谷口将紀
NIRA総合研究開発機構理事/東京大学教授

概要

 イギリスのEU離脱やアメリカのトランプ大統領就任を始めとして、先進各国では既成政治に対する否定的な動きが相次いでいる。こうした現象の奥底には、中間層の不安定化と政治本流の喪失といった「二重の政治的疎外」が潜んでいる。第4次産業革命とグローバル化により、中間層は職を奪われる不安や経済的ストレスにさらされている。政治においても、既成政治批判やメイン・ストリームの空洞化が進行している。こうした出来事は、課題先進国とも言える日本にとっても対岸の火事ではない。
 では二重の政治的疎外にどのような処方箋が書けるだろうか。中間層の不安定化に対しては、新しい日本社会の主人公としての中核層を提唱したい。従来の中間層が所得や職業を物差しとしていたのに対し、中核層は、人生や社会に対する意識の高さや政治・社会的機能に基準を置いている。政治本流の喪失に対しては、政党政治を立て直し、政党本位の政治を目指す必要がある。抜本的な2院制改革や、諸外国の投票制度を参考にしながら、国会を「熟議の府」としての性格を強める制度にする策などが検討の俎上(そじょう)に載せられるだろう。中核層と政党政治の立て直しという「日本型・2回路制民主政治」が今の日本には求められている。*

INDEX

世界的に進行する中間層の不安定化

 2016年における先進各国の政治は、ぬるま湯状態と言われる日本の政治経済とは裏腹に、既成政治に対する否定的な動きが相次いだ。イギリスの国民投票では欧州連合(EU)からの離脱派が勝利し、ドイツでは難民受け入れ問題をめぐってメルケル政権への批判が高まり、イタリアでは憲法改正を阻止した国民投票の余勢を駆って、ポピュリスト政党「5つ星運動」が勢いを増し、来るべきフランス大統領選挙では極右・国民戦線がまたも決選投票に残る可能性が指摘される。そしてアメリカでは、『ニューヨーク・タイムズ』をして史上最悪の候補と言わしめたドナルド・トランプが事前の予想を覆して大統領選挙に勝利した。

 これらを偶然の一致として各国固有の要因だけで説明したり、あるいは既成政治の限界というように表面のみを掬(すく)って済ませるのはたやすい。しかし筆者には、こうした現象の奥底には共通要因が潜んでいて、それは日本にとっても無縁ではないように思えてならない。

 この共通要因とは、「中間層の不安定化」(insecuremiddle)である。ヒト・モノ・カネ・情報のグローバル化、そして第4次産業革命によって、これまで先進各国における豊かな産業社会の主役であり続けてきた中間層が動揺し、彼らの焦燥感がイギリスのEU離脱やトランプ旋風などの形をなしたという側面はないだろうか。

 中間層の政治的疎外とも言い換えられる。疎外とは、政治・経済・社会が自分でコントロールできないものになってしまい、逆にそれらによって自らが翻弄されているという感覚のことを言う。政治的疎外の高まりは、第2次大戦後に到来した豊かな産業社会の「影」の指摘など、これまでも繰り返し論じられてきた。しかし、現在各国で生じているのは、従来豊かさを享受してきたはずの人びとが、もはや社会のマスターたりえなくなってしまったという不安や不満、そしてこのような事態に有効策を講じえない政治に対する不信という、新しい形態の疎外である。そして政治的疎外感の受け皿となっているのが、既成政治を既得権益の権化と断罪し、そこから見捨てられた人びとの守り手を自任するポピュリズムである(水島治郎『ポピュリズムとは何か』)。
 

先進国に暮らす普通の人々がしっかりと足場を固めることができないまま、募る経済的ストレスにさらされている(中略)グローバル化と技術革新が多くの人々から競争力を奪ってしまったことが原因だ。我々がやってきた仕事を、今や海外の低賃金労働者やコンピュータ制御の機械が、もっと安価にこなしてしまうからなのだ。


 というのが、ロバート・ライシュの見立てである(Robert B. Reich, Saving Capitalism、邦題『最後の資本主義』)。

 もちろんグローバル化に対抗する動きは、昨年に始まったことではないが、イギリスのEU離脱決定、そしてTPP合意破棄や地球温暖化に関するパリ協定離脱を声高に主張するトランプの当選と、グローバル化に対する憎悪が立て続けに噴出した感がある。

