これにより経済制裁が解除される。経済制裁下の疲弊した状況から、再び多額の支援を得たことにより経済的に持ち直したものの、テロとの戦いに参加したことで自爆テロ件数が激増する。また、2004年頃から米軍のドローンによる無人爆撃機攻撃がアフガニスタン国境付近で開始し、パキスタン側に住む民間人への誤爆が非常に多く起こったため、国内で反米感情がさらに高まっていった。アメリカがパキスタンへの支援を行う中で、核開発に対して追及する立場を取り、パキスタンの原爆の父、ハーン博士による核関連技術漏洩の証拠を突き出したことで、ハーン博士がテレビで謝罪を述べる出来事にも発展した。この核関連技術に関しては、主に北朝鮮などに情報が流れたといわれている。アメリカとパキスタンの間に決定的な亀裂が生じたのが、2011年のビンラーディン殺害である。イスラーマーバードから50キロ離れたアボッターバードという街に潜伏していたビンラーディンの住居が、パキスタン軍の士官学校の目の前に位置していたことから、ビンラーディンの潜伏にパキスタン軍が関わっていたのではないかとする疑惑の目を向けられた。米軍の特殊部隊が現地でビンラーディンを殺害したが、パキスタン側には一切の事前通告がなされずに主権侵害されたことから、関係悪化の要因となった。その後、2011年11月ごろにNATO軍によるパキスタン軍の検問所が誤爆された事件も起こり、アメリカをはじめヨーロッパ、NATOとも関係が悪化する。これを境に、パキスタンが中国に接近するようになったといわれている。

 アメリカの無人機攻撃を批判してきたイムラーン・ハーン政権が2018年に発足した際、アメリカではトランプ大統領がTwitterでパキスタン非難を繰り返していたため、対米関係は悪化の一途を辿った。2010年代以降、インドとの関係を深めるアメリカにとって、アフガニスタンの米軍撤退にはパキスタンの協力が必要不可欠だったが、相互不信の状態が続いた。2021年に就任したバイデン大統領も、イムラーン・ハーン首相(当時)と電話会談さえ実施しておらず、同年8月のアフガニスタン撤退時には、パキスタンについての言及もなかった。パキスタンにとってみれば、対テロ戦争で多大な犠牲を払ったにも関わらず、まったく言及されなかったという事実は屈辱的であった。さらに亀裂を深めたのが、2022年2月にパキスタンの首相として20年振りに行ったロシア訪問である。ロシアによるウクライナ侵略戦争発表の前日にモスクワを訪問し、首相会談を行ったのだが、このときホワイトハウスが駐米大使を通してイムラーン・ハーン元首相に対して、会談中止を要請したのである。これまで一切音信不通だったアメリカからの突然の要請によって、イムラーン・ハーン元首相のアメリカに対する不信は極限にまで達した。翌月3月に野党からイムラーン政権に対する不信任案が提出・可決されたのち、イムラーン・ハーンは失脚するが、これに関してもイムラーン・ハーンはアメリカの陰謀だと強く非難するほどであった。2022年4月以降は、アメリカとの関係も改善の兆しが見え始め、5月と7月にビラーワル外相の訪米に伴いブリンケン国務長官と会談を行うなど、閣僚往来が再開した。2022年7月31日にアフガニスタンにおいて、米軍がカタール基地所属の無人機でアル・カイーダNo.2のザワーヒリーを殺害した際に、米軍がパキスタン空域を使用したとターリバーンが主張し、パキスタン内務省は否定したものの、アメリカからパキスタンに対して事前通達があったものと見られている。

インド

 先に触れた通り、歴史的背景からインドとは常に緊張関係にあったが、2014年~2015年まではモーディー首相との関係が比較的に良好だったといえる。しかし、2016年にパキスタン軍の傘下にあると言われる軍事組織が、インド側のカシュミールにあるインド軍駐留基地を攻撃し、モーディー首相の態度を硬化させた。その後、決定的な亀裂が生じるきっかけとなるのは、2019年2月に同じくインド側のカシュミールで発生した警察隊の車列を標的とした自爆テロで、十数人が死亡した事件である。パキスタン軍の支配下にあるとされる組織主導によるもので、その12日後には報復としてインド空軍がパキスタン側のKP州を空爆する。このとき、イムラーン・ハーン元首相とパキスタン軍が自制したため、戦争には至らなかった。しかし、同年8月に、インド側がカシュミール州の特別自治権を一方的に撤廃する事態が起こった。これはインド・パキスタン独立以降、カシュミール州には特別な自治権が与えられ、様々な特典(注3)が設けられていたが、その自治権を剥奪し、特典を全て無効化にするという大統領令が発令され、インド議会で可決(注4)された。この流れに対して、パキスタン側が猛抗議を行い、現在においても批判を続けている。

