宇野重規
NIRA総合研究開発機構理事/東京大学教授
小田理恵子
一般社団法人官民共創未来コンソーシアム代表理事
吉村有司
東京大学先端科学技術研究センター特任准教授
庄司昌彦
武蔵大学社会学部教授
若林恵
黒鳥社コンテンツディレクター

概要

 DXの本質は、サービスの供給側ではなく利用する側の視点に立ち、サービスの内容をつくり直していくことだ。その意味で、DXは地域の市民による政治参加と不可分である。デジタル化を通じて、いかに地域の住民に自らの地域を自らの手でつくり出す力を付与することができるか。この課題を考えるために、4名の方にインタビューを行った。
 小田理恵子氏は、政治や行政における意思決定において、データが十分に活用されていない現状や、地域の政治を「自分ごと」として感じる市民を増やしていくことの重要性を指摘する。その意味で参考になるのが、吉村有司氏にご紹介いただいたバルセロナのDecidimという取り組みである。一般市民がデジタルプラットフォーム上での熟議を通じて、政策提案にかかわるというのがDecidimの仕組みである。一方で庄司昌彦氏は、ICTの「大衆化」や「ソリューショニズム」といったデジタル民主主義の課題を指摘する。デジタル庁発足という追い風をどれだけ生かせるかに、今後の日本社会におけるデジタル化の命運がかかっている。諸外国の行政府におけるDXを調査した若林恵氏が、最終的にDXの本質を「ユーザー中心」に見いだしたことは、そのヒントとなるだろう。
 デジタル化の力を利用することの目的は、人と人、地域と地域を結びつけ、ユーザーにとっての具体的な変化をもたらすことにある。もちろん負の側面もあるが、それを乗り越えつつ、新たな民主主義の可能性と地域力の発展にDXを活用すべきである。

INDEX

総論

宇野重規

NIRA総合研究開発機構理事/東京大学教授

1.はじめに

 デジタル庁が発足した現在、DX(Digital Transformation)という言葉が至るところで口にされている。しかしながら、DXとは単にそれまでアナログで文書に書かれていた内容を、デジタルのビット情報へと置き換えることだけを意味するものではないだろう。デジタル化を通じて多くの人々が多様な情報を共有し、編集し、利用することで、それまで結びついていなかった人と人、情報と情報、地域と地域を結びつけ、そのことによって新たな価値やサービスを生み出し、さらには既存の経済や社会、そして国家や地域の政治や行政のシステムを変革することがDXの内容であるはずだ。その意味で、DXはGDX(Government Digital Transformation)に直結する。

 本報告書で紹介する若林恵氏は、DXとは、「サービスの起点を「つくる側」から「受け取る側」にシフトさせようということ」であると説明する(若林(2021:9))。その意味で、サービスの供給側ではなく、それを直接利用する側の視点に立ち、サービスの内容をつくり直していくことこそが、DXの中心的な課題となる。都市開発を例にすれば、行政や一部の専門家だけではなく、都市のユーザーである市民自身が望ましい都市のあり方を追求し、自らそのプロジェクトに参加し、よりよくオーナーシップ(当事者性)を実感できることが重要であろう。その意味で、DXは地域の市民による政治参加と不可分である。

 本報告書は以上の視点に立ち、「デジタル化時代の地域力」について検討するものである。デジタル化を通じて、いかに地域の住民に自らの地域を自らの手でつくり出す力を付与する(エンパワーする)ことができるか。この課題を考えるために、4名の専門家にインタビューを行った。

2.地方政治・行政とデジタル化

 一般社団法人官民共創コンソーシアム代表理事である小田理恵子氏は、企業のシステム戦略、地方議員、さらに現在は、官民の新しい価値創造のための実践型プラットフォームづくりに当たるなど、企業・政治・行政をまたがる、さまざまな立場を経験してきた。

 その小田氏がまず指摘するのは、政治や行政における意思決定において、データ、特に長期的なデータが十分に活用されていない現実である。総合計画などを別にすれば、個別・具体的な計画のほとんどは3年~5年のタイムスパンで検討される。ところが問題は、そのためのデータもまた3年~5年の範囲のものしか利用できず、より長期的な人口推計や経済予測を活用しにくいことにある。予測が外れたときの責任の問題もあるが、そもそも担当部署を超えて行政内部においてすらデータが共有できていない行政のあり方の問題性を小田氏は指摘する。過去の予決算の情報すら、款項目レベルでデータとして活用できない現状(紙やPDFで配布されている)は深刻である。

 地方議会の課題も山積している。小田氏は、会派を超えた議員間の討論が欠けていること、町内会や業界団体など以外の市民との交流が乏しいこと、さらに選挙が政策の意思決定の結果を評価される仕組みになっていないことなどを問題点として指摘する。特に本報告書の問題意識からすれば、若年層や子育て世代の声を政策の意思決定にいかに反映できるかが、極めて重要である。このことは逆にいえば、政策に関心のある市民にとっても、現状では議員へとアクセスする回路が極めて限定されていることを意味する。

 「変えたい」というプレーヤー自体が地域の中で少なくなっていると考える小田氏は現在、会派や選挙区を超えた議員間の交流、議員による政策の意思決定の評価、地域課題をめぐる行政と企業の「伴走型」のマッチングを企画・運営している。その上で小田氏が強調するのは、子育てや防災など身近な問題をめぐり、市民自らが請願を行い、各議員の会派を回り、最終的な制度化までを体験することで成功体験を積み、地域の政治を「自分ごと」として感じる市民を1人でも増やしていくことの重要性である。そのような市民の地域活動を、デジタル化がいかに活性化するかが大きな焦点となる。

3.バルセロナのDecidim

 その意味で参考になるのが、スペインのバルセロナにおけるDecidimの試みである。東京大学先端科学技術研究センター特任准教授の吉村有司氏は、コンピューターサイエンスで博士号を取得後、AIやビッグデータを都市計画やまちづくりに活用することを専門としている。バルセロナ市の都市生態庁や、カタルーニャ州の先進交通センターに勤務するなど、スペインを中心とする海外の事例にも詳しい。

 バルセロナ市は1967年に早くもInstitut Municipal d'Informaticaという独自の組織を立ち上げ、専門のスタッフを多数抱えるICT部門を擁している。このIMIが「熟議を進めるデジタルプラットフォーム」として推進しているのがDecidimである。吉村氏によれば、かつてトップダウンで進められていた都市計画は、市民参加型のボトムアップの都市計画へと現在大きく変わりつつある。一例を挙げれば、バルセロナの街路の大規模な歩行者空間化である。それぞれの地区の住民が議論に加わり、地区の未来をイメージするためのプロジェクトであるが、多様な市民が参加し、そのすべての意見を聞くことは難しい。そこで用いられるのがICTのテクノロジーである。デジタルプラットフォーム上での熟議を通じて、多くの市民の賛成を得た提案が議会にかけられるというのがDecidimの基本的な流れとなる。

 バルセロナ市では、2016年から2019年にかけて、約4万人の市民が実験に参加し、結果として約1,500の政策提案へと結びつけたという。現在は第2期としてDecidimの実証実験が続けられている。今回から、市の予算の3%~5%ほどを市民の話し合いによって決定する参加型予算(Participatory Budgeting)も導入された。さらにDecidimはオープンソースであり、現在世界の180の国や自治体で使用されている。日本でも、東京都の渋谷区や兵庫県の加古川市などで、Decidimを用いた実証実験が行われている。SHIBUYA Mama-Chari Projectでは、都市部における自転車の利用について市民の多様な意見が寄せられ、意見集約にDecidimが活用されているという。

 今後、日本に政治・行政制度や市民文化に適応する形で、デジタル化のテクノロジーがさらに活用されていくことが期待される。

4.デジタル化による民主主義は可能か

 もちろん、デジタル化による住民参加にも多くの課題がある。武蔵大学社会学部教授の庄司昌彦氏は、政府のデジタル改革に参画するなど、ICTを通じた社会的課題の解決にこれまでも尽力してきた。1996年に大学に入学し、デジタル民主主義の可能性を追求してきた庄司氏の研究史は、まさにその間におけるICTの発展の歴史と一致している。

 庄司氏が最初に研究したのは電子掲示板の盛衰であった。ICTを用いて市民参画を促し、それを通じて政治や行政の質を高める試みはしばしばe-democracyとも呼ばれたが、2000年台前半にはすでにそのような電子掲示板の数は減少していた。2000年台半ばから後半にかけて新たにSNSを使った地域社会の自治ガバナンスの試みが発展するが、そのような地域SNSもまた、2010年頃からFacebookやTwitterなどグローバルなプラットフォームが出てくる中で衰退していった。この時期、米国大統領になったバラク・オバマは、2009年の就任直後に「透明性とオープンガバメント」と題する覚書を発表した。「透明、参加、協働」という、いわゆるオープンガバメントの三原則が示されたのである。これ以後、「アラブの春」や「オキュパイ・ウォールストリート」の運動、さらにハッカー系の海賊党が各国や欧州議会で議席を獲得するなどの動きが続いた。東アジアでも香港や台湾などで、SNSを用いた社会運動が盛り上がりを示した。ICTを用いて地域社会の課題解決を目指すさまざまなアプリの開発も進んだ。庄司氏はオープンガバメントを以後の研究の中心に据えることになった。

 しかしながら、同時にデジタル民主主義の課題もまた浮き彫りになったと庄司氏は指摘する。第1はICTの「大衆化」である。初期には一部の高度な専門家によって発展したテクノロジーは、やがてハッカーと呼ばれる人々によって自由に利用され、さらにはギーク(オタク)たちこそが情報社会をけん引する存在となった。その間、当初は素人の個人が相互に独立して判断することで全体としての集合知の精度が高まることに期待が寄せられたが、実際のモブ(群衆)は相互に影響し合い、付和雷同する人々であった。

 第2に広告技術やマーケティングの発展と相まって、個人情報がいつの間にか利用され、分析され、さらには広告や操作、選別の対象となる事態が明らかになった。オバマを大統領に押し上げたのがソーシャルメディアであったとすれば、トランプ当選の原動力となったのもまたソーシャルメディアであった。かつてばら色に語られたテクノロジーは、現在はデジタル監視国家のテクノロジーとして危惧されている。

 第3に庄司氏は、「ソリューショニズム」(エフゲニー・モロゾフ)を指摘する。エンジニアにありがちな思考法として、目の前にある課題解決に集中するあまり、すべてが対症療法的になり、根本的なシステムや価値の問題への取り組みがおろそかになることを指す。あるいは政府が社会の個別的な要望を「聞きすぎる」あまり、それに忙殺され、それ以上の取り組みのための余力がなくなることを意味する。

 いずれにせよ庄司氏は、デジタル庁が発足した現在、2001年のIT基本法以来の政治的な追い風が吹いていることは間違いないとする。その意味では、そのような追い風をどれだけ生かせるかに、今後の日本社会におけるデジタル化の命運がかかっている。

5.DXの目指すもの

 冒頭に触れた『GDX 行政府における理念と実践』を編集した若林恵氏は、平凡社の『月刊太陽』や『WIRED』日本版編集長などを経て、現在では黒鳥社を主催している。その若林氏は、商業などから始まったデジタル化が社会のあらゆるレベルに波及する中、最後の大きな壁になるのは金融と医療であると指摘する。その理由はそのいずれの領域においても政府の規制が大きく、その意味では政府が変わらない限り、それぞれの領域も変わらないことにある。

 このような視点から行政府におけるDXを検討し始めた若林氏はイギリス、デンマーク、オーストラリアなどのDXを調査した上で、最終的にDXの本質を「ユーザー中心」に見いだす。それらの国々で使用されているロジックモデルでは、各プロジェクトは、いかなる「インプット(投入される資源)」や「アクティビティ(実施される活動)」を投入した結果、いかなる「アウトプット(成果物)」をもたらし、それが具体的にいかなる「アウトカム(成果)」を実現したかが問われる。この場合に重要なのは「アウトプット」ではなく、「アウトカム」である。逆にいえば、ユーザーに感じられる具体的な変化がない限り、プロジェクトは無意味である。ところが日本における現実は、行政も企業も何らかの「アウトプット」をもたらすことで自己満足し、「アウトカム」には鈍感なことが多いと若林氏は言う。

 さらに「ユーザー中心」という場合も、サービスの利用者のみならず、サービスを実現するために働く人々もまた「ユーザー」であると若林氏は指摘する。行政でいえば、現場で市民と向き合う地方公務員もまた「ユーザー」である。その意味で、彼ら彼女らによって使いやすいシステムでなければ、真に「ユーザー中心」とはいえない。そのような職員に力を付与して初めて、市民に対するサービスについて自由で多様な意見が出てくる環境になるのである。逆にそのような人々を単に合理化の対象としてしか見ないDXは決して成功しない。現場の仕組みをより使いやすいものとし、さらには多様な実験や試行錯誤を許すシステムを構築することがDXの目指すものであると若林氏は強調する。

 興味深いことに、若林氏はデンマーク政府やオーストラリアの州政府において、「そこに人がいる」と感じたという。DXというとテクノロジーの側面にばかり目が行きがちであるが、むしろ、官僚制的なシステムをより柔軟で人間的な仕組みへの変化させるためにこそDXを推し進めるべきである、という重要な示唆がそこに見いだせるはずだ。

6.おわりに

 このようにデジタル化の力を利用することの目的は、多様な情報の共有・編集・利用を通じて、人と人、地域と地域を結びつけ、ユーザーにとっての具体的な変化をもたらすことにある。多様な市民の声を集め、行政や企業の組織文化を変革し、最終的には政治・行政制度や市民文化を変えていくことが期待される。もちろんテクノロジーの未来はばら色とは限らない。その負の側面を乗り越えつつ、新たな民主主義の可能性と地域力の発展にDXを活用すべきである。

参考文献

若林恵編(2021)『GDX 行政府における理念と実践』行政情報システム研究所.

