宮尾龍蔵
東京大学大学院経済学研究科教授

概要

 物価上昇圧力が思うように高まらない中、柔軟な財政政策運営を活用する提案が注目を集めている。中でもプリンストン大学クリストファー・シムズ教授による提案は一般紙でも取り上げられている。具体的には、2%のインフレ目標の達成まで、政府は財政収支均衡にとらわれずに柔軟な政策運営を行うことで、消費支出を増やし物価の上昇を目指すというものである。その提案の背景には、「物価水準の財政理論(Fiscal Theory of the Price Level, FTPL)」と呼ばれる理論がある。
 シムズ提案とその背後にあるFTPL理論はどのようなロジックに立脚し、私たちはそこから何を学ぶべきか。