 また、対インドとの緊張状態の高まりに関しては、別の側面の影響もある。近年、インドにおけるイスラーム教徒に対する迫害が強まり、モーディー首相が所属するインド与党BJPのヌープール・シャルマー報道担当官が、テレビで預言者ムハンマドに対する冒涜発言を行うなどして、議論を呼んだ。この冒涜発言は、パキスタンだけでなく、カタールやサウジアラビアなどの中東諸国も非難し、大きな問題へと発展した。2023年5月にインドがカシュミールで開催したG20ツーリズム関連会合には、パキスタンの友好国である中国、サウジアラビア、エジプト、トルコが欠席するなど、いまだに緊張状態が続いている。

中国

 次に、国境を共有する中国との関係である。全天候型友好関係を築くパキスタンと中国は、「ヒマラヤより高い」友情を結んでいるといわれる。パキスタンは、1950年にいち早く中国(中華人民共和国)を承認した国の1つだが、印パ独立後の最初の10年は、パキスタンがアメリカを重視していたこともあり、中国に対してそれほど注力していなかった。中国とインドとの間で国境紛争が生じたのをきっかけに、パキスタンが中国と接近する。結び付きが強まるのは、Z・Aブットー外相時の1962年に、カシュミールのトランス・カラコルム地域の一部荒れ地を中国側に割譲した国境協定を締結したことと、1970年代からカラコルム・ハイウェイという中国とパキスタンを結ぶ高速道路の整備に着手したことで関係が深まっていく。1989年の天安門事件発生の際は、中国共産党への支持を表明した。1960年代から一貫してパキスタンへ武器貸与を続ける中国は、1990年代以降はその立場を一層強めており、核開発協力疑惑も生じている。

 同じイスラームとして中国国内で迫害を受けている少数民族のウイグル族に関しては、パキスタン政府は「迫害はない」との見解を表明している。これは、イムラーン・ハーン元首相時の発言を踏襲しているとされるが、中国との関係性を尊重したうえでの表明と考えられる。ただ、過激派組織に関しては問題を切り離して捉えており、アフガニスタンに拠点を置くとされるウイグルの過激派テロ組織に対しては、テロ対策の一環として中国と何らかの形で協力する可能性はあるだろう。中国とは1990年代からの武器供与などを通して、軍部のつながりが徐々に強まり、情報ネットワークの共有は既に構築されている。また、カラコルム・ハイウェイがウイグル地区を通過しており、該当地域の安定は必須となるため、パキスタン政府としても、テロ組織に対しては強硬な姿勢を示している。

 2005年に「中国・パキスタン善隣友好協力条約」を締結し、2011年に米軍によるビンラーディン殺害を機に中国に接近した。2013年バローチスターン州のグワーダル港運営権を中国企業に譲渡し、2015年にCPEC、中国パキスタン経済回廊が発足した。一帯一路の一部だが、正式に発足させることにより、港湾、発電所、鉄道、道路といった大規模インフラ投資を行い、経済的結束および人的交流の強化を狙いとした。パキスタン内の5つの大学に孔子学院を設立し、現在3万人以上が中国語を学ぶ。2023年5月には、ターリバーン政権であるアフガニスタンをCPECに組み込む3カ国共同声明を発表した。実際にターリバーン政権の暫定政権の外務大臣が、イスラーマーバードを訪問し、3カ国の外相会談が行われたが、パキスタン国内ではこのCPECによる対外債務の増加が懸念されている。

 また、新たな問題としては、中国がパキスタンの資源を奪っているという不満と、CPECが地元住民に裨益するかという疑問の声が高まっている。それにより、中国や中国人に対するテロ活動や抗議行動が発生している現状がある。2018年11月に在カラーチー中国総領事館でのテロ攻撃をはじめ、2021年4月クエッタで駐パキスタン中国大使を狙った自爆テロ、2021年グワーダルにてCPEC事業反対の抗議デモ、2022年4月カラーチー大学内の孔子学院での自爆テロ(中国人教師3人死亡)など、後を絶たない。また、2023年4月には、パキスタン北部で水力発電所建設に関わる中国人技術者が、冒涜的発言を行い、地元住民数百人が抗議し、パキスタン軍が出動して中国人技術者を救出する事態にまで至った。市民レベルでの緊張状態は、今後大きな課題となる可能性がある。