第1章 官民共創の課題と未来

小田理恵子

一般社団法人官民共創未来コンソーシアム代表理事

概要

 
 デジタル化時代の地域力について、地域におけるステークホルダーである、行政、議会、市民にそれぞれ課題がある。行政には、意思決定が短期視点でありデータが活用されておらず根拠も薄弱であること、経営視点が無いこと、市民への説明がないこと、ばらまきの横行といった課題がある。議会には、会派を超えた議員間の議論が無いこと、一部の市民としか繋がっていないこと、否決がほとんどない黙認機関になっていること、4年に1度の選挙しか評価軸が無いこと、などが課題としてあげられる。市民の課題は1つ、無関心であることに尽きる。こうした状況では、地域を「変えたい」というプレーヤー自体が居なくなってしまう。
 これらの課題に対しては、地域課題をめぐる行政と企業の「伴走型」のマッチングや、行政のBPR・デジタル化の推進、議員の交流促進や評価軸の更新、デジタルツールやワークショップを活用した市民の地域活動の活性化を行っていく必要がある。

1.はじめに

民間、議員、そして公民連携の伴走で見えてきた課題

 地域力について述べるに当たり、筆者自身がどのように地域と関わってきたかを簡単に述べておきたい。

 筆者は、かつて富士通で民間企業の業務プロセス改革やアウトソーシング化のコンサルティングを担当していた。バブル崩壊後、苦しんでいた日本の企業の近くで伴走しながら、業務プロセス改善やデジタル化、アウトソーシング化のサポートをしていた。行革の流れもあり2010年から自治体との仕事をするようになると、自治体(中核市)の「行政改革」業務と人員、組織の整理などを担当する中で、その課題の大きさを認識した。そして2011年、川崎市議会議員選挙に出て当選、議員となる。8年間の議員時代は、行財政改革と見える化に注力しながら、地域の抱える課題、政治や行政の課題などを経験し、これからの日本では、官と民が一緒にやっていかないと立ち行かないだろうと感じ、議員を引退。現在は3つの活動に携わっている。

 1つは、自治体と民間企業をつなぎ、両者が協力して社会課題を解決していくことで、よりよい社会をつくることを目的とした官民共創未来コンソーシアムという社団法人の活動。鎌倉市、磐梯町、三重県などの会員自治体とさまざまな官民連携のプロジェクトを立ち上げている。もう1つは「公共の再定義」をミッションとし、官民共創を仕掛ける株式会社Public dots & Companyの活動。最後に地方議員のオンラインサロンであるPublicLABの運営。サロンには600人ぐらい地方議員が入り、勉強会や対話による交流、メディア発信などを行っている。

 以下では、民間でのビジネス経験、市議会議員の8年間、そして現在の官民連携に関わる仕事の中で見えてきた地方自治体の課題を整理してみる。ステークホルダーは「行政」と「議会」と「市民」に分けられるが、主に行政には意思決定の課題が、市民の側には合意形成の課題がある。それぞれの分野での課題を見ていこう。

2.行政の抱える課題

短期的視野の意思決定

 最初に行政の課題として挙げられるのは、意思決定が短期的な視野で行われているということだ。意思決定の前提となる情報のタイムスパンが非常に短い。例えば自治体では地域のビジョンや方向性を示す総合計画を、基本は10年という単位で作っている。しかしその中の個別計画は、およそ3年から5年という単位で策定されている。

 筆者が議員をしていた川崎市の子ども青少年基本計画という保育政策では、保育所の入所者の需要や今後造る予定の保育所数など、計画の根拠となるデータは、5年間分しか使われていなかった。川崎市の人口は2040年に減少に転じると予測されているが、その時点で保育需要がどう減っていくのか、増やした設備をどうして使うのか。そうした長期的なデータに基づく検討は行われないまま、数年という期間でしか計画されていない政策が決定されてしまう。正確な検討のために必要な長期視点のデータを自治体内で作成しているかを職員に尋ねても、出てこない。

 あるいは公共事業分野でも、川崎市を通る電車の複々線化・高架化や、地下鉄を通すような大きな公共事業の計画があった。20年後に完成するとした場合、その時点で減少しているであろう人口や生産年齢人口、税収、社会保障費の増大という条件の下で、この計画に使うことができる一般財源はどのくらいなのか。最低でも30年くらいの長期視点でシミュレーションを行うべき計画だが、そうした検討は行われていない。

数字の根拠が無い意思決定

 数字の根拠を持たずに意思決定をしている点も課題だ。そもそも自治体内で予算・決算の分析をしておらず、事業予算の作り方も、ただ各事業部・各局が上げてくる数字を合わせてまとめるだけの作業になっている。自治体職員に対し、「事業のこれまでの推移と、予算と決算の差異について、最低10年分のデータが欲しい」と求めたところ、「システムの仕様上そういうデータは出ない」という回答だった。各担当の事業ごとに、一部の範囲だけしかデータが見えないという状態で、さまざまな意思決定が行われている。

 職員では全体を見ることができないため、SE(システムエンジニア)にデータを抜き出してもらい見てみると、驚いたことに予算と決算で費目のコードが違っていたり、年度が替わると費目が変わっているものもある。これでは予実分析すらできず、経年の変化も見ることができないだろう。長期の推計や予算・決算の情報が、自治体ではデータとして見られてもいないし、もちろん活用もされていないというのが現状だ。

経営的視点の欠如

 近年、行政でも「都市経営」という言い方をするようになったが、民間視点から見ると、経営的視点が欠如していると言わざるを得ない。予実分析ができないだけでなく、そもそも投資や経費、人件費の概念も存在しない。「このお金は投資なんですか?経費なんですか?」と行政職員に聞いても答えが返ってこない。

 公会計制度が行政に導入されしばらくたつが、その対応は、年度末に財政担当が数字をまとめて総務省に形式的に報告を出しているだけ、というのがほとんどの自治体における実情だ。

 自治体の中には、投資や経費の概念が必要だということで、公会計制度をきちんと活用し、職員に簿記の勉強をさせたり、施設別の損益計算書を作成しているところもあるが、非常にまれである。多くの自治体は会計的な観点で数字を見ていない。筆者が議員を辞職したのが2019年だが、今もあまり変わっていないだろう。

情報を出さず、説明しない

 また行政が何らかの意思決定をするにあたって、市民からのクレームや反対を恐れるあまり、なるべく目立たないように進めようとする傾向もある。行政として意思決定を行い何かを実施するにあたって、市民への説明というのはほぼなされない。パブリックコメント制度も、「市民の意見と話を聞いた」という形式を踏むだけで形骸化している。

政治判断によるばらまきの横行

 以前から行われてきたことだが、コロナ禍でさらに傾向が強まっているのが、政治判断でのばらまきだ。ばらまき政策には論理的な根拠があまり無く、説明もなされないまま実行されている。選挙に勝つための公約としてのばらまきと、関係性があって声の大きな有権者への過度な配慮としてのばらまきの2つが横行している状況がある。

3.議会の課題

議論が無い

 では議会の課題としてはどんなものがあるか。

 筆者が驚いたのは、議員間での議論が無いということだった。議員になったとき、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を期待したが、実際にはまったく行われていない。会派内でそれぞれの議案に関しての議論はなされるが、会派の外に出ると、合意形成や意見交換の場は存在しない。団長会議や会長会議で何らかの決定をしたり、議会運営委員会の方での決定は多少あるものの、それ以外はほぼ議論をしない。そして会派内で決めた後、いきなり多数決というのが、地方自治体の議会の意思決定のあり方だ。

 会派内の個別の議論でも、論理的根拠や長期的な数字の根拠を踏まえた議案や投資計画を出していないので、当然ロジカルな判断ではなく、どちらかというと利益誘導に近い形での意思決定になっていることも多い。

接する市民の偏りと政策の偏り

 また、議員の交流範囲の小ささにより、政策に偏りが生じることが多い。議員として通常の仕事をする中で接する市民は、町内会、老人会といった伝統的なコミュニティーと、医師会など一部の業界団体に限られる。これらの団体とのオフィシャルな連絡会議や交流会のような集まりが年間で多数開催され、半ば公式的に存在している。伝統的なコミュニティーや業界団体に属さない市民の方が人数的には多いはずだが、議員自らがあえて動いて会いに行かなければ、そうした人たちと接する機会は皆無といってよい。

 筆者はどちらかというと改革系の議員として議会に入っていったが、地区の会議や交流会などになるべく多く出席していると、接するのはほとんどが70歳以上の高齢者になってくる。自分の意思で、その外にいる多くの市民の方との接点を持とうとしないと、例えば学生さんや若い人、子育て中の方、あるいは介護をされている方たちの直面している課題が耳に入ってこない。その結果、どうしてもアウトプットが偏ってしまい、政策が偏る。この点も議員をやって非常に大きな課題だった。

 一方で難しいのは、議員という立場の人間がいきなりこれまでつながりの無かったコミュニティーに行っても、「票を取りに来た」、「あやしい人間が来た」となかなか受け入れてもらえないことだ。そうなると無理をして新しいコミュニティーに入って話すモチベーションを維持することも難しいので、結果的にやはり政策に偏りが出てくる。

市長会派という名の否決が無い黙認機関

 一部の例外はあるが、多くの自治体で、基本的には議会は市長の追認機関になっており、議案はほぼ否決されない。市長や議員の利益誘導など明らかに問題があるものでも、最終的には可決される、ということが少なくない。

 筆者の経験でも、与党の若手からも反発があった問題のある議案について、「市長の出したものに反対するわけにはいかない。今後対立構造ができたら、われわれが出す陳情を受け入れてもらえなくなる」という理由で議会の重鎮がねじ伏せ、可決したことがあった。反対するであろうと思われた改革系の会派も、最後にはなぜか可決に回るというケースもある。会派や政党に限らず、地域の中でまちの困り事や陳情を通していくという立場では、市長よりも議員の方が弱い立場にある。

評価は4年に1度の選挙だけ

 4年に1回の選挙でしか議員が評価されないことも課題だ。議員である4年間は、いい仕事をしても、あるいは間違った意思決定をしても、誰にも苦言や意見を言われることが無い。そして選挙では、議員としての政策の意思決定や結果についてはほとんど評価されないので、政策面での努力はモチベーションにもなりにくい。

 支援者の違いもある。与党/保守系議員の支援者は、基本的にはオールドコミュニティーの方や地域の顔役が多い。彼らが議員に求めるのは、行政からお金を引っ張ってくること。議員が清廉潔白であるかどうか、政策を頑張っているかは評価基準にならない。汚いことをしてもお金を引っ張ってこられれば次の選挙で勝てる。

 一方、野党/改革系で「変えたい」モチベーションを持って議員になる人の支持基盤は、今の政治を変えてほしいと思っている人たちや、どちらかというと無党派層の人たちが多い。彼らは自分たちの票を託した野党/改革系議員がミスをすることを許さない傾向がある。ミスを1つでもしたら次の選挙では通らない。野党/改革系で頑張っている政策系の議員は、何かミスをしたら強いバッシングに遭うし、ストイックにやらないとつぶされてしまう。そして野党/改革系の支持基盤が反対していた大きな議案や予算が通ってしまったとき、その矛先は与党/保守系ではなくて野党/改革系の議員に向かう。真面目にやればやるほど報われないというのが、今の地方議会議員の状況といっていい。故に1期で辞めてしまう政策系の議員がとても多い。ここも非常に大きな問題としてある。

