牛尾治朗
総合研究開発機構(NIRA)会長

概要 

 わが国が直面する真の危機とは、デフレ脱却後もなお残る高齢社会の負担増と財政危機である。これからの日本は、社会保障を削減しつつも、なお国民に負担増を求めなければならない。しかしながら、グローバル化とIT化が進展する中、合意形成に時間のかかる民主主義は、適切な政策へと人々の意見を収斂させうるのか。はたして負担をめぐる合意を形成できるのか。民主主義と市場経済の新たな日本型モデルが求められている。
 日本社会の方向性を展望する上での前提となるのが個人の自立である。そして、個人の自立を支え、励ます社会を構築するためには、人々をつなぐ「信頼」や、さらには社会の中核を担い、政治的にも責任ある判断を下す「中核層」の存在が鍵となろう。
 いまこそ、各政党、政治家は、厳しい未来の先にある日本の社会のあり方、日本の内と外で活躍する新たな日本人像を示すときだ*

INDEX

厳しい現実を踏まえ政党は未来像の提示を

 日本経済に一条の光が差している。だがこの明るさは本当に日本の夜明けを告げる曙光(しょこう)なのか。安倍晋三政権の経済政策「アベノミクス」が国民の喝采を受けるほどに、われわれの脳裏には大平正芳元首相の言葉が響きを増す。

 政治が甘い幻想を国民にまき散らすことはつつしまなくてはならない—。

 安倍内閣の現下の経済運営に異論はない。だが、わが国が直面する真の危機とは、デフレ脱却後もなお残る高齢社会の負担増と財政危機であり、かつ、それに与野党が目を背けていることだ。これからの日本は、社会保障を削減しつつも、なお国民に負担増を求めなければならない。成果の分配ではなく社会的なコストを誰がどう負担するかが政治の課題になっている。政治に求められるのは、それを前提として厳しい未来の先にある社会像、そして新しい人々の生き方を提示することだ。

民主主義と市場経済の緊張感が高まる

 日本社会が直面する課題の背景にあるのは、民主主義と市場経済の緊張関係の高まりという現代世界の多くの国々に共通する問題だ。グローバル化とIT化が進展する中、合意形成に時間のかかる民主主義は、適切な政策へと人々の意見を収斂(しゅうれん)させうるのか。民主主義の大前提である国民の平等性が脅かされる低成長期に、はたして負担をめぐる合意を形成できるのか。「スピードある熟議」という半ば相矛盾する課題が突きつけられている。

 民主主義と市場経済の間で緊張が高まる中、民主主義を適切に機能させることが何よりも重要になっている。残された時間は長くない。民主主義と市場経済の新たな日本型モデルが求められている。

 それを考える上で、高度経済成長からの転換期にあった1970年代後半に作られた文書が参考になる。大平元首相の政策研究会がまとめた報告書だ。中でも田園都市構想研究グループは「文化の時代」「地方の時代」とともに、「新中間層」をキーワードに掲げ、ポスト工業化の新たな日本の社会像を提示した。日本社会にとっての新たな目標として、非物質的な精神的価値の追求、地域社会に根ざした暮らしの充実、そしてその担い手となる新中間層の発展を指摘したこの文書は、今日でもなお示唆的である。

 そこには、それまでの欧米社会をモデルとした近代化論に対し、むしろ歴史的に形成された日本型組織の肯定的側面を重視する認識があった。それは、村上泰亮・公文俊平・佐藤誠三郎の共著である「文明としてのイエ社会」からも明らかである。

図1 日本の経済社会構造と政策思想の変遷

生き方、主体的に選択

 もちろん当時の認識がそのまま現在に適用できるわけではない。とくにグローバルな世界で雇用の柔軟性や女性や外国人の参画といった多様性などの要請に対し、日本型組織はむしろ阻害要因として機能している側面もある。また、一定の社会保障機能を果たすことで構成員の暮らしを支えてきた企業組織の余裕は、現在、急速に失われつつある。このような変化を背景に、集団内部における相互モニタリングに基づく「安心社会」から、オープンな環境で集団外部での信頼構築を重視する「信頼社会」への移行の必要性も高まっている(注1)

 重要なのは、日本型組織を安易に全否定することではない。歴史的に形成されてきた日本のイエ型組織の現代版ともいえる日本型組織を新たな社会状況に適応させることが必要だ。しばしば、「大きな政府」と「小さな政府」の選択が語られるが、それだけでは不十分である。日本型組織を再編することで新たな社会モデルを構築しなければ、国家・組織・家族・個人の役割の再定義は不可能であろう。

 今後の日本社会が目指すべき方向性を展望したい。すべての大前提となるのは個人の自立である。安心社会から信頼社会への移行を進めるためにも、一人ひとりの個人が甘えや依存を断ち、自己を厳しく規律すべきである。日本人はよく集団主義と評されるが、実際にはほとんどが個人主義的な生き方を望んでいる(注2)