中東諸国

 イスラーム世界を共有する対中東関係に関しては、1973年以降、パキスタンの労働者を湾岸諸国に送り込み、パキスタンに多額の外貨資金を送金するという関係性がある。

 2023年3月に国交が断絶していたサウジアラビアとイラン間の調停を中国が行ったという衝撃的なニュースが話題になったが、それよりも前の2016年にナワーズ・シャリーフ首相がサウジアラビアとイラン間の調停を試みていた。サウジアラビアとの関係としては、石油を輸入、労働者を派遣、ナワーズ・シャリーフがサウジアラビアに投資していた。ズィヤーウルハク軍事政権下で関係が強化され、1970~1980年代に2万人のパキスタン軍がサウジアラビアに駐留した。一方で、サウジアラビアからは、パキスタンの核開発資金を支援していた。

 イランに関しては、Z・Aブットー首相の母親がイラン人だったことや、ズィヤーウルハク軍事政権が1979年のイラン革命後、革命政権をいち早く承認するなど、友好的な関係を結んでいた。しかし、イラン側の「革命の輸出」戦略で宗派間対立が激化し、現在も国境付近では争いが生じている。パキスタンからイランへの核関連技術流出があったものの、イランの核開発に対しては消極的な姿勢を見せている。

 イスラエルに対しては、インドと並ぶ仮想敵国としてみなし、「ユダヤ教徒は敵」という認識が広く共有されている。2022年にドバイ経由でイスラエルとの貿易を開始との報道がなされたが、パキスタン政府は否定している。

 アフガニスタンとの関係性については、対インド関係を考慮した際に二正面作戦を取られるとアフガニスタンの敗北が明白であるため、アフガニスタン軍部としては親パキスタン政権を樹立したいという狙いがある。一方で、イギリス統治時代に策定されたパキスタンとアフガニスタンの国境約2,670メートルのデュアランド・ラインに関しては、歴代のアフガニスタン政権が拒否する流れができており、現在でもターリバーン政権の一部が異議を唱えている。この国境問題が起因となり、これまでのアフガニスタン政権とパキスタンとの折り合いが悪い状態が続いている。もともとターリバーン発足にはパキスタン軍統合諜報局ISIが関与していたが、現在の影響力は限定的である。2021年8月15日のカブール陥落によるターリバーン暫定政権樹立以降は、パキスタン国内でイスラーム化を進めるTTP(パキスタン・ターリーバーン)や兄弟組織のようなバローチスターン解放軍によるテロ件数が、パキスタンで増加している。パキスタンの治安改善のため、ターリバーン政権との協力が必要不可欠とされる。

日本

 日本との関係については、政治的にはあまり大きな影響力はないが、日本車の新車シェアが95%以上である。日系進出企業は80社だが、2022年以降の経済危機で工場の一時操業停止が度重なっている。近年ではパキスタンのIT人材に注目する日系企業も登場し、対パキスタン支援累積額はアメリカに次いで2位である。アントニオ猪木が全国的に有名で、1970年代にパキスタンの有名なレスラーに勝利したことで知名度が上昇し、一定年齢より上の層に人気があったという背景がある。2005年に小泉首相のパキスタン訪問を最後に、首相の訪問が停止している。2018年に河野外務大臣がパキスタンを訪問し、2022年9月のニューヨークの国連総会時に岸田首相とシャリーフ首相が会談を行っている。

ロシア・ウクライナ

 ロシアに関しては、1979年~1989年のソ連戦で戦った背景から、中国・アメリカと比べ関係は希薄である。2022年に20年ぶりの首相会談が実現したが、現在は経済危機にあるため、安い原油、天然ガス、食糧を求めている。国連のロシア非難決議に対しては棄権、中立を維持する。

 一方で、ウクライナに関しては、1990年代に320両のウクライナ製戦車を購入するなど、軍事面での協力がある。また、外貨獲得のため、ウクライナ侵略戦争以降はパキスタンの弾薬在庫などをNATO諸国経由して取引しているという噂があるが、パキスタン内務省は否定している。

5.まとめ

 国内外の状況について、政治や政党、経済、そして対外関係を軸に確認してきたが、現在のパキスタン政権は、経済と治安の面で深刻な問題に直面している。石油製品を全て輸入に依存しているため、ガソリン価格の高騰は抑えられず、食料・日用品の物価上昇や外貨準備高不足と累積する対外債務1,000億ドルにのぼるなど、経済面での打撃に対する対応が迫られている。また、洪水による農業被害や綿花生産の減少についても、輸出の中心である繊維産業に必要な綿花を追加で輸入する必要性が生じるなど、さらなる問題を抱える。中央銀行の外貨不足で輸入に必要な信用状(L/C)が開設できず、決済(海外送金)が困難な状況も、問題視されている。シャハバーズ・シャリーフ現政権は、前政権が頓挫しかけたIMFとの交渉で、条件付き融資再開にかかる基本合意に至り、2022年9月に融資を受領したものの、新しく財務大臣に就任したイスハーク・ダールが、洪水被害や原油価格高騰による譲歩を引き出そうとしたものの失敗し、IMFからの信頼を失う。これが経済問題を深刻化させている。