4.市民の課題

市民の課題:無関心

 市民の側の課題として最も大きいのは、多くの市民が自治体の意思決定や合意形成に関して無関心ということだ。好きでも嫌いでもなく、存在すら認知されていない。オールドコミュニティーや業界団体の外にいるそうした人たちとつながろうとしても、集団として存在していないので、どう接点を持ち、どう関心を持ってもらうか本当に難しい。8年間にわたる筆者の議会活動では、地域の実情や課題を、こうした無関心な市民にどう伝えるか、ということが大きな課題としてあった。

 行政、議会、市民それぞれに、こうしたさまざまな課題を抱える地域には、「変えたい」と考えるプレーヤーがほとんど存在しなくなっている。もしくはいたとしてもどんどんいなくなっていく、という状況にある。

5.情報やデジタル化についての課題

首長や国も変革は難しい

 情報やデジタルに関わる課題も整理しておこう。

 行政も議員も、正確な情報に基づく長期的な視点を持った政策を進めるモチベーションが無いとしたら、首長がそうした意思決定を推進するという可能性はあるだろうか。地域への思いと政策への思いがあり、かつ選挙に強い首長が長期で在任することがあれば可能性はゼロではない。

 しかし首長も選挙によって選ばれる点では議員と同じであり、有権者からの評価が無ければ変革へのインセンティブは無い。どちらかというとばらまき型の首長の方が当選しやすいというのが今も政治状況としてあり、選挙で推してくれた人たちとの利権関係の縛りも強い。

 もし自治体の長期的な計画や政策について、データに基づいた正確なシミュレーションをして検討を進めた場合、これまで既得権益層に出していたお金が可視化されてしまったり、予算が削られることで大きな反発が起こることが考えられる。つまり首長も変革へのインセンティブが働きづらい。

 では国が情報の作成や公開についての規定を定め、データの公開や検討を各自治体に強制することはできるだろうか。これもおそらく難しいだろう。最終的にデータを作成するのはそれぞれの自治体になるが、投資的経費の推移や経済成長率、税収、人口動態推移を自前で作る場合、そこにどうしても自治体側の判断が入ってくる。例えば現在でも自治体が出している人口推計もそうした思惑が入った楽観的なものになってしまっていることが多い。多くの地方はこれから人口が減少することになるが、「近隣自治体からの流入により、減少はある時点で止まる」という推計が多くある。隣の自治体も同じ考えで下げ止まる推計をしているため、どちらも根拠の無い楽観的なものになってしまっていて信頼性は低い。

デジタルデータの公開が必要

 筆者が議員時代から最低限これだけはと求めていたのは、10年、20年単位の過去の予決算の情報が款項目レベルで出されていること、つまり決算の個別の数字だった。そのデータが公開されていれば、民間の専門家や市民団体がそのデータを使ってさまざまなシミュレーションができる。しかし予算データはほぼ概要以外は出ていないし、明細が出ていてもPDF、議員に対しても紙の冊子。デジタルデータによる公開がまずは必要だという共通認識を持つ必要がある。

エンドユーザーの強さという問題

 自治体の現状としては、システム開発については基本的にはベンダー任せで、言いなりといってもいい状況にある。自治体間で似たような機能を持つシステムをそれぞれ個別で作っており、共同開発・共同発注をしてシステム統合ができれば望ましいが、これも難しい。

 ある広域自治体でわれわれも取り組んだが、自治体間の合意形成ができずに計画段階で頓挫している。総務省が提唱したSaaSのガバメントクラウドプロジェクト同じように頓挫していると聞いている。ロジカルではない部分での政治案件化が原因だったりするようだ。

 また日本的な特徴として挙げられるのが、エンドユーザーの声が強いことだ。現場の業務を変えることへの抵抗がとても強いことも、デジタル化を進めるに当たっての障害になっている。これは民間企業でも同様だが、総合業務パッケージのERPを導入するときも、結局エンドユーザーが、これまでの業務を変えたくないということで、反発を招き、結果的に非効率なシステムになっていくことが多い。

6.課題解決のための取り組み

人口減少に転じた以降も含めた長期推計に基づく事業計画の作成

 こうした山積する課題に対して、筆者は議員時代どんなことに取り組んだか、そして現在何に取り組んでいるか。

 基本的に自治体は、自分たちで考えた仮説に基づく予測の数字は出さない。これは実際の数字とずれたとき、市民や業界団体などからのクレームや問題化を避けるという理由による。国や人口問題研究所が出すオフィシャルな推計の数字、そして議員をしていた当時、政府が出していた根拠の薄い経済成長率など、公的な数字を使ってシミュレーションをするだけであった。

 そこで議員時代に、自治体が人口減少に転じた以降まで、少なくとも30年の長期推計の中での一般財源の税収と、投資的経費や義務的経費、現時点で出ている大規模投資計画などを全て合わせた長期シミュレーションを行うプロジェクトを進めた。また自治体内から数字が出てこないのであれば、議員で作ろうということで、自民党の財政に強い重鎮議員に相談しプロジェクトチームを立ち上げた。ちなみにその後、このチームは残念ながら政治的な理由で頓挫することになった。

オープンデータの活用とデータ作り

 オープンデータ化については、自治体の持っているさまざまな情報は分析や計画など意思決定に活用するためのデータであるという考えに基づき、活用できるデータを作る作業を進めた。全角の数字が混ざっていたり、2桁数字と1桁数字の前にスペースが入っていたりといった、データではなく文字として扱う自治体の慣習を変えていく取り組みであった。

財務の見える化

 行政において数字を財務的に見ることについては、水道事業のBS(貸借対照表)/PL(損益計算書)作成を進めた。川崎市内には雨水と下水が混ざる古い合流式のエリアがあり、雨水/下水の財務を分けて可視化しないと投資判断が難しい。水道事業は総務省の定める公営企業会計であり、施設別の損益計算書の作成や、分離されていなかった上水・下水・工業用水の会計を分ける作業を、議員として提案、推進した。また自治体内の各局で、財政だけでなく財務的に数字を見る、ということをやらせていただいた。

超党派の議員提案条例

 議会の課題については、川崎で1期目に取り組んだのが議員提案による条例制定。全会派を含めた超党派のプロジェクトを作り、子どもの虐待防止に関しての議員提案条例の第1号をさせていただいた。それがきっかけとなって議員の会派を超えたタスクフォースのような動きができるようにはなったが、現在はあまりうまくいっていないと聞いている。

頑張る議員の応援メディアとオンラインサロン

 「変えよう」と頑張っている議員への評価が無いこと、報われないという課題については、メディアを立ち上げ、議員の活動の価値を記事として公開し、広く市民に伝えている。また地方議員のオンラインサロンを運営し、全国600名ほどの議員と勉強会や意見交換、イベント登壇やメディアでの取材などを通して、議員のモチベーションを上げ、評価につながるような仕組みを作っている。

市民と政策提言

 「無関心な市民」という課題については、市民の側も、自分ごととして生活実感のある課題ならば、関心が向くのではないかと考え、議員時代に地域のお母さんと一緒に政策提言をするという試みを行った。子どもの預け先に困っている子育て中のお母さんたちと、東京で成功していた年度限定型保育制度という仕組みを川崎市でもやろう、という請願を作り、各議員の会派を一緒に回り、制度実現まで結びつけた。このとき一緒に活動したお母さんたちは、身近な課題を通して市政を自分事として見ていくことができ、この成功体験が次につながったように思う。次に何か課題があったとき、彼女たち自らで市に対して働きかけたり、議員に対して動くということができてくるだろう。

漫画やワークショップによる市民への情報提供

 無関心な市民に地域の政治のこと、意思決定や合意形成の中身をどう伝え、関心を持ってもらうか、現役議員の時代にもいろいろなことを試し、現在も試行錯誤をしている。当時最も機能したのは自分で描いた漫画だった。今の自治体にはこんな課題がある、こんなことを決めている、といった内容を漫画で、ウェブサイト、ブログ、紙のチラシを使って情報発信していた。

共創と伴走による変革

 株式会社Public dots & Companyでは、地域課題をめぐる行政と企業の共創に当たって「伴走型」のマッチングを企画・運営している。いわゆるオープンイノベーションは、課題とソリューションをマッチしてくださいという仕組みが基本だが、あまりうまく機能していない地域が多い。マッチングの間に溝があり、「伴走」の必要性を感じている。

 三重県のデジタル化の案件では、県の行政事務のBPR(業務改革)とデジタル化、企業や県民との共創体制構築支援、その他デジタル戦略立案のサポートを行った。庁内の業務改革としては、テレワークやペーパーレス化などの課題があり、そのソリューションは企業側に何百と並んでいたが、どれがベストなのか、県は判断できない。ベンダーに対して、県に寄り添ったソリューションを作ってほしいと依頼しても、予算の関係などあって難しい。このマッチングの溝は他自治体でも同様にある課題だが、最近の動きとしては、自治体にCTOやCIO補佐官のようなデジタルに近い立場を用意して取り組んでいるところも増えている。

 自治体が抱えている課題と市民側の要望のマッチングについてもまだまだ十分ではない。例えば地域の高齢者の移動・モビリティにおけるラストワンマイルという課題を考えてみても、1つのソリューションで一挙に解決できるものではない。どの予算を使い、さまざまなソリューションをどう組み合わせるか。局を横断する多くの課題があり職員だけではやりきれない。その部分では、筆者らの社団法人が人材育成を含めた組織のあり方そのものを一緒に伴走して取り組んでいるというのが現状だ。

 行政と市民の共創については、自治体に対して市民との対話手法を提案したり、さまざまなステークホルダーと一緒にプロジェクトを立ち上げていくオープンイノベーションの場の設定。そして研修としては、自治体の職員が市民や民間企業、NPOと一緒に働く体験をする共創研修プログラムをいくつかの自治体と作らせていただいている。

 デジタル化による市民の合意形成や行政とのコミュニケーションについては、千葉県が取り組んでいる「まちナビ」や、バルセロナの「Decidim(デシディム)」のような仕組みがある。後者については、日本の自治体でも導入するところがいくつか出てきた。デジタルを使って直接市民が意見を届けたり、行政が政策の多数決を採るような動きは今後も加速していくと思われる。市民側はまだそこまで認知が進んでいないが、自治体としてそうした取り組みを拡大していく兆しが出てきている。危機感を持って動き始めている自治体も増えてきており、今後自治体間の差は広がってくるだろう。

第2章 バルセロナが実践するデータを用いたまちづくり

吉村有司

東京大学先端科学技術研究センター特任准教授

概要

 
 バルセロナ市がオープンソースで開発した「市民参加のためのデジタルプラットフォーム」Decidimの活用が世界中で広がり、まちづくりや住民参加型の政治においてICTをどう活用するか、社会実験が世界中で行われている。こうしたツールは、効率性や利便性が高ければ普及するというわけではない。バルセロナは1960年代からICT部門が設置され、住民たちのシビックプライドも強いという背景がある。またヨーロッパ的な対話や議論の文化も、オンライン上での民主的な熟議を可能にしている1つの要因だろう。日本でも渋谷区や加古川市でDecidimの活用が始まっている。文化的なリソースや民主主義のリテラシーなど、ヨーロッパのそれとは違った背景を持つ日本のデジタル民主主義の可能性を広げる実験が進んでいる。

1.はじめに

 「市民参加のためのデジタルプラットフォーム」であるDecidimを活用したまちづくり・都市計画について紹介する。Decidimはバルセロナ市がオープンソースで開発したソフトウエアで、オンライン上での熟議、投票、市民参加型予算の運用など、直接民主主義をサポートするさまざまな機能が実装されている。バルセロナ市以外にも、ニューヨーク市やヘルシンキ市などの自治体、カタルーニャ州、グリーンピースなど、世界の地域と組織で使われている。筆者は日本でもDecidimの導入を進めていきたいと考えており、渋谷区などで実証実験とワークショップを始めていたり、他の人々によって加古川などでも実証実験などが行われ始めている。本稿ではDecidimの紹介と日本での実験について紹介していく。

 Decidimとの関わりは、バルセロナ市での経験にある。筆者は建築・都市計画・まちづくりを専門としている建築家だが、コンピューターサイエンスでPh.Dを取得していることもあり、AIやビッグデータを都市計画にどう応用していくかを得意領域としている。2001年からスペインのバルセロナに移り住み、バルセロナ市役所の一機関であるバルセロナ都市生態学庁やカタルーニャ州政府の機関であるカタルーニャ先進交通センターなどの公的機関に勤務した。その後、ベンチャーを立ち上げたり、直近3年はアメリカのMITで研究、2019年に約20年ぶりに日本に帰国して、活動を行っている。

2.バルセロナとDecidim

なぜバルセロナで先進的な取り組みが生まれるのか?