 では、何が人々に最初の一歩を踏み出すことを思いとどまらせているのか。それは、組織を離脱するリスクがあまりに大きく、失敗したときにやり直しがきかない(と人々が信じている)ことが大きいと考えられる。すべてを個人の自己責任とするのではなく、社会が個人の自立を支え、励ますことを強調する必要がある。「信頼」はその1つのキーワードになろう。

 「信頼」と並ぶもう一つのキーワードになるのが「中核層」である。日本の中流意識は必ずしも収入だけではなく「上でも下でもない」という消極的な自己認識によって形成されてきた。今後求められるのは、より積極的な意味での中間層だ。われわれはこれを「中核層」と呼びたい。一定の経済的基盤の上に、様々な社会活動に参加して社会の中核を担い、政治的にも責任ある判断を下す人々のことである。このような意味での中核層をつなぐことで社会のコンセンサスが形成されていく。

 中核層とは、上下の階層との関係や、組織との関係で定義されるものではない。家族や地域など、守るべき自らの暮らしをもち、それゆえに必要なスキルをみがいて社会との関わりを育み、自らと社会の進路を決めていく個人こそが、求められる姿である。自分自身の生き方を主体的に選択している自負があってこそ、人々は積極的な意味で社会を築く存在となる。

熟議と決定が政治の両輪

 中核層を充実させ、日本が世界に伍していくためには、政治にもスピード感のある政策決定と執行が求められる。他方で、負担の分かち合いとなるこれからの民主政治においては、熟議を通じた相互理解と合意形成も重要である。

 インターネットの普及やNPOの広がりに象徴される情報化社会・市民社会の深化は、非公式かつ自由な討議を通じて新たな政治課題を掘り起こし、最終決定に対する正統性を高める「二回路制民主政治」の可能性を開いた。国や地方自治体に決定を独占させるのではなく、こうした場での議論を通じて、自らの意見が採用されなくても十分考慮されたという実感を持つことが、負荷の分担を容易にする。

 もちろん、これはあくまで民主政治における「第二」の回路で、議会制民主政治に取って代わるものではない。ふたつの回路をつなぐべき政党が、社会の利益を集約し、政治的リーダーを育て、議会政治を運営し、政権を担当する機能を一層充実させることが急務である。

 同時に、中長期的な課題を共有した上で、それに対して想定されうる複数の解法をめぐって政党間で競争し、選挙によって国民の審判が下るという規律ある政党政治が求められる。そのためには、真の政策本位の政党政治サイクルを確立する「政党内のガバナンス」とともに、1990年代の政治改革が積み残した課題を克服し、熟議とスピードの両方を兼ね備えた議会を再構築する「政党間のガバナンス」の見直しが必要だ。

 厳しい現実の先にある目指すべき社会の方向性についての手がかりとなるキーワードは、信頼社会、ではないか。7月には参院選が予定されている。いまこそ、厳しい現実から目を背けることなく、日本社会の伝統やその緩やかな変化と無理なく接続しながら邁進する日本の社会のあり方、そして日本の内と外で活躍する新たな日本人像を示すときだ。これこそが、現在の各政党、各政治家に課された使命である。

参考文献

山岸俊男(2008)『日本の「安心」はなぜ消えたのか』集英社インターナショナル
山岸俊男(1999)『安心社会から信頼社会へ−日本型システムの行方−』中央公論新社

牛尾治朗(うしお じろう)