 治安面においても、TTP(パーキスターン・ターリバーン)などによるテロ増加への懸念がある。アフガニスタンのターリバーンをモデルにパキスタンをイスラーム国家にする野望を抱く急進派のTTPは、マララ・ユスフザイを銃撃した組織として知られる。アフガニスタンのターリバーンとは兄弟組織だが、行動系統が異なる別団体である。2014年12月まで「テロとの戦い」は「アメリカの戦い」といった認識があり、パキスタンのテロ対策は「今一つ真剣さが欠いている(中野2014: 403)」と指摘されているように、実際にパキスタン軍も2014年12月までは本腰を入れていなかった。しかし、2014年12月にTTPがペシャワールの軍経営の小学校を襲撃し、多数の児童が犠牲になった件を受けて、パキスタン国内でテロを行う急進派の掃討作戦に本格的に乗り出すこととなる。カブール陥落前後からパキスタンのKP州でTPPの攻撃が頻発し、現在の主な標的はパキスタンの軍や警察などの治安組織としている。しかしながら、増加しているとは言え、テロが多かった時期を考えると、比較にならないほど現在は安定しているといえる。

 これらの問題に直面するパキスタン政治だが、2024年の選挙に関しては、どの政党が勝利しても、外交政策に大きな変化はないとみられる。国民の対米感情は引き続き悪いものの、アメリカなしにIMF他の経済支援は見込めないため、政府・軍レベルで友好を維持したい構えである。また、アフガニスタンの安定はパキスタンの安定にもつながるが、2023年11月にパキスタン国内のアフガニスタン難民の「不法滞在」者を強制送還するなど、アフガニスタン関係は悪い状況にある。政財界は、中国からの投資や支援に期待を寄せているが、対外債務問題を有しているとともに、搾取されているとの指摘もある。中国とパキスタンにとってインドが共通の敵であり続ける限りは、友好関係は続くとみられる。また、対アフガニスタンでは、イランと協力する必要性に迫られるだろう。また、イスラームに対する冒涜がSNSで拡散されると、TLPなどの宗教政党がデモを起こして強硬な主張を展開する可能性も見込まれる。

 既成政党の全てが汚職に手を染めるなか、反汚職を掲げ、そしてこれまで禁忌とされてきた軍部批判を大々的に行い、若者から絶大な支持を得ていたカリスマ的政治家であったイムラーン・ハーンの失脚後、パキスタン政治はどのように変わるのか。イムラーン・ハーンという共通の敵がいたからこそ、現在の連合政党政権が維持できたという側面は大きい。今後のパキスタン政治の中で、諸政党間のダイナミクスがどのように作用するのか。新たな変化が生まれるのか、またはこれまでの既成政党の在り方を維持していくのか。そして、パキスタン政府として国内外の山積された課題にどう取り組んでいくのか、岐路に立つパキスタン政治の今後に注意が必要である。

※本稿は個人的見解であり、所属する組織の見解ではありません。

参考文献


井上あえか(2003)「パキスタン政治におけるイスラーム」『アジア太平洋研究』49巻1号: 5-18頁.
――(2013)「パキスタンからみる対中国関係」『現代インド研究』3: 97-113頁.加賀谷寛、浜口恒夫(1977)『世界現代史10 南アジア現代史Ⅱパキスタン・バングラデシュ』山川出版社.
中野勝一(2014)『パキスタン政治史:民主国家への苦難の道』明石書店.
山根聡(2015)「対テロ戦争期パキスタンの政治・社会における内的変化」『アジア研究』61巻3号: 1-17頁.

引用を行う際には、以下を参考に出典の明記をお願いいたします。
(出典)松田和憲(2024)「アジアの「民主主義」第3章パキスタン―ポピュリスト政党後の政党連合政権、軍部の影響力―」NIRA総合研究開発機構

脚注
1 1990年代には、大統領と首相間の対立により、大統領が下院議会解散権を発動し、首相を任期途中で解任させることが4度続いたため、パキスタン政治史において、「失われた10年」(中野2014:213)と評されている。なお、下院議会解散権は、1985年制定され1997年に一旦廃止された後、2002年に復活し、2010年に再度廃止された。
2 アメリカ側がパキスタンに対し、アメリカに付くか、または空爆されるかといった半ば二者択一の選択を強制的に迫り、テロとの戦いに参加したといわれている。
3 例えば、カシュミールの土地はカシュミールの住民のみが購入可能といった特典などがある
4 2019年8月6日、インド憲法370条の無効化を議会で可決

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