 Decidimはどのような組織と体制で作られてきたのか。バルセロナが世界に先駆けた新しい取り組みができる背景としては、長い歴史と経験に裏打ちされた体制がある。バルセロナ市役所には、ICT部門としてIMI(Institut Municipal d'Informatica)という組織がある。日本でもデジタル庁が発足し、東京都でも東京都デジタルサービス局という組織が立ち上がっているが、それと同様の組織だと考えて良い。特筆すべきは、創設が1967年と長い歴史を持っていることだ。1975年に終わったフランコ政権以前からバルセロナ市はICT部門を持っており、50年以上もの経験の蓄積がある。これは世界的にも珍しく、ビッグデータやスマートシティを実施している先進的な都市でもこうした専門部署が創設されたのは2000年代に入ってからというところがほとんどだ。

 なぜこうした先駆的な取り組みがバルセロナでは可能だったのか。背景には建築家のイグナシ・デ・ソラ・モラレス、哲学者のジョセフ・ラモネーダ、南カリフォルニア大の教授で情報社会学・都市社会学を専門にしていたマニュエル・カステルなどのキーパーソンがいたことがある。筆者はジョセフ・ラモネーダが館長だったCCCBという機関で働いていたが、ここは磯崎新氏やユルゲン・ハーバーマスのような世界のトップクラスの知性が集まる欧州の知の拠点になっていた。こうした豊かなリソースがバルセロナ市の先進的な取り組みのバックグラウンドにある。

 現在IMIの職員数は260人ぐらいで、特徴としては、専門職にPh.D.を持っている人が多いこと、そして異動があまりないためにプロフェッショナル集団となって継続的な活動を行っていることだ。年間予算は現在日本円で100億円程度。その中でいろいろなプロジェクトを回しているのがこのICT部門になる。

ビッグテックに対抗するDECODE

 IMIではDecidim以外にも、世界的にも注目されているプロジェクトがいくつも動いている。DECODE(DEcentralised Citizens Owned Data Ecosystem:分散型市民所有データエコシステム)もその1つだ。DECODEは、FacebookやGoogleのようなビッグテックに個人情報が蓄積・活用されている状況を変え、個人のデータを自分たちで管理していくためのプラットフォームだ。ビッグテックのクラウドではない場所にデータを置き、その活用については個人がコントロールできるような仕組みをブロックチェーンなどで実現している。PI(グループリーダー)としてこのプロジェクトを立ち上げたのはフランチェスカ・ブリア(Francesca Bria)氏で、彼女はバルセロナ市役所のICT部門の元CTO、DIO(デジタル・イノベーション・オフィサー)だった人物。ヨーロッパの強力な個人データ保護の仕組みであるGDPRの下、さまざまな個人データをどう社会的利益のために活用するかという欧州委員会(ヨーロピアン・コミッション)のプロジェクトとして、アムステルダム市なども巻き込んだ実証実験を行っている。

熟議を進めるデジタルプラットフォームDecidim

 Decidimもそれらプロジェクトの1つで、「熟議を進めるデジタルプラットフォーム」というキャッチフレーズを掲げた実証実験を行っている。

 Decidimのプロジェクトが出てきた背景としては、まちづくりや都市計画が、トップダウンからボトムアップに変わりつつあることが背景にある。以前の都市計画はスター建築家によるトップダウン型が中心的なモデルだった。しかし社会が成熟し、多様な市民が育ってくることでトップダウンによる合意形成は難しくなる。必然的に市民参加型でボトムアップによるまちづくりが必要になってきた。

 こうしたまちづくりの1つの例として、バルセロナ市のスーパーブロックというプロジェクトがある。バルセロナのいくつかの街区を、自動車が入れないようにし、歩行者のための空間にするというもので、市内の全街路の約60%程度を歩行者空間とする計画が進んでいる。そのプロセスにおいて地区の住民たちを巻き込み、車道だった空間の利活用を、市民同士で話し合いながらボトムアップで決めていく。

 多様な市民が集まって議論をし、全員の意見をそれぞれ聞き合うプロセスをオフラインの場で行うのはコストがかかりすぎる。それを補完するためのテクノロジーがDecidimである。

 市民はオンラインのDecidim上で議論をし、そこである程度意見をまとめ、それを議会にかけたり政策として落とし込んでいくというのが基本的な流れになっている。まだまだ実験的に走っている段階であり、成果が未知数の部分もあるが、2016年から2019年にかけて行われた第1段階では、約4万人の市民が実験的に参加、約1,500の政策として落とし込まれたものが市の政策決定に使われることになった。

 現在は2期目の実験を行っている最中だが、注目すべき点として今回から市民参加型予算(Participatory Budgeting)という考え方が導入されている。市の総予算の3%~5%をこの市民参加型予算に充てて、その使いみちについてDecidim上で市民が議論をして決定していく。数十億円規模の予算を市民全員で議論していくという社会実験になっている。

世界で利用されるDecidim

 Decidimは世界で180以上の地域や組織が使われているが、大きな特徴はオープンソースで開発・配布が行われていることだ。これは、欧州委員会(ヨーロピアン・コミッション)の予算によるEUプロジェクトという公募型のプロジェクトとしてDecidimの開発が始まったという経緯があるため。このプロジェクトをけん引するIMIも、バルセロナ市役所の機関であり、市民のお金を使って行ったプロジェクトで利益を出すという考えはない。オープンソースにすることで、世界中の組織や地域に使ってもらうことにより社会に価値を還元していこうと考えている。

 日本でも渋谷区や加古川市で導入の動きが始まっている。加古川市では、スマートシティ構想の策定に当たり、市民からの参加を促すという目的でDecidimの実証実験中である。このプロジェクトは、市役所に勤務するICTに強いスーパー公務員的な担当者が中心になって推進している。加古川市内の高校生と「今まちには何が必要か」というテーマでワークショップを開催し、そこで出たさまざまな意見をDecidimで集め、まちの政策作りに生かすプロセスが進行中だ。

 後述する渋谷区のDecidim活用が市民参加のまちづくりに重点を置いているとすると、加古川市はどちらかというとICTに重点を置いていると筆者は認識している。Decidimがバルセロナで成功しているからといって、社会文化が違う日本で成功するとは限らない。現在は各地域でさまざまなモデルによるアプローチを試し、知見を増やしている段階であり、最終的に日本に合うタイプのモデルを作り、良いまちづくりにつながれば良いと考えている。

3.日本におけるDecidimの活用と可能性

渋谷区でのDecidimプロジェクト

 渋谷区のプロジェクトは、2020年の11月に渋谷区で行われた「ソーシャルイノベーションウィーク渋谷」において、バルセロナ市からIMIの担当部門部長や開発責任者を招聘(しょうへい)、立ち上げイベントを行ってDecidimの実証実験が始まった。プロジェクトの1つであるSHIBUYA Mama-Chari Projectは、東大とMIT Media Lab City Scienceグループ、そして渋谷未来デザインの共同プロジェクトとして、日本で独特の進化を遂げてきた自転車である“電動アシストママチャリ”にセンサーを付け、収集データから道路や町の様子を把握するという試みだ。電動アシスト自転車は日本の道路事情や子育て事情に見合う部分が多く特に幼少児童の送迎などで子育て世代への普及率が高い。また、比較的大型の電池を備えているなどIoT化との親和性も高い。こういった理由から“ママチャリ”というヴィークルは子育て世代が移動に使う以外にも、多様な人の声を聴くツールとして活用できるのではないか、と考え、Decidimと組み合わせた実験を行っている。もともと、MIT Media Lab City Scienceグループは、ボストンにおいて電動アシスト自転車に環境センサーを取り付けることによって環境データを収集していた。また、筆者が在籍していたMITの研究室では、マサチューセッツ州のケンブリッジ市で市役所と共同で取り組んでいたシティスキャナーというプロジェクトを行っていた。ゴミ収集車にセンサーを付けて街を走らせて、CO₂やNOxの測定を行うと、地域のある場所、ある時間に汚染物質が蓄積しやすいといった課題が可視化される。行政にとっては、市民の税金で造ったゴミ収集車やバスのような公共資産にセンサーを付ければ、市民生活の質を改善するためのデータを取得できると歓迎された。日本の自治体でも同様の試みは可能であり、進めていきたいと考えている。

 このシティスキャナーのプロジェクトを参考に、渋谷区のママチャリにもセンサーを付けて実証実験を行う予定になっている。その最初のステップとして、ママチャリに乗っているママさんたちの移動データから、急な坂があって危ない場所、道が混雑していて不便であることなど、日常生活での困り事や課題が見えてきた。そうした課題を持ち寄ってオフラインのワークショップを行い、そこにオンラインのDecidimをプラスして使ってみようというのが、日本におけるDecidim実証の始まりである。

 DecidimはCode for Japanが日本語版に翻訳したものを使い、ユーザー一人一人が自分なりの議題を上げる仕組みになっている。誰かが議題を上げると、その下に賛成する人がフォロワーとして付いたり、賛否の意見が付けられていく。例えば「夏のラジオ体操をここでやりたい。子どもたちがまとまって体操をするので、この時間帯の通行が心配だ」という意見が出る。ここに「いいね」がいっぱい付き、そのうちの1人が「このエリアでラジオ体操する場所がないので、僕もやりたいと思います」と議論がつながって深まっていく。あるいは「自転車で走行できるルールにしてほしい」という意見に対して、「ベビーカーユーザーからすると子どもを遊ばせられる数少ない場所で、無対策に自転車通行可にされたら怖いと感じる」といった反対意見も出てくる。

議論を進めるための役割や技術

 多様な意見がたくさん出てきたときに、それらをどう集約していくかがポイントになるが、Decidimの場合は、ICTでシステムを作れば自動的に整理されるという考えではなく、ファシリテーターの存在が重要になっている。バルセロナ市の場合には豊富な予算と充実した組織が背景にあることもあって、専属のファシリテーターを雇用しており、彼らが議論の整理や意見の集約を行っている。オンライン上で議論が白熱して激しい対立になったり、あるいは分散化しすぎてしまったりした場合にはファシリテーターが介入して整理をする。それでも難しい場合はオフラインで話し合う、というプロセスを混ぜることでうまくいくという認識になっているようだ。オンラインの仕組みがあればオフラインが要らないということではなく、定期的にオフラインのフェース・ツー・フェースのミーティングも混ぜることでうまく回っていくと彼らは強調している。

 プロジェクトを進めている中で、視覚的な要素も欲しいということになり、「miro(ミロ)」というツールも組み合わせてワークショップを回していった。「miro(ミロ)」はウェブ上のホワイトボードのようなツールで、地図の画像の上に付箋を貼るようにしてコメントを付けていくことができる。もともと手がけていた都市計画やまちづくりのワークショップでは、参加者で机を囲み、地図を広げ、付箋を貼っていったり模型に書き込んでいきながら、まちをどうしていこう、という議論をしていたが、それをデジタル環境でできるようになっている。ママさんたちと使ってみて、議論がよく進むことが分かった。

Decidim活用で見えてきたこと

 Decidimを使いながらワークショップを実施したことで、いくつかの知見が得られた。

 1つ目はほとんどの参加者がICTに習熟していたことだ。「どう使ったらいいの?」といった質問はほとんどなかった。

 2つ目は集まってくれたママさんたちが、ワークショップやまちづくりにとても興味があるということ。小さいお子さんのいる方にとっては、こうしたワークショップが昼間の時間に開催されていてもなかなか参加できなかったが、オンライン開催だと比較的参加がしやすいということも見えてきた。

 3つ目としては、ビジュアライゼーションの効果、データを視覚化することの意味の大きさだ。ビジュアライゼーションは単に「きれいに見せる」だけではなく、非専門職の人々とのコミュニケーションツールになるということが確認できた。専門職や研究者は数式を使って論文を書くが、それでは普通の人には理解してもらえない。データや情報をビジュアライズしたものを見せれば彼/彼女たちも直感的に理解ができ、自分のまちをよりよく知ってもらえる。合意形成の場面でも視覚化は有効だ。MIT Media Lab City Sciencesグループが開発したシティスコープのプロジェクトは、市民が集まって議論をして合意形成するワークショップであり、レゴブロックを活用していた。レゴブロックで自分たちのまちを再現し、そこにプロジェクターで3Dマッピングを投影し、例えばある場所のビル(のブロック)を取り除くと、まちがどう変化するかをより直感的に理解してもらうことができていた。今後こうしたコミュニケーション手法は拡大していくのではないか。日本でも広げていきたいと考えている。

日本のシビックプライドは?