 加えて進行するのが、IoTやAI 等によって特徴付けられる第4次産業革命である。技術革新は新しい仕事を生み出すものの、一方で少なからぬ既存の仕事を不要にする。カール・ベネディクト・フライとマイケル・A・オズボーンによれば、今後10〜20年で全米の雇用の47%が消滅する可能性がある。失われる職の相当部分は新しい雇用によって代替されるにしても、西村淸彦氏によれば、従来の中熟練労働者は、技術革新によって生産性を高めた低熟練の労働市場に呑み込まれ、従来中産階級を形成してきた中所得層の多くが「負け組」化する(西村淸彦『日本経済―見えざる構造転換』)。かつて単純労働者が機械に取って代わられた以上に多くの人びとが、転職や失業を余儀なくされ、コミュニティーの激変というストレスにさらされる。これに対するフラストレーションや将来に対する憂いが、最も簡便な政治参加の方式である選挙や国民投票の際に一気に沸き起こるのである。

絶えざる既成政治批判とメイン・ストリームの空洞化

 今回のアメリカ大統領選挙では「学歴の高くない白人男性の怒り」(angry white males with no college degree)がトランプを大統領に押し上げたとされる。大統領選の出口調査によると、同じ白人男性でも、大卒以上の有権者ではトランプとクリントンは互角であったのに対して、大卒未満は7対3の割合でトランプに票を投じた。低所得者層がこぞってトランプに票を投じたわけではない。業種では製造業や石炭業、地域ではミシガン、オハイオ、ペンシルバニアなどの諸州の、そして所得階層では最低ラインよりも少し上の人びとが、怒れる白人男性の典型的プロファイルとされる。

 一方イギリスでは、職業によって人びとの階級意識にはっきりとした違いが存在する、というのが従来の通説であった。英政府の統計でも、長らく職業に応じた階層区分が用いられてきた。ところが、近年同国の独立系シンクタンクが実施した調査によると、従来ならば中産階級とみなされてきたはずの上位区分に当たる人びとの実に46%が、自らを「労働者階級」と考えていることが明らかになった(British Future, State of the Nation)。このデータに象徴される中流意識の崩壊が反移民感情と相まって、イギリスをEU離脱に至らせた一因と言われる。

 さらに深刻なのは、一般の人びとにとどまらず、肝心の政治家の間にも疎外感が広がりつつある点である。本流(メイン・ストリーム)の喪失とも換言されよう。1970年代までの戦後コンセンサス、80年代の新自由主義、あるいは90年代の第3の道のような政治の「本流」が、ことごとく技術革新やグローバル化に伴う社会変動を前に正当性を疑われ、絶えざる既成政治批判とメイン・ストリームの空洞化が目下進行している。

 ならば既成政治の打破を掲げるトランプ米大統領は、閉塞状況の救世主となりうるだろうか。彼は米国第1主義を掲げ、衰退する石炭業に対してはオバマ政権下で強化された環境規制を緩和し、そして不振をかこつ製造業に対してはNAFTA(北米自由貿易協定)の見直しによって窮状を救うと主張している。しかし、フランシス・フクヤマによれば、アメリカ国内で拡大する不平等の原因は、グローバル化もさりながら、それ以上に技術革新によるところが大きい。2008年以降に米国内の製造業は拡大し続けており、それが雇用増に繋がらないのはオートメーション化のためである。石炭業の衰退も、オバマ政権による環境保護政策よりも、水圧破砕法の普及に伴うシェール・ガス革命に原因を求めるべきである。これからも技術革新は不可避的に進むであろうから、トランプが掲げた公約が実行されたとしても、問題を根本的に解決するものにはならないというのが、フクヤマの所見である(Francis Fukuyama,“ Trump and American Political Decay,” Foreign Affairs)。