総合研究開発機構(NIRA)会長。ウシオ電機株式会社代表取締役会長。公益社団法人経済同友会終身幹事。

引用を行う際には、以下を参考に出典の明記をお願いいたします。
牛尾治朗(2013)「「中核層」軸に信頼社会築け」NIRAオピニオンペーパーNo.10



脚注
* 本稿は、5月15日付け日本経済新聞経済教室「『中核層』軸に信頼社会築け」に掲載されたものに一部加筆したものである。なお、執筆にあたり、宇野重規教授(東京大学)、および谷口将紀教授(東京大学)にご協力いただいた。厚くお礼申し上げる。
1 北海道大学山岸俊男名誉教授(社会心理学専門)は、安心社会と信頼社会を次のように説明している。
 安心社会の特徴は人々の結びつきの強い集団主義にあり、そこでは「メンバーがおたがいを監視し、何かあったときに制裁を加えるメカニズムがしっかりと社会の中に作られている。つまり、このメカニズムこそがメンバーたちに『安心』を保証している」(参考文献1のp104)という。それは、農村の人々の田植えなどの共同作業をさぼらない理由が「もし手伝わなければ自分が困ったときに助けてもらえない」(参考文献1のp103)ことと同じとされる。
 他方、信頼社会に関しては、「いろんな人がたえず出入りしている都会のような社会には、おたがいを監視し合い、何か悪事や非協力的なことをしたときに、かならず制裁を加えるシステムはない。・・・都会の生活においては、相手が果たして信頼に足りるかどうかをつねに考えていなければならない」(参考文献1のp108−109)とする。
 顔見知りだから裏切らないという安心社会に対して、「信頼社会とは社会が提供する安心に頼るのではなく、自らの責任でリスクを覚悟で他者と人間関係を積極的に結んでいこうという人々の集まり」(参考文献1のp240)ということになる。
 その上で、山岸教授は、「現在の国民が感じている『日本型システム』への不信の拡大を、これまでの安定した社会関係のあり方が崩れつつあることの一つの表れであると考えて」いる。「これまでの日本社会では、企業のなかでは終身雇用制と年功序列性(ママ)を軸にした安定した雇用関係が存在し、また、企業間にも比較的安定した系列取引の関係が存在」(参考文献2のp8)していた。「われわれには、それらの安定した社会関係のなかで安定した生活が保証されていた。しかし、グローバル・スタンダードのもとでの競争にさらされはじめたわれわれは、もうこれまでのように、安定した社会関係が提供する集団主義の温もりのなかで安心して暮らし続けることはできなくなる」(同)と述べている。
 山岸教授は、「安心社会」の崩壊は、必ずしも「信頼社会」の崩壊を意味するわけではなく、むしろ逆に、日本社会を「信頼社会」へと作り替えるための良い機会を提供しているのだと考えるべきだとしている(参考文献2のp23)

2 一般的に、「日本人は集団主義的文化を身につけており、アメリカ人は個人主義的な文化を身につけている、そしてそのため、日本人はアメリカ人に比べ他人を信頼する傾向や、自分の利益を犠牲にしても集団のために協力する傾向が強い」と考えられている。しかし、山岸教授が行った日米比較実験の結果は、「われわれの「常識」とまったく反対の日米差を示して」いる。日米比較実験の一例は、たとえば次のようなものである。
 3人が1組になり、各人が個部屋で簡単な問題を解き、クリアした問題の数に応じて点数が各人に与えられる。作業終了後に、3人の獲得した得点を合計し、それを平等に分配した報酬が各人に与えられる。それを20回繰り返し、1回ごとの報酬を確定させていくものである。
 ただし、毎回の作業の前に「グループを離れて1人で仕事をする(一匹狼)」というオプションを選択できる。そのオプションにも2つの条件が用意されている。1つは、オプションを選択したとしても、集団で働いているときと1点あたり同じ報酬が得られるという低コスト条件、もう1つは、集団作業のときの1点あたり半分しか報酬がもらえないという高コスト条件である。この低コスト条件のオプションを選べる場合には、日本人もアメリカ人も同じように行動し、20回のうち平均8回程度の作業で実験の参加者たちは一匹狼の道を選択した。他方、高コスト条件を選べる場合には、アメリカ人の参加者でグループを離脱した回数は20回のうち平均1回程度しかないが、日本人の場合には、平均8回程度離脱していて、低コスト条件のときと変わらない。つまり、高コスト条件の場合には、報酬が下がると分かっていても、日本人の方が、アメリカ人よりもずっと個人主義的に行動していることになる。
 そこで出された結論は、日本人は、アメリカ人と比べて報酬が確実に下がると分かっていても、他の人たちとの共同作業を捨てて一匹狼になろうとする傾向が強い、というものである(以上参考文献2のp34−38)。
 では、なぜ、日本人は、一人ひとりは一匹狼になろうとする傾向が強いのに、全体では集団主義的行動をとっているのか。山岸教授によると、「集団主義社会に暮らす人たちにとっての最優先事項は、集団内部の安定を維持することにある。すなわち、身内と波風を立てずに生きていくことが何よりも大切だというわけで、集団内部の人間関係をうまく感知する能力も自然に発達する。また、こうした社会では他の仲間から排除されないために、なるべく控え目に行動するという行動原理が自然に身についていくことになる」(参考文献1のp240)という。これを裏付けるアンケート調査結果がある。
 【第1問】 あなたの周りにいる人たち(日本人)は、アメリカ人や西欧の人に比べて、集団主義的な考えの持ち主が多いと思いますか?それとも個人主義的な考えの人が多いと思いますか?
 【第2問】 あなたは集団主義的な考え方をしていますか。それとも他の日本人よりも個人主義的な考え方をしていると思いますか。
 この調査結果からは、山岸教授は、「多くの日本人は『自分自身は集団主義的な考え方をしていないが、周りの人たちは集団主義的な考え方の持ち主である』と思っていることが分か」った、としている(参考文献1のp77−78)。一人ひとりは、自分自身は個人主義者だと思っているのに、「周りの人々は、人が見ているときには集団主義的に振る舞っているので、その態度から推定した結果、「私とは違って、周りの人たちは集団主義的な心の持ち主だ」と思ってしまっているため」(参考文献1のp84)に、こうした結果になると分析している。
 すなわち、本来は個人主義的な生き方をしたいと思っていても、周りが集団主義なので、それに合わしていることになる。

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