 デジタルプラットフォーム上での議論には、文化的なバックグラウンドの違いも存在することが分かった。バルセロナでは、自分たちの住むまちにそれなりに愛着やプライドを持っている人が多い。そのためまちづくりについて話すとき、否定的な意見ばかりが出て負のスパイラルになることはこれまでなかったという。フランス人にとってはパフォーマンスをしたり議論をしたりする場所として路上が大切な意味を持っているという話があるが、さかのぼれば古代ローマやギリシャの民会(市民の総会)のような広場に集まってみんなで議論をする文化や風土がヨーロッパにはある。もちろん日本にも住民が集まって議論をするという文化がさまざまな形で存在するが、それはバルセロナと同じものではないだろう。こうした議論のあり方の違い、文化的背景も踏まえて、日本版としてローカライズする必要がある。

 また筆者がバルセロナに長く住み仕事をしながら感じたのは、住民みんながバルセロナというまちが大好きであることだ。まちへの愛着があり、まちの未来について真剣に考えている。つまり住民がシビックプライドを持っている。こうした愛着やプライドがどこから来ているのかを考えると、1つはまちの風景が人々のアイデンティティー形成に関わってきたからではないか。ヨーロッパのまちは基本的に石づくりで風景があまり変わらない。自分が生まれた家から3分歩いたところに例えば橋があり、その橋には子どもの頃の記憶がきっとあるだろう。そんな場所に、外から有名な建築家が来て橋を壊し公園にすることになったら、すぐデモが起こるだろう。あまり変わらない風景が住民のアイデンティティーのベースにあるからこそ、まちについての多様な意見をDecidimのようなICTで吸い上げて補完してやると、まちづくりがうまく回るのではないか。こうした変わらない風景への愛着があまりない日本では、何を基盤にしてまちづくりを進めていけばいいのか、難しい問題だ。例えば日本人にはディスカッションがあまり得意でない人が多いが、その部分をICTで補完することができれば、ある一定のブレークスルーにはなるのではないかと考えている。

市民の声を政策に落とすことの重要性

 筆者はどちらかというとトップダウンよりもボトムアップでまちづくりを進めていく方が良いと考えている。都市計画においては、いくら綿密に計画をして箱を用意しても、そこで実際に生活をしていくのは市民である。自分で考え自分で行動していく能動的な市民がいないと良いまちづくりは実現できない。バルセロナは、そういうことが分かった上でボトムアップ的なアプローチをとっているように思われる。

 そこで重要なのは、ボトムアップから集約していった声を実現できるかどうかだ。渋谷区のプロジェクトでも、第1フェーズとして市民の声を集めた後、次に必要なのは行政がそれをきちんと受け取り政策に落としていくことである。

 プロジェクトのグループに入っている一般社団法人渋谷未来デザインという機関には、小泉秀樹東京大学教授が理事長に就任し、渋谷区から職員が出向して渋谷区とプロジェクトをつないでいる。筆者がプロジェクトの初期から強く伝えていたのは、渋谷区が市民の声を自治体のプランに落とし込むことの重要性だ。現在、市民の声で作られたある緑道のプランについての実現が進められているところで、どこまで具体的な空間デザインにまで落とせるのか未知数ではあるが、期待している。

エリートモデルかボトムアップ型か

 また、まちづくりをけん引する体制についても、日本とバルセロナでは違いがある。前述したとおり、バルセロナ市のIMIでは担当スタッフがPh.D.を持っていたり、MBAを持っていたりと、基本的にはエリートたちが都市計画を担っている。これはバルセロナに限らずヨーロッパ全体にいえることだが、エリートたちがプライドを持ち責任を持ってまちづくりや行政を回してきているという歴史がある。また、そのような人材を最大限生かせる体制作りなども確立されている。

 この方法を日本に移植できる可能性をずっと考えていたが、やはり彼らのそれは欧州モデルであり、日本とは社会文化が違うのではないか。日本では、自治体の周辺に不動産会社や都市開発企業などのプレーヤーが存在し、補完し合いながらまちづくりを進めていくというモデルになっている。行政が全てのリーダーシップをとるのではなく、多くのステークホルダーが集まり、調整をしながら動かしていくという形になっているのではないか。また、日本の自治体職員も個の能力としては欧州の職員と引けをとらない場合が多いのだが、組織としてそれら個のパフォーマンスが十分に発揮される状況になっていない場合が多い。

 ただ日本でも、神戸市がICTに強い専門家を育成していたり、加古川市や渋谷区も新たな試みを通して変化しようとしている。東京都でも元ヤフーのCEOだった宮坂学氏が副知事に就任してDXを進めるなど、変わっていく兆しがある。

 新しいまちづくりを担う人材は、テクノロジーに関心がある人材とまちづくりに関心のある人材の2タイプに分けられる。日本はどちらかというと後者が多く、テクノロジーに強いまちづくり人材はまだこれからといった状況だろう。

 テクノロジーの知識を持っている人と、行政やまちづくりの実務経験を持っている人がうまく混ざり、両サイドの知見と技術を持つ人材を育てていく必要がある。最終的なアウトプットはもちろん良いまちをつくることだが、そのプロセスにおいて人間の手と目では効率が悪くなる部分についてはコードを書いてデータ処理をしたり、補完的にテクノロジーを使っていったら良い。筆者が関わっている学生たちには、コードを書いたり触ってもらったりすることでデータに対する苦手意識をなくしていこうとしている。まちをよくしていくという目標に向かってデータをどう使っていくか。筆者自身がバルセロナで行政に勤めていたこともあり、行政の中でできることの可能性は大きいと感じている。学生たちは今だと不動産やデベロッパーの企業に進むことが多いが、今後は自治体や地域でも面白いことできるという流れを作っていきたい。いろんな職種、領域に良い人材がいる状況になれば、全体で地域をよくしていくことができるのではないかと考えている。

第3章 参加型民主主義の変容と課題

庄司昌彦

武蔵大学社会学部教授

概要

 
 デジタル化時代の地域力について、デジタル民主主義の可能性を軸に考える。1990年代は、「声を届ける参加型民主主義」として、ITによる社会への市民参画と行政の質向上が可能だとする"e-democracy"が希望とともに語られていた。2000年代になると、SNSを使った地域社会の自治ガバナンスの試みが発展するが、2010年頃から拡大していったFacebookTwitterなどグローバルなプラットフォームが出てくるなかで衰退していった。グローバルなSNSはアラブの春のような「政治を直接動かす参加型民主主義」を可能にし、現在はそこからシビックテックのような「自分たちで作る参加型民主主義」が活動の場を広げている。しかし課題も大きい。SNSの拡大は市民の「大衆化」を促進し、マーケティングや広告技術による操作や監視、ビジネス利用などが巨大な規模で進行している。また「ソリューショニズム」と呼ばれる、エンジニアによる近視的な課題解決の危険性も指摘されている。

1.デジタル化の拡大と「声を届ける」参加型民主主義

1990年代-デジタル民主主義の夢

 デジタル化の拡大は地域住民と地域社会との関わりに大きな変化を与えてきた。1990年代後半になると、情報公開法(1999年)やインターネットの普及によるウェブサイトの開設・運営が増加したことで、行政関連の公開情報が飛躍的に増加することになった。民主主義のあり方は時代に応じて変化するが、市民の合意形成と社会への「参加」のあり方に注目すると、デジタル化が進んだ1990年代以降の変化は大きい。

 私が大学に入学した1996年当時、デジタル民主主義には一部で大きな期待が抱かれていた。e-democracy、つまりITによって社会への市民参画を促し、政治や行政の質も高めていくことが可能だという考えが、希望とともに語られていた時代だった。世界で最初の選挙のための電子掲示板サイトe-democracy.orgをスティーブン・クリフト(Steven Clift)がオープンしたのが1994年であった。日本では1996年に藤沢市と慶応大学SFCが共同で「市民電子会議室」を開設していた。

 「ばら色のデジタル民主主義」を夢見ながら大学院を出た後、国際大学GLOCOMという組織で、デジタルと公共に関する調査研究やシンクタンク的な仕事をしていたが、国内におけるe-democracyの熱はさして盛り上がらなかった。

 しかしその頃からmixiやGREEといったSNSが登場し、日常のゆるやかなコミュニケーションの場として広く普及していった。このSNSを「地域」で活用する動きも現れ、「地域SNS」は全国の500以上の地域に草の根的に広がっていった。一部の地域SNSでは自治体が運営に関与し、行政職員と市民が日頃からゆるやかにつながり協働で季節のイベントを企画したり新たな特産品を考えたりするなど、市民が行政に「声を届ける」参加型民主主義の萌芽(ほうが)ともいえる信頼関係が構築されていた。しかし地域SNSは、全世界で使われるTwitterやFacebookなどのグローバルなプラットフォームの勢いに押され、2010年以降は衰退してしまった。

2000年代-SNSの時代

 政治家と市民の関係にも変化があった。2000年代後半以降は、ブログやソーシャルメディアを通じて、政治家と市民が直接コミュニケーションを取るようになった時代である。日本では政権交代が起きた2009年の総選挙から、Twitterを通じて有権者とコミュニケーションを行う、「Twitter議員」と呼ばれる国会議員が増加し、地方自治体の政治家にも拡大していった。市民が、議会における自分たちの代表者に「声を届ける」参加型民主主義がこの領域でも進展していった。

 TwitterやFacebookなどが一般に広がった2009年、アメリカではオバマ大統領が誕生した。オバマは就任直後に「透明性とオープンガバメント」と題する覚書を発表し、「透明性、参加、協働」という、いわゆるオープンガバメントの三原則を示した。この時期、私はアメリカに調査に行きオープンガバメントというテーマの大きさと可能性に目をひらかされた。特にパブリックセクターにおけるデータの開放、いわゆるオープンデータはその後の私の研究の中心になった。

 この分野で重要な存在だったのが、オバマ政権のCTO(chief technology officer)としてオープン・ガバメント・イニシアチブを導いたニューヨーク大学のベス・ノヴェック(Beth Noveck)だ。“Wiki Government”(Noveck(2009))という著書で、オープンな技術が社会課題の解決をしていく未来を説いた。

WEB2.0

 2000年代の半ばには、ブログやWIKIなど新しいインターネット上のツールの利用が世界で広がり始め、WEB2.0という言葉が流行した。当時よく参照されていたのが『「みんなの意見」は案外正しい』(Surowiecki(2004))で、自分の利益とは関係ない一般的なことについて群集が出した結論は、最も優秀な人の結論よりも知的に優れているという、群衆知・集合知のアイデアが展開されていた。群集知・集合知の成立には、①メンバーが自立していること、②メンバーが分散していて中心を持たないこと、③メンバーが多様であること、④正しい方法で意見を集約すること、の4つの条件が必要であるという内容は広く関心を集めた。

 また日本の女子高生がケータイで連絡を取っているというところから話が始まる『スマートモブズ』(Rheingold(2002))もしばしば参照された。モバイルが当たり前の環境で、ウェアラブルデバイスと評価や評判のシステムを通して、直接知らない人々とも互いに協力して行動する人々が出現する未来を描いていた。

 著者のハワード・ラインゴールドと知己であった伊藤穰一氏が、「創発民主政(Emergent democracy)」という論文をGLOCOMに持ちこみ、公文俊平所長らがそれを翻訳し発表したのもその頃である(Ito(2004))。伊藤氏の論文は、ブログやWIKIなどが世界で使われ始めた頃の着想で、これらツールの進化に伴うインターネットの普及と影響力の拡大が新しい政治モデルの構築を促進することや、より高度な秩序が形成され、複雑な諸問題に対処しつつ、現行の代表民主制を支援したり、変更したり、あるいは代替するような新しい形の民主政治が創発してくる可能性を説いていた。

 また同論文は、テクノロジーが企業や政府に権力が集中することで腐敗した民主制をさらに劣化させる可能性もあることや、よりよい民主制のために私たち市民ができるだけ影響力を発揮する必要があることも指摘していた。これは現代の状況、テクノロジーによる民主制の危機を予見していたともいえる。

 また、2004年から2006年にかけては、当時私が在籍していたGLOCOMでは哲学者・思想家の東浩紀氏によって「情報社会の倫理と設計についての学際的研究」を目的とした「ISED(アイエスイーディー)」という研究会が行われていた。現在はスマートニュース社の会長である鈴木健氏は研究会の主要メンバーの1人で、彼は当時、分人民主主義(Divicracy)というエンジニア的な発想による民主主義をアップデートしようという提案をしていた。これは現在のように1人が1票を行使するのではなく、「政策Aに0.3票、政策Bに0.4票」といった細やかな合意形成のシステムをテクノロジーによって実現するという考えで、デジタルによって民主主義を更新する可能性が各方面で議論されていた。

 多くの人たちが、ばら色のインターネット、デジタル民主主義の可能性をまだ夢見ていたのがこの2000年代という時代だった。負の面が顕在化している現在から見ると牧歌的で理想主義的ではあるが、インターネットを支えるハッカー的な思想とも関連が深く、語られた理想が実際に社会に影響を与えてきたことも事実である。ちなみに台湾の唐鳳(オードリー・タン)も、基本的にはこうしたデジタル・デモクラシーの理想主義の流れだといえるだろう。