 第3次産業を中心とする社会では、健全財政、雇用の最大化、社会的平等の3つを同時に実現することは不可能(サービス産業社会のトリレンマ)とされる(Torben Iversen and Anne Wren “ Equality, Employment, and Budgetary Restraint,” World Politics)。この中で最も「票にならない」健全財政に軸足を置きながら、後2者と折り合いを付けようと奮闘してきたのが、従来のイギリスやドイツである。イギリスのキャメロン(前)内閣は、2010年に政権を獲得した後、社会保障予算も聖域としない大規模な緊縮財政を断行し、当初は次期総選挙での下野は確実と言われるほどに人気を落としながらも、議会任期の5年間で経済の立て直しに成功して、この業績を以て2015年総選挙で勝利を収めた。しかし、そのキャメロン政権も、EU離脱をめぐる国民投票の結果、あっけなく崩れ去った。後継のメイ政権は、EU離脱票が多数を占めた原因を経済格差の拡大に求め、財政黒字の達成時期を先送りするなど財政ルールを大幅に緩和している。また、EUにおける健全財政の代名詞とも言うべきドイツのメルケル政権は、反移民感情という逆風を受け、新興勢力「ドイツのための選択肢」の擡頭(たいとう)を許している。イタリアの民主党・レンツィ(前)政権も、経済改革を機動的に進めるための議会改革をめぐって、ポピュリズム政党の「5つ星運動」などによる激しい既成政治批判にさらされ、遂には政権を失うことになった。

日本における「二重の政治的疎外」

 中長期的な視点に立つとき、こうした出来事は日本にとっても対岸の火事ではない。むしろ、差し当たり顕在化していないだけで、病根はより深い。グローバル化や第4次産業革命という各国共通の要因に加えて、わが国は少子高齢化・人口減少や社会保障費増大に伴う巨額の財政赤字など、課題先進国とも言える状況にあるからである。

 たしかに日本では、原油安や円安による企業業績の改善、さらには労働力人口の減少に伴って失業率は低下している。しかし、同じ雇用を例に取っても、不安定な非正規雇用の増加、正規雇用になっても長時間労働と、すでに課題は表面化している。中長期的に見れば、AIの普及による余剰人員の発生も問題となるだろう。

 グローバル化や第4次産業革命は押し止められないし、むしろファーストムーバー・アドバンテージを目指して推進しなければならない。ただ、これらを進めるときにグローバル化や技術革新から取り残される人びとへの不満や不安を取り除くことは不可欠の条件である。しかし、同条件を満たす上で、現在日本が直面している少子高齢化はより多くのリソースを要する一方、巨額の債務残高を抱える日本の財政に十分なリソース供給を期待することはできない。

 有り体に言えば、経済成長という青い鳥が舞い降りるかどうかによって程度の差こそあれ、それほど遠くない将来に、日本国民は給付減・負担増という苦い薬を飲まなければならないのである。

 こうした痛みは、中間層が「広く薄く」分かち合うというのが、本来の筋道である。しかし、日本社会の余裕は、いまや水面下で確実に失われつつある。

 内閣府の「国民生活に関する世論調査」によると、自らを「中」と位置付ける人びとの割合や生活満足度に変化は見られない。しかし、より詳しく眺めてみると、日常生活で悩みや不安を感じる人の割合や今後の生活の見通しなど先行き不安が高まりつつあるのに加えて、国の政策への民意の反映に関する評価も低下傾向(内閣府「社会意識に関する世論調査」)にある。内閣支持率には表れないところで、人びとの疎外感は蓄積しているのである。

 予て村上泰亮氏が「新中間大衆」と名付けたように、もともと日本では中間階級の輪郭が積極的に定義されてこなかったために、上流でも下流でもないという消去法によって中流意識9割という社会が形作られてきた(村上泰亮『新中間大衆の時代』)。その分だけ中流意識は底堅いと言えるかもしれないが、自らを積極的に日本社会の主役と位置付ける本流意識、主体性に欠けることも意味している。

 政治においては、自らの社会・経済的帰属、基本的選好を見定められない不安感は、長引く経済不振に起因する閉塞感と相まって、人びとをして、ある時は小泉構造改革、またある時は民主党政権、そしてアベノミクス、あるいは橋下維新が追求する急進的統治機構改革、さらには小池都政をと「何らかの変化」―必ずしも政策的連続性を持たない―を求める投票行動に駆り立ててきた(拙稿「2009年政権交代」『2010年版ブリタニカ国際年鑑』)。

 そして、政治家側では「何らかの変化」、とくに「変化」の前半部分として位置付けられる既成レジームの「破壊」を主張するものの、第4次産業革命やグローバル化に対して、どのような社会を目指すのか、そしてそこに到達する道筋はどのようなものになるのか、代案となる中長期的なビジョンを真正面から提示する意識は往々にして希薄である。

 三谷太一郎氏は、人びとのみならず政治家、とくに政権担当者までが主体性を欠いている日本政治の現状を「二重の政治的疎外感」と名付けた。曰(いわ)く「安倍晋三首相に代表される現政権には、戦後の日本というのは真の日本ではない、つまり戦後日本、そしてその痕跡が残っている今の日本というものは真の日本が疎外された形態であるという、そういう意味での政治的疎外感があると思うのです。ですから、安倍首相は、真の日本(中略)を取り戻す必要があるということをよくいう訳です」(三谷太一郎『戦後民主主義をどう生きるか』)。

 この指摘は、安倍首相に限らず、政権構想を失って久しい野党にも当てはまる。与野党を問わず、自らが日本における民主政治を体現する存在となって、グローバル化や第4次産業革命、さらには少子高齢化・人口減少や財政危機というチャレンジを乗り切ろう、既成政治批判を真正面から受けて立とうという意識に欠けている。仮に政治家個人がまっとうな課題認識を持っていても、それを継続的な政治勢力のアジェンダとして受け継ぐ態勢が整っていない。例えば、保守本流(論理上は「本流」という語が保守陣営に独占される必然性はないけれども)という言葉は、現在の自民党では絶滅危惧種であり、民進党に至っては冴えない党内権力争いの旗印でしかない。

 人びとと政治家の二重の政治的疎外、即ち第4次産業革命やグローバル化を受けて中間層に広がる動揺と、これに対して主体的・効果的取り組みを欠く政治は、諸外国に限られた現象ではない。彼我の差は、難民問題や国民投票あるいはトランプという発火点の有無に過ぎないのである。

「中核層」の育成 ―公共を人びとの手に取り戻す

 二重の政治的疎外にどのような処方箋を書けるだろうか。

 まず、経済的属性に基づいて分類される中間層の不安定化は、当面不可逆である点を覚悟しなくてはなるまい。他方、先進各国、とくに日本には、豊かな産業社会下で形成された社会的な成熟という財産がある。そこで、従来のような所得を物差しとした中間層に代わって、人生や社会に対する意識の高さ、あるいは政治・社会的機能に注目した、新しい日本社会の主人公を措定できないだろうか。

 この主役として、筆者らは「中核層」に注目することを提唱してきた(宇野重規他「中核層の時代に向けて」NIRAオピニオンペーパーNo.12)。中核層とは、自らの生き方を主体的に選択した上で、社会の在り方を考えようとする人びと、さらには積極的に社会を支えようとする自負と責任を持つ人びとを指す。

 中間層や中間階級とは異なり、中核層は所得の多寡や職業を問わない。たしかに人生を主体的に選択するという要件を付している点で、一定の経済的基盤を備えていた方が相対的には中核層になりやすい面もあろう。しかし、NIRA総研の調査によれば、低所得者や自らを「下」流と位置付けた人びとの間にも、主体的な人生を送ろうとし、かつ社会形成に参画したいという気概を持つ中核層が相当規模存在する。社会・経済的帰属は、中核層であるための必要条件ではない(NIRA総研「中核層・信頼社会のアンケート調査に関する研究」)。

 また、中核層論は所謂「滅私奉公」の価値観を称揚するものでもない。市民と自治体が協働して地域課題の解決を目指すオープン・ガバナンスという言葉が象徴しているように、あるいはパブリック・オピニオン(世論)とは「みんなの意見」であって「政府見解」ではないように、公共(パブリック)とは「皆に関わること」であって、政府、まして「お上」に独占されるものではない。中核層とは、個人なり、家庭人なり、職業人なり「私」としての人生を充実させた上で、そこで培った経験や知恵―実践知―を社会に還元しようと考える人びとである。

 さらに言えば、中核層は少数のエリートではない。上記の調査結果では、「人生で難しい問題に直面しても自分なりに積極的に解決するかどうか」「社会をより良くするため社会における問題に関与したいかどうか」という2つの質問にイエスと回答した中核層は、全回答者の2割に上る。どちらか片方の質問に「どちらとも言えない」と態度を保留した準中核層まで含めると、実に5割近くの人びとが広義の中核層(または潜在的中核層)と言える。