2.政治を直接動かす参加型民主主義

2010年代-社会を変えるデジタル技術

 2000年代までのデジタル技術が実現していた「声を届ける」タイプの参加型民主主義は、行政機関や地域の議員を通じた社会参加であり、間接民主主義的であった。しかし2010年代以降には、「アラブの春」や「オキュパイ・ウォールストリート」のような直接的な社会参加の形が現れてきた。考え方を同じくする人々が群れを作り、より直接的に政治を動かし、意思決定の結果を左右しようとする動きが世界的に強まった。

 デジタルテクノロジーが政治や社会に大きな影響を与えた最初の事例としては、フィリピンで2001年に起きたエストラーダ大統領の追放キャンペーン、通称EDSA2という出来事が知られている。大統領の違法賭博献金疑惑が発覚すると、インターネットや携帯電話のショートメッセージでつながった民衆のデモが広がり、疑惑発覚から3カ月で辞任することになった。「私は(クーデターではなく)クーデ“テキスト”によって追い出された」と辞任後に大統領が語ったというジョークが当時出回ったり、携帯電話会社が「携帯電話がEDSA2を支えた」という広告を新聞に掲載するなど、多少誇張された部分もあったようがだが、テクノロジーによってデモクラシーが動いた事例とされている。2003年に当選した韓国の盧武鉉大統領も、Ohmy News等のネットメディアを活用し、時には大規模デモを組織して意思表示をする若者たちに支えられていたことが知られている。

 2010年から2012年にかけては、インターネットでつながった民衆が世の中を大きく動かした「アラブの春」の運動があった。発火点となったチュニジアのジャスミン革命(2010年)では、高い失業率への抗議から始まったデモやストライキが当時のベン・アリ長期政権への抗議となり、その様子がYouTubeやFacebookで拡散、政権打倒へとつながった。国家機密などをリークするという情報のオープン化を象徴するサイト・活動であるWikileaks(ウィキリークス)も、ベン・アリ大統領一族の腐敗を伝えた。政府はWikileaksへのアクセスを遮断すると、情報統制に反発した国際的なハッカー集団であるアノニマスが政府ウェブサイトを攻撃した。アノニマスはエジプトの情報統制反対運動やウォール街への抗議運動で世界に広がった「オキュパイ・ウォールストリート」でもデジタルテクノロジーを活用し社会に影響を与えるアクションを行った。

 エジプトでは、政府による情報統制に対してネットの自由を掲げる国際集団「テレコミックス」が独自のダイヤルアップ接続サービスを国内で提供し、現地の人々やジャーナリストの情報発信を支援した。

 最近の事例では2019年から2020年に起きた香港民主化デモも類似性がある。スマートフォン同士で匿名のP2P(ピア・ツー・ピア)ネットワークを構築するFireChatというツールを使うことで、投稿は一定時間で消去され、中国政府のネットワーク遮断や検閲を回避しながら、デモを組織していった。テクノロジーで群衆が組織され、社会を動かしたという点で、「アラブの春」と同様、政治を直接動かそうとする参加型民主主義が機能したといってよいだろう。

ソーシャルメディアを活用し社会に影響を与える小集団

 インターネットやソーシャルメディアによって社会に直接影響を与える集団が、政党という形で実現したのがヨーロッパの海賊党である。情報の自由やプライバシー保護、知的財産権の緩和や政府の透明化などを求めるネットユーザー政党で、アノニマスやWikileaksとも思想面や活動で共通性があった。2009年以降、スウェーデンやドイツから欧州議会議員選挙の議席を獲得したり、アイスランドで複数の国会議員を排出したり、2011年にはベルリン市議会(州議会)選挙で15議席を獲得したりするなど、インパクトを与えた動きであった。

3.自分たちで作る参加型民主主義へ

ともに考え、ともにつくる

 これまでの「声を届ける」参加型民主主義や、「政治を直接動かす」参加型民主主義とは異なる動きとして出てきているのは、「シビックテック」や「コ・デザイン」というアプローチだ。これはテクノロジーの力を使いつつ、社会課題や地域課題の解決策を自分たちで考え、合意形成をし、さらに解決策の実施まで自分たちで行うというものだ。「自分たちで作る」参加型民主主義といえるだろう。

 社会参加志向のあるエンジニアたちの活動である「シビックテック」は、主に行政機関が提供するオープンデータを利用したり、時にはデータも自分たちで作り、そのデータを使ったアプリやサービスによって社会や地域の課題解決に取り組む。日本では、「ともに考え、ともにつくる」というキャッチフレーズを掲げている"Code for Japan"が、代表的なシビックテックを推進団体だ。

 "Code For———"はもともとアメリカの"Code For America"が、エンジニア・プログラマーが関わってよりよい行政を作っていこうと始めた活動である。透明性の向上やオープンガバメントの推進を目指す地域の行政と、先端的なエンジニア、行政の専門家、産業界リーダーなどを結びつけ、複数の財団から受けた資金を先端的技術者に提供し、1年の間、行政関係のプログラミングに従事してもらうというプロジェクトで、WEB2.0を提唱したオライリー社のティム・オライリーやFacebookのマーク・ザッカーバーグらが、"Code For"への参加を呼び掛け、全米からの参加者とともに実績を積み重ねている。

 "Code For JAPAN"や"Code For GERMANY"など世界各地に取り組みが広がっており、中でも日本の"Code For JAPAN"は比較的活発な活動をしている。草の根的なエンジニアが「ともに考え、ともにつくる」精神で、社会の問題解決にまで取り組んでいる。

シビックテック

 地域社会において市民のためのIT活用を推進し、地域力を強くしていこうとする「シビックテック」の流れは、世界各地で広がっている。イギリスの「Fix My Street」もその1つだ。「Fix My Street」は、地域の中の落書きや不法投棄、壊れた道路の舗装など、直したり修理したりしてほしい場所を地域住民が見つけ、オンライン地図に登録し行政に知らせるというシンプルなウェブサービスである。住民が投稿した新しい問題や解決済みの問題も可視化されていて、自由に閲覧できる。類似サービスの「Fix My Transport」は、混雑や時刻の遅れ、汚れている場所があるなど、交通機関の困り事を、市民がTwitterやFacebook、メールなどで投稿することで、行政の担当者に届き、マップ上でその情報が公開されるというものだ。

 私の大学のゼミも実施している「シビックパワーバトル」も、テクノロジーによって地域の魅力を発掘しようという参加型イベントだ。地域単位で分かれたチームが、オープンデータをもとにして課題を可視化し、解決策の提案や、可能な場合はアプリ・サービスの実装まで行い、バトル形式でプレゼンテーションを行う。流山市、横浜市、さいたま市、千葉市、川崎市が参加した第1回シビックパワーバトル@Yahoo! LODGE(東京開催)、千葉地域で行われたシビックパワーバトル千葉市6区対抗戦、京阪神地域ではシビックパワーバトル大坂夏の陣、全国から参加があったシビックパワーバトル オープンガバメント推進協議会 2018(浜松市で開催)、川崎シビックパワーバトル2018(川崎市で開催)など、全国の地域で開催が続いている。

 東京大学公共政策大学院などが共催している、「チャレンジ!!オープンガバナンス」も、2016年から行われている全国的なシビックテック関連イベントだ。「市民も変わる、行政も変わる!! オープンガバナンス」をキャッチフレーズに、全国からエントリーした自治体が地域課題と関連データを公開し、市民参加者は、データを活用しながら課題解決のアイデアや、市民と行政の連携状況を競う、というコンテストになっている。2020年度のオープンガバナンス総合賞を受賞したのは、目黒区が提示した地域課題「コロナ禍における適切な避難行動」に対して、「区民が災害情報のオープンデータを確認した後に避難表明を行うことができる仕組み」を提案したチームだった。

スマートシティ

 デジタル化時代の地域力が具体的に表れてくるのがスマートシティである。技術を活用して人々にとって住みよい都市環境を目指す取り組みやそうした都市のことを「スマートシティ」と呼ぶが、重要なのは、超高層ビルやロボット、自動運転車などのインフラや機器の整備ではなく、環境負荷の低減や、混雑問題への対応、文化的多様性の実現など、生活の質を高めるソフト面の目標達成である。そのために必要なのがデータの活用である。

 スマートシティ先進都市として知られるバルセロナ市では、街路灯・バス・バス停・駐車場・ゴミ箱等に公共センサーを設置し、騒音や大気の汚れ、駐車場利用状況、ゴミ箱の状態などを把握してサービス向上に役立てている。さらに、さまざまな公共データをオープンにすることで、課題発見と解決につなげている。集めたデータを管理するのは市がIT企業とオープンソースで開発したSentlio(http://www.sentilo.io/)というプラットフォームで、カタルーニャ州の他自治体、ドバイ、神戸市などでも利用されており、都市間の交流も行われている。

 アメリカではシカゴ市もスマートシティを推進している。Array of Thingsと呼ばれるスマートシティのシステムは、バルセロナ市と同じく、街中にセンサーを配置し、一酸化炭素、二酸化窒素、二酸化硫黄、オゾン、騒音、歩行者・車両交通量、道路表面温度などのデータを取得、「シカゴのフィットネストラッカー」とも呼ばれている。データは研究者や一般市民にオープンに提供され、ソフトウエアやハードウエア仕様も全てGithubで公開するなど、オープン志向のプロジェクトになっていることも特徴だ。この環境を活用した事例としては、洪水や交通安全に関する予測システムや特定の大気汚染物質をトラッキングするモバイルアプリ、暑くない場所を探すアプリなどがある。扱うデータのプライバシーについては、有識者らの会議で定期的に審査されており、個人が特定できる情報は可能な限り収集せず、都市環境に重きを置くためプライバシー侵害リスクは低い、とされている。

 日本でも、コロナ対応の中で内閣府のV-RESASというウェブサイトが自治体や企業からのデータをもとにして、全国の地域の状況を可視化していた。イベントのチケット売り上げや地域の人流などのデータの変化が地域別に週単位などで細かく閲覧できるようになっており、オープンなデータを可視化する基盤は整ってきているといえる。

4.デジタル民主主義の負の側面

 しかしデジタル民主主義の課題、負の側面もはっきりと浮上してきている。オープンガバナンスの進展など多くの前向きな事象も起きているが、非常に憂慮すべき事態も起こっているといわざるを得ない。

 もともとは一部の高度な専門家によって発展が始まったデジタルテクノロジーは、やがてアカデミアからはみ出したハッカーのような人々によって自由に利用されるようになり、さらに「ギーク」や「オタク」と呼ばれる存在が情報社会を引っ張る存在になっていった。そこからさらに大衆化が進み、「賢い」群衆(モブ)となり、社会に影響を与えるようになっていくことを期待したのが、2000年代の『スマートモブズ』や「創発民主政(Emergent democracy)」であった。しかしそうした集合知の実現や創発よりも、実際に生まれたのは、賢いとはいえないモブが相互に影響し合い、足を引っ張り合う世界である。

広告やマーケティング技術の政治利用

 人々を追跡・監視し誘導する広告技術やマーケティングテクノロジーの発達を政治的に利用したり、監視などの自由を奪うための活用が拡大しているという問題も大きい。オバマを大統領に押し上げたのも、トランプ当選の原動力となったのもソーシャルメディアそのものではなく、その裏にあるこれらの技術であり、コロナ禍でクローズアップされたのも、デジタル監視国家の有効性とその危険性であった。

 ソーシャルメディアを駆使した活動は、例えばイスラム国(IS)にまで及んでいる。世界中からメディアビジネス等の経験者が集結していたとされるISの広報局「フルカーン」のネット戦略は、YouTubeやFacebook、Twitter活用した(1)プロパガンダ、(2)リクルート、(3)資金集めだ。ソーシャルメディアは単にメッセージを発し拡散させるための手段ではない。アラブの春やオキュパイ・ウォールストリートで存在感を見せた、匿名ハッカー集団アノニマスも、テクノロジーの活用において人並み外れた人々であり、ツイートや動画に現れる主張だけではなく、より深いレベルでの活動に目を向けるべきだろう。

 こうしたテクノロジーの政治活用が最も露骨に現れるのがアメリカの大統領選挙だ。4年に1度の選挙の度にイノベーションが起きている。2004年の民主党大統領予備選に立候補したハワード・ディーン候補はブログを活用して積極的な情報発信を行い、支持者はSNSを活用して数多くの集会(meetup)を組織することに成功した。またネット経由での小口献金を多数集め、有力候補に浮上することになった。2008年の選挙では、大統領になったバラク・オバマ候補以外の候補者もTwitterやFacebookなどのSNSをフル活用して支援者のコミュニティーを形成していった。中でもオバマ候補は完成度の高いSNSサイトを独自に運営し、YouTubeで演説や活動状況を動画配信するなど、テクノロジーの有効活用が目立った。2012年の選挙でも、オバマ陣営はビッグデータ分析に基づく効果的な選挙キャンペーンを打ち出して勝利を収めた。

 アメリカ大統領選は、近年ますますIT企業の関わりが増大している。政治・選挙コンサルティング、メディアの運用、世論調査、データ分析など、多様なビジネスの機会であるだけでなく、限られた時間の激しく状況が変化する中での集中的な開発で得られる経験やネットワーク等が企業の中長期的な財産となり、また技術をアップデートする絶好の機会になっている。また選挙を戦う側にとってもITの重要性は有能なエンジニアやサービスを持つ企業を確保することが勝負の鍵になっているといってよい。

テクノロジーのブラックボックス化

 2016年の大統領選挙で当選したトランプ候補は、過激なツイートの内容をマスメディアに報じさせることでネットを利用していない人々にまで自分の主張を届けた。このような、ソーシャルメディアとマスメディアの相互作用も重要なトピックだ。トランプ氏は、戦略無しに投稿していたわけではなく、データ分析による選挙コンサルティングを専門とするケンブリッジ・アナリティカ社などが、大量のプロファイリングに基づき心理操作に近い高度な広告技術を駆使して激戦州の浮動層にメッセージを届けたりすることで、当選を勝ち取った。

 この「事件」を踏まえると、過激なツイートを拡散する役割を担ったマスメディアや、ターゲティング広告の場を提供した大手プラットフォーム企業が、今後どのような姿勢で民主主義と関わっていくべきであるのか、課題が残る。世論形成に与える効果や「ネット中立性」の観点から実証研究等を踏まえて、適切な関係を見いだし、ガイドライン等を作成していくことが求められるのではないか。

 アメリカ大統領選挙に限らず、プラットフォーム企業等が広告ビジネスにおいて、個人ユーザーのデータをプロファイリングし、分析して、効果的なメッセージを届けようとしたり、あるいは人を選別したりするといったことは広範に行われており、現在はAIの利用も進んでいる。特に深層学習(ディープラーニング)を用いて分析した場合、「AIがなぜそのように評価・判断したのか」の判断基準や過程が不透明であり、正しい判断であるのかどうか検証できないことや、責任主体が不明確になることも問題だ。日本では就職支援サイトのリクナビが、本人の適正な許諾を得ずに学生の内定辞退率をAIで推測・評価し企業に有償提供していた問題が発覚した。就職という人生を左右するような決定に不透明な人工知能が関与し、そのために個人データが活用されるということは学生にとっては想定外であり説明責任も問われる。今後、オンライン広告やデータ分析、デジタルマーケティングを専門とするテクノロジー企業は、政党・政治家と有権者のコミュニケーションだけではなく、政府と国民の間のコミュニケーションや、企業と消費者との間のコミュニケーション、国際関係におけるコミュニケーションなど、さまざまな場面により深く関与するようになると考えられる。デジタル技術が民主主義を脅かす可能性は今後さらに拡大していくだろう。

スマートシティにおけるデータ利用の課題

 デジタル化の最前線であるスマートシティのプロジェクトでも、さまざまなデータと個人IDを紐付けることで個人に最適なサービスを提供したり、人々の行動を変えることで環境負荷の低減など全体最適を達成したりするという議論があるが、うまくいっていない事例も多い。Googleが大々的に取り組んだカナダのトロント市におけるスマートシティプロジェクトも、市民とGoogleの間で個人データ利用についての合意が得られず頓挫した。その一方で中国ではコロナ禍のパンデミックの管理という目的で、街中のカメラ画像やスマートフォンを経由した移動データによる監視が成功したといわれている。個人を丸裸にして監視や効率化を行うことを評価し、推進する動きもあるが、本当にそれで良いのだろうか。

 EUはこうした動きに対して、GDPRという強力な個人情報保護ルールを作り、国籍・居住地や永住・一時滞在を問わずEU域内の人々と取引をする場合に準拠を求めている。私も、個人を起点としたデジタルな人権の強化は必要であると考える。

 しかしデジタル化を否定しているわけではない。「個人を丸裸にする」ようなアプローチではないスマートシティはあり得るのではないか、ということだ。例えば、自宅にいる人がランチを何にしようかと考えた場合、個人を丸裸にするアプローチであれば、1週間で食べたものとその栄養成分、体重の増減や運動量、体調変化などのデータを調べ上げ、その分析に基づいてあるメニューが指示されることになるだろう。しかしそこに喜びはないかもしれない。そうではなく「今週はずっと外出が続いていたので地元のおいしいものが食べたい」などといった個人の意思を起点として自宅周辺の店と関連データを徹底的に探索し、「徒歩◯分で近所のA店はマッチしているが通常より◯%混雑している」「徒歩△分でやや遠いB店もマッチしており今日は鮮度と栄養価の高い野菜を仕入れてランチに出している」「ではこの中から選んでください」といったように、「環境を丸裸にする」ことで、他者が個人を詮索せず個人が尊厳を保ち自ら判断できるようなアプローチも考えられるはずだ。

ソリューショニズム批判

 もう1つの批判として、エフゲニー・モロゾフの「ソリューショニズム」という視点がある。

 ソリューショニズムとは、ある社会課題に対してエンジニア的な解決(ソリューション)アプローチを取ることが効率性や合理性の面から優先され、根本的なシステムや価値への問いかけ、市場制度のほころびなどには手を付けず、目の前にある課題をテクノロジーで対症療法的に解決してしまうという、近年多くなっているアプローチへの批判だ。

 例えば政府のパンデミック対策でも2種類のソリューショニズムが見られる。1つは進歩的ソリューショニズムで、アプリ等を通じて正しい情報を適切なタイミングで通知すれば人の行動を変えて公益を損なわないようにできる、というナッジ的なアプローチだ。もう1つは、中国が行ったような、デジタル資本主義の巨大監視インフラを活用して人の行動を制限し、従わない人には懲罰措置を与えるというアプローチだ。

 どちらにしても、「選択肢も時間も財源もないから、社会の傷にデジタルのばんそうこうを貼る」という対応であり、これを繰り返していくことで民主主義が危険にさらされていくのではないかというのがモロゾフの主張だ。こうしたエンジニア的でテクノロジー至上主義の考え方は、シリコンバレー発のイデオロギーとでもいうべきもので、技術エリート層に支持者が多く、ネオリベラリズムに代わり今後の政策立案の標準にもなりうる。テクノロジーで個人行動に影響を与える方が、政治問題と格闘しながら危機の原因を取り除くより、はるかに楽だからだ。

 しかしさまざまなデジタルデータや個人データを活用し、課題を先回りして発見し、自動でその解決サービスを届ける、高性能の自動販売機のような政府が望ましい形なのかどうかは疑問だ。つまり民主主義の最大の脅威は、「テクノロジーとプライバシー」の問題ではなく、あらゆる問題にソリューショニズム的なアプローチが使われていくことである、とモロゾフは指摘している。

 たしかに、目の前の課題解決だけを目的にするのではなく、根本的に何を大事にし、どんな社会を実現するのか、より深い、骨太な議論をする必要があるだろう。ソリューショニズムを乗り越える道を描くべきで、そのためには「公」がプラットフォームに対し主権を持つことが重要だ。その点では、国より自治体の方が中長期的で安定したガバナンスを効かせやすく、デジタル化時代の地域力を発揮できる可能性がある。

今後10年がデジタル化の岐路に

 負の側面が大きくなっていく可能性が高いとすると、それをどう乗り越えていけばよいか。理想主義的ではあるが、オープンであることの価値、インターネットでつながり助け合うことの価値などによって負の側面が制御されていく可能性はまだあるだろう。象徴的な存在であるオードリー・タンのような人物が活躍したり、日本でもCode For JAPANの人材が政府の中に入り、オープンなデジタル化のために動いたりしている。こうした動きが日本社会に根づいていけば、ある程度負の側面を制御できると期待したい。もう1つは、ヨーロッパでGDPRが徹底されているように、負の側面を制御するために国家が法律できちんと管理をすることだろう。前者の可能性を信じたいが現実は後者だろう。ただし、「国家に任せればうまくいく」というのも疑わざるを得ないのが現在の民主主義の状況だ。従って透明性の向上など、政府にも緊張感を持たせつつ、またグローバルなテクノロジー企業とも時には手を組み、時には牽制しつつ、社会全体のガバナンスのバランスを取っていくことになるのではないか。

 デジタル庁が発足した2021年は、2001年のIT基本法以来、20年ぶりに政治的に大きな力がIT・デジタルを後押ししている。画期的な時期を迎えている。さまざまな領域でほころびが見えているが、産みの苦しみであると考え、今後10年くらいかけてこの追い風をどれだけ生かせるか、今後の日本社会におけるデジタル化の命運がかかっている。

参考文献

Ito, J. (2004) “Emergent Democracy,” Published Online, http://hdl.handle.net/1721.1/116994.(公文俊平 訳(2003)「創発民主制」『GLOCOM Review』8(3), pp.41-63.)
Noveck, Beth S. (2009) Wiki Government: How Technology Can Make Government Better, Democracy Stronger, and Citizens More Powerful, Brookings Institution Press.
Rheingold, Howard (2002) “Smart Mobs: The Next Social Revolution,” Basic Books.(公文俊平・会津泉 訳(2003)『スマートモブズ』NTT出版.)
Surowiecki, James (2004) “The Wisdom of Crowds: Why the Many Are Smarter Than the Few and How Collective Wisdom Shapes Business, Economies, Societies and Nations,” Doubleday.(小高尚子 訳(2006)『「みんなの意見」は案外正しい』角川書店.)

第4章 ガバメントDXとプラグマティズム

若林恵

黒鳥社コンテンツディレクター

概要

 
 DXの核心は、人々の生活のあらゆる行動に関与しているガバメント領域のDX化にあります。そこで求められるのは「ユーザー中心」のアプローチです。大量にあまねくサービスを届けることが必要だった時代の行政サービスは、基本的には工業社会のモデルに沿ったものでした。しかし人口減少で公共サービスの提供コストが上がり、ニーズの多様化で画一的なサービスでは市民が満足できなくなった現在、「ユーザー中心」の観点から、効率良くサービスを届けるためにもテクノロジー活用が必須になってきています。にも関わらず、日本の様々な慣習やマインドセットは、その導入を難しくしているのです。行政職員の労働環境の悪さ、大企業やエスタブリッシュメント層と霞が関のもたれ合いの関係、アウトカム志向の欠如など、日本が抱えている問題は非常に大きいのではないかと思います。

1.DXの核心としてのガバメント領域

 『NEXT GENERATION GOVERNMENT』(若林(2019))を出版する際に考えていたのは、デジタルイノベーションやDX(デジタルトランスフォーメーション)の核心はガバメントの領域にあるだろうということです。

 デジタルによる社会の変化は、最初はビジネスの領域から始まり、徐々に人の生活がそれに寄りかかっていくようになると、新しい社会の基盤システムになっていきます。そうしたデジタル化の広がりが最も到達しにくいのが金融と医療の領域です。国の厳しい規制によって固く守られているこの2つの領域にデジタル化の波が及んでくれば、問題の中心はその規制をするガバメント側、つまり政府のデジタル化(GDX)をどうするのかということになるからなんです。

社会のデジタル化によって行政も変化を求められる

 デジタル化により、さまざまな領域で自由化や民主化が起きてくると、それまで社会を形づくっていたレガシーシステムと新しいシステムにズレが生まれ、混乱も生じてきます。例えばキャッシュレス化が進行することで起こる変化を考えてみても、窓口が要らなくなり、ATMも要らなくなり、銀行の営業時間は24時間365日いつでも振り込めるようになるなど、ユーザーにとってはいいことばかりですよね。でも銀行側にとっては、これまで作り上げてきたシステムや支店網が必要なくなってしまうことになるわけです。

 同じことが行政府でも起こります。紙の書類が前提になっていた社会、9時から17時まで働く社会、買い物のために移動を求められていた社会。そうした市民の生活のあらゆる行動に行政システムは関与しているので、行政がこの変化にどういう構えで取り組むのかということは、根源的な問題になってきています。行政府も当然対応は考えてきていたんでしょうが、何かがズレていたのか、デジタル化への対応がかなり遅れてしまっている現状があると思うんです。

 現在の官僚機構も行政サービスも、もともとは工業社会のモデルに沿うかたちで作られています。それは一言でいうと「同じものを大量に作る」という原理で、学校給食のように同じものを大量に作るからこそ低コストで、あまねく国民に配ることができたわけです。こうした工業社会の供給者側のモデルでは、一人一人の市民の目線やニーズから考える「ユーザー中心」の行政サービスは難しいように思います。さらに現在、人口減少で公共サービスの提供コストが上がったり、ニーズが多様化したことで画一的なサービスに市民が満足しなくなったり、行政に求められる負荷も大きくなっているんですね。