 中核層にはさまざまなタイプがある。我々が中核層の具体的イメージとして挙げているのは、

① さまざまな仕事や生活の現場から得られた知識や体験を基に、皆に関わる事柄をより良く、より便利なものに工夫していく「イノベーター」
② それぞれのイノベーションやノード(後述)を結び付け、より大きな範囲で有機的な連携を作り出していく「ネットワーカー」
③ さまざまな局面で個人のケアを担う社会の結節点、ネットワークの結び目となる「コミュニティー・ノード」

という3種類である。

 子育てを例に挙げよう。役所との交渉経験や木工技術を活かして空き地にアスレチック・フィールドを作り、都会に暮らす子供に自然の中で遊ぶ機会を創造する「イノベーター」、同じ小学校に通う子供を持つ親たちを集めて、地域や学校に関する情報交換を密にしようとメーリングリストを立ち上げた「ネットワーカー」、近所に孤立している子供がいないか声を掛けて回る通称世話焼きおじさん/おばさん、またの名を「コミュニティー・ノード」―地域や学校、勤め先で周囲を見回せば、あるいは高齢者や街づくりなど他分野の事例を探れば、必ずいずれかのイメージに当てはまりそうな人がいるはずだ。

 各タイプは相互排他的ではない。子育ての例を続けると、下校後に親が仕事から帰宅するまでの間を1人で過ごす子供に、携帯メールで異常がないかを確認し、ひとたび問題が起こればあらかじめ登録した近所のボランティアが駆け付けるサービスを立ち上げるなどというケースは、1人3役の中核層と言える。上記NIRA総研によるアンケート調査では、中核層該当者の4割近くが、2つ以上のイメージを兼ね備えている。

 国や地方自治体が提供できるリソースが少なくなるからと言って、遠い過去のような伝統的共同体に機能代替を求めるのは現実的ではない。ひとつの組織で個人を割り切れない部分が多くなってきた点を逆手に取って、中核層に企業や団体を超える活躍の場を与え、公共を人びとの手に取り戻す、即ち疎外を克服する。政府が中核層を作為するのではなく、すでに中核層は「野(や)の遺賢」として社会に遍在している。

既成政治批判からどう脱却するか

 克服すべきもうひとつの疎外は、政治家のそれである。今日最も恐れるべきは、左右対立軸上での反対党によって政権が掌握されることではなく、実現可能性のある代案のないままに既成政治批判を繰り広げる政治勢力によって民主政治の統治能力が破壊される事態である。

 グローバル化や第4次産業革命をためらう余裕はなく、さらに財政危機や人口減少といったチャレンジを受けて、日本が今後取りうる政策オプションは限定されている。望むと望まざるとにかかわらず、人材や資本を呼び込み、生産性を向上させるために、法人実効税率の引き下げと労働市場の柔軟化は避けられない。一方で、ひとつの企業に解雇されても各労働者の自己責任ではなく、相当程度の所得を保証された中で実践的な職業訓練を受け、労働力需要の高い産業・職種に再就職できる「生活保障」戦略、そして企業の視点からは労働力の確保と生産性の向上、労働者の視点からはライフステージに合わせた多様な働き方を可能にするため、労働時間規制の厳格化を軸としたワーク・ライフ・バランス戦略が組み合わされなければならない。

 このような中長期的な課題認識や政策パッケージの大きな方向性を各党が共有する中で、例えば経営側に軸足を置くか、それとも労働側に高い優先順位を付すかといった政党間競争がなされるようにすべきである。それぞれの政党が立脚する社会的基盤や価値観の違いを残しながらも、基本的な国家戦略に関しては分極化を避けようという意識を各政党に頒(わか)つ装置が必要である。

 具体的な制度設計の要諦(ようてい)は、以下の2点である。

 第1に、1990年代の政治改革以前のような、各政治家が個別利益の誘導を競う候補者本位の政治には戻さず、あくまで政党本位の政治を目指すべきである。党大会など党内の立案過程で侃々諤々(かんかんがくがく)議論することは大いに結構だが、最終的には政党が責任を負い、各議員は地域における党の代表として有権者に説明責任を果たす態勢が徹底されなければならない。

 第2に、これまで以上に「熟議」と「決定」の両方に配慮した仕組みが求められる。負担を伴う政策が避けられない政治においては、さまざまな意見に耳を傾ける熟議のプロセスが重要である。最終的に自分の意見が採用されなかった場合でも、その意見が十分に考慮されるプロセスを経ていれば、疎外を抑制できる。熟議を経た上で、かつ小田原評定に陥ることなく「結果を出す政治」を進めなくてはならない。

 関連して、近年多くの論者によって主張されるのが、議会任期の固定化、即ち短期的な支持率の浮沈を気にしないで長期的課題にじっくり取り組むことができるように、解散権を制限するというアイデアである。ただし、日本においては、たとえ衆議院の任期を4年に固定しても、3年ごとに参院選が行われる。内閣総理大臣の指名や条約の批准、予算の議決等を除く議案は(衆議院が3分の2以上の賛成で再議決しない限り)衆参両院で可決されない限り成立しない。それでは、数年に1度やってくる次期国政選挙に向けて「常在戦場」という政治の本質は変わらない。政治改革の積み残しである2院制の問題に踏み込まないままでは、次の選挙を気にしてばかりの政治から抜け出せない。

 もし白地に自由に絵を描けるなら、衆議院の過半数の賛成で参議院の議決をオーバーライドできるように衆議院の優越を強めた上で、衆議院の選挙制度は比例代表制を中心にして、決定と熟議を兼ね備えた議会制度にする。その際、衆議院の優越を強化するだけでは決め「過ぎる」政治という批判を招くし、逆に比例代表色を強めるだけでは拒否権プレイヤーを増やすのみに終わる。両者はあくまでセットであり、ばら売りは不可である。比例代表制では無所属候補など「人」を選べないというなら、ドイツのような小選挙区併用型比例代表制、小党分立を恐れるならばプレミアム議席(イタリア下院では相対第1党に過半数の議席が与えられる)や阻止条項(ドイツ連邦議会では得票率5%未満の政党には原則として議席が与えられない)などのオプションがある。参議院に自らの権限を弱める改革を行えるはずがないという意見も耳にするが、イタリアでは国民投票で否決されたものの、上院の権限を大幅に縮小する憲法改正案を上院自らが可決しており、あながち絵空事とは言いきれまい。

 抜本的な2院制改革ができないならば、現行制度をベースにしながら、例えば衆議院はフランス型の小選挙区2回投票制(選挙区内のどの候補者も一定の得票に達しなかった場合、上位の候補者間で2回目の投票を行う)やオーストラリアの優先順位付小選挙区制(選挙区内の候補者に対して有権者は優先順位を付けて投票)など、なるべく多くの有権者の賛意を得た候補者が当選できるようにしつつ多数派を形成しやすくし、他方で参議院は比例代表制1本として、「熟議の府」としての性格を強める制度にする、といった策も検討の俎上(そじょう)に載せられよう。

 いかなる選挙制度にも長所と短所があり、以上はあくまで例示に過ぎない。強調したいのは、根本にあるコンセプト―既成政治/政党対「堅気」の人びとという構図にならないように、(個別の政党ではなく)政党システムとして責任を持って結果を出せる政治の在り方を模索すべきということである。近くにも社会保障・税一体改革に関する与野党3党合意の例があり、これを制度的に支えようという本稿の主張は机上の空論ではないはずだ。

 社会参画の実践を通じて公共のテーマに関するさまざまな考え方を理解する中核層を社会に根付かせつつ、政党の意見集約機能や政治的社会化機能を再構築して民主政治を強靭化する。ハーバーマスは市民による討議(第2の回路)を以て議会での政治決定(第1の回路)を補強することを説いたが(ユルゲン・ハーバーマス『事実性と妥当性』)、本稿が提唱した中核層と政党政治の立て直しは、言うなれば「日本型・2回路制民主政治」の構想なのである。

谷口将紀(たにぐち まさき)

NIRA総研理事。東京大学大学院法学政治学研究科教授。博士(法学)(東京大学)。専門は政治学、現代日本政治論。

本報告書の引用を行う際には、以下を参考に出典の明記をお願いいたします。
(出典)谷口将紀(2017)「二重の政治的疎外をいかに乗り越えるか-中間層の不安定化、本流の喪失」NIRAオピニオンペーパーNo.32

脚注
* 本稿の執筆にあたり、各国の政治事情に関して飯田連太郎、今井貴子、水島治郎の各氏からご教示をいただいたことに御礼申し上げる。ただし、本稿に瑕疵(かし)がある場合は、筆者に帰せられる。

本稿は、月刊誌『中央公論』(中央公論新社)2017年5月号に掲載された拙稿をもとに加筆・修正等を加えたものである。


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