 行政の中でも地方自治体はユーザーである市民のフロントに立っていますが、市町村から県、そして国と進むにつれ、ユーザーからは遠く離れていきます。とりわけ霞が関はユーザーの声から最も遠くに置かれていますので、業界団体のロビイングを別にすれば、エンドユーザーの声は非常に届きづらい場所になっている可能性があるわけですね。

まずエンパワーされるべきは行政職員

 GDXの調査を進めていく中で気がついたのは、DXにおける「ユーザー中心」といったとき、もちろんサービスの受け手である市民がユーザーではあるのですが、実際にそのシステムを運用する現場の地方公務員も同じようにユーザーであるということです。行政がDXを進めるとき、まずエンパワーされなくてはいけないのは行政職員そのものであって、その上で行政職員自身もユーザーの声に耳を傾けることが可能になるのだと思います。

 霞が関では、優秀な人間がどんどん辞めていってしまうことが大きな課題としてありますが、これは内部に何らかの問題があるということなんだと思います。行政が使っているレガシーシステムは、古くて使い勝手が悪いんですね。その上でDX化という新しい取り組みを行うことも決定しているわけです。人も予算も大きくは増やせない中で、その転換のためにますます大きな負担を抱えこんでいくことになります。なので、まずは霞が関の内部の人たちが働きやすい環境を整えなければGDXも始まらないのではないかと思うんです。

 行政のDX化ということで、いろいろな行政サービスを取りあえずモバイル化して、半ば強引に中の問題をひっくり返して進めていくというやり方ももちろんあります。しかしコロナ対策のアプリや、東京オリンピック・パラリンピックの選手向け健康アプリの発注の問題などを見ていても、それ自体が利権化しすぎていてなかなか厳しいように感じます。

歴史や文化によってDX化も多様

 こうした行政へのデジタルテクノロジーの導入や運用は、背景にある歴史や文化によって違ってきます。

 エストニアは、徴税の全自動化を実現できるほど、行政システムのデジタル化を世界に先駆けて進めている国として知られていますが、そもそもデジタルのシステムに対する信頼が非常に高いんです。その背景には、ソ連時代の官僚主義という苦い経験があるようで、彼らはよく「人はコラプト(腐敗)する」と言います。それは、人が関与する限りシステムはバグだらけのものにしかならない、という意味なんですね。それを知っているからこそ、「コラプト」しないデジタルを信頼しているわけです。

 またイギリスは、システムを弾力的に扱うことが上手なんです。アメリカの人類学者デヴィット・グレーバー(注1)は「イギリスの人々は、自分たちが官僚制に特に向いていないということを大いに誇りに感じている」と指摘していました。2年ほど前にイギリスの音楽業界の取材をしたとき、人と人とのネットワークがきめ細やかに融通無碍に作られていて、それを自由に動かしながらシステムを運用していくことが非常にうまいな、と感心したんですよね。

 アメリカは、大組織を円滑に運用するためのマネジメント手法をモデル化やマニュアル化したり、雇用におけるジョブ・ディスクリプションを細分化したりすることなどからもわかるように、官僚主義的でシステマティックなアプローチが得意ですが、イギリスはそうしたやり方に警戒感を持っているんです。社会をアマチュア的に作っていくアプローチが根底にあるんだということも感じました。

 デンマークやオーストラリアでは、取材で話をした人が州政府というサイズの行政で働いている人だったからということもあるのですが、日本では感じることがなかった、「人」がデジタルをやっているという感触があったんです。

 DXでは台湾のオードリー・タンにインタビューをしましたが、そこで印象的だったのは、台湾は現在でも孫文という人の影響が大きく、その孫文は土地の私有化に反対するような立場だった思想家のヘンリー・ジョージ(注2)から影響を受けていたんだ、と言っていたことです。世界のGDXの最先端で活躍しているオードリー・タンのような人物が、そうした知的伝統を意識しているというのは興味深いことでした。

 ちなみに、一般社団法人行政情報システム研究所では、世界各国でどのようにDXが推進されているのかを調査し、『GDX:行政府における理念と実践』として公開しています(若林(2021))。対象となっている国は、イギリス、デンマーク、オーストラリア、タイの4カ国です。そのほか、オーストラリアのニューサウスウェールズ州政府、北國銀行もヒアリング対象としています。

2.「ユーザー中心」のビジネスとは

業界をシュリンクさせるAmazonの顧客中心主義

 ユーザーを軽視してきたのは行政だけの問題ではなく、民間側の問題でもあるんです。日本の「お客さまは神様だ」という言い方は、一見するとユーザー中心のようですが、実際には上から目線であって消費者側に立っているわけではないんです。「一応」神様だと言っておきましょうという感じですよね。ビジネスでも、供給側と消費者しか想定されていません。間にあるサプライチェーンに連なる企業や小売りなどの存在も、権利を持った主体であるユーザーであるはずですが、ダンピングの対象としてしか考えられていないんです。

 Amazonのジェフ・ベゾスが創業初期の90年代から言っていた、"Customer Obsession"という考えがあります。これはお客さまに対してこだわる、執着する、といった意味で、一見ユーザー中心を掲げているようにも見えます。しかしAmazonの考えは、消費者が安価に便利に購入できるようになれば、メーカー等の供給側の間で競争が起き、クオリティーも上がり、価格も妥当なところに落ち着くだろう、というもので、お客さまにとっていいことは全体にとってもいいことだろうという考えなんです。間にある個々の出版社をエンパワーして業界のエコシステム全体を良くしよう、といった発想は一切ないんですね。ステークホルダーも含めてある種のエコシステムと考える方が健康的で、本当の意味でのユーザー中心というのはそこを目指すことなんじゃないかと思います。

 日本は2層構造になっています。霞が関と新聞・テレビ、メガバンクのようなエスタブリッシュメントの層と、草の根の活動・事業といった2層です。出版の業界でいえば、おそらく日本は小さな出版社の数が先進国の中でもべらぼうに多いんです。その意味では、エスタブリッシュメント層ではない部分、グラスルーツ的でプラグマティックな試みがいたるところで行われているわけです。地方ではさらにそうした活動が多くありますし、これからも進んでいくんじゃないかと思います。逆に都市は巨大エスタブリッシュメントに飲み込まれていくような危惧もあるんですが。

ビジネスにおけるプラグマティズム

 以前メガバンクの人から、「今、創業して初めて、ビジネスをやらなくてはいけなくなっている」と言われたことがありました。日本の大企業は、渋沢栄一が明治時代に作った構図を現代に至るまでそのまま運用し続けてきているところがあります。国が号令をかけて方向性を示し、ビジネスセクターはそれに乗っかるのですが、自分たちでちゃんと責任を負わないというもたれ合いの構造ですよね。ビジネスセクターは本当の意味でのビジネスをしてこなかった結果、企業活動を通して社会に働きかけていく考え方を持てなくなっているように思います。

 宇野重規先生は『民主主義のつくり方』(宇野(2013))という本の中で、プラグマティズムについて、人が社会に対していろいろな働きかけをしていく中で、これはいい、これはよくないと選び取っていくこと、そうやって価値を社会自体が決定していくという考えであると書かれていました。つまり仕事というものは、社会になにかしらの価値を働きかけていくある種の自己表明であるということです。日本にはこの考え方がなく、決まった立て付けの中で与えられたタスクをやるだけになっているんです。そのために、SDGsの理解もアクションもズレてしまうわけです。本来、企業におけるSDGsというのは、自らの事業範囲の中でやれることをやる、という話でしかありません。それ以外にはやりようがないはずなのに、「世界を救う」といった大きな話になってしまうんです。事業をする、ビジネスをするということはある種の実験であると宇野先生も書かれていましたが、社会の中でいろいろな実験が行われることが豊かさであり、それが市場という回路を通って選ばれていくというプラグマティズムの考え方が、日本には存在しないんですね。

3.アウトカムなき日本

ロジックモデルの浸透

 欧米の先進国の公共的な分野では、どんな事業でもインパクトが重要であるというコンセンサスができてきています。その事業を通じて社会や人がどう変わり、どう良くなったのかを評価指標とすることが定着してきているのです。事業の主語は事業者や行政ではない、という理念のもとに社会システムをアップデートしていく、という方向で世界は動き始めているんじゃないかと思います。

 イギリスの行政(や最近は日本でも)などで使われているロジックモデルというフレームがあります。これは、何のためにプロジェクトをやっているのか、事業や組織が起こしたい変化や効果の道筋を定式化する際に使われるものです。起こしたい変化であるアウトカムを実現するために、どんなサービスプログラムが必要で、そのために必要な活動と原資とは何なのか、ひとつながりのロジックとして組み上げるわけです。

 ロジックモデルにおいては、あらゆるプログラムのゴールは「起こしたい変化」にあります。これを「アウトカム」と呼び、その実現に必要な具体的な事業を「アウトプット」としています。

 日本のプロジェクトは、驚くべきことに、アウトカムの検討がほぼないままアウトプットだけが評価の対象になり、目的となってしまっていることが多いんです。何のためにやっているのか、達成したい状況は何か、という想定がないまま動いているプロジェクトがほとんどではないかと思います。プロジェクトに関わる人たちが共有しなくてはいけないのはアウトカムなのに、アウトプットがゴールになってしまうと、サービスの意義がどんどんおろそかになってしまうんですね。

 例えば行政が民間に委託してアプリを作るとします。そのアプリを作ったことでどんな変化がユーザーや社会に起きるか、何のためにそれを行っているのかというアウトカムがないと、作ったというアウトプットだけで評価されてしまいますよね。誰もアプリを使わなくても問題にならないわけです。そういった事例は日本にはたくさんあるんじゃないでしょうか。

 「ユーザー中心」というテーマについても、そうしたアウトカムの共有がなければ、「お客さまは神様」というあいまいな日本的フレームに回収されてしまって、結局今までと変わらないという話にもなりかねないわけです。

地味なDXこそ

 DXを進めていく中央官庁のやり方にも不信感があります。大きなイベントとして打ち出して、世の中の方向性をなんとなく示し、国民の合意「のようなもの」を作るようなやり方が常態化しすぎているように思います。イベントであるために広告代理店ともセットになり、マスメディアを動員して世の中を動かしていけばいいんだ、という考え方がかなり根深く中央官庁に浸透している印象があります。これは官庁に限らず企業もそうで、祝祭資本主義といった言い方で、近年強く批判されています。

 本来なら、丁寧なユーザーリサーチを行い、小さくプロトタイピングしながら地道にサービスを積み上げていきながら、信頼を再構築していくようなやり方でなくては、行政も産業も、価値ある何かを提供し続けていくことは難しいと思います。万博やオリンピックといったメガイベントとマスメディア/広告的手法をもって国民を動員していくようなやり方がすでに相手にされなくなっているのは、東京オリンピックをめぐる騒動を見ても明らかだったわけですが、そうした旧来のマインドセットからどれだけ離れることができるかは、今後ますます重要な課題になってくるかと思います。

 地方が比較的希望を持てるのは、そもそも地味であるという自己認識もあるでしょうし、日々対面している地元の人たちに喜んでもらうことを積み重ねていくような体験が基盤にあるからかもしれません。というのも、DXはそういうところからしか始まらないんじゃないかという気がするからです。

参考文献

宇野重規(2013)『民主主義のつくり方』筑摩書房.
若林恵(2019)『NEXT GENERATION GOVERNMENT―次世代ガバメント 小さくて大きい政府のつくり方』日本経済新聞出版社(2021年に黒鳥社より復刊).
若林恵 編(2021)『GDX 行政府における理念と実践』行政情報システム研究所.

引用を行う際には、以下を参考に出典の明記をお願いいたします。
(出典)宇野重規編(2022)「デジタル化時代の地域力」NIRA総合研究開発機構

脚注
1 デヴィット・グレーバー:アメリカの人類学者で、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの人類学の教授をつとめた。アナキスト・アクティビストでもあった。著書に『官僚制のユートピア─テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』、『ブルシット・ジョブ─クソどうでもいい仕事の理論』など 1 デヴィット・グレーバー:アメリカの人類学者で、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの人類学の教授をつとめた。アナキスト・アクティビストでもあった。著書に『官僚制のユートピア─テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』、『ブルシット・ジョブ─クソどうでもいい仕事の理論』など
2 ヘンリー・ジョージ:アメリカ合衆国の政治家、政治経済学者。私的所有をベースとしつつ、土地は人類の共有財産との考えに基づき、諸税を廃止し地価税への一本化を図る、ジョージズムの提唱者としても知られる。主著は『進歩と貧困』。 2 ヘンリー・ジョージ:アメリカ合衆国の政治家、政治経済学者。私的所有をベースとしつつ、土地は人類の共有財産との考えに基づき、諸税を廃止し地価税への一本化を図る、ジョージズムの提唱者としても知られる。主著は『進歩と貧困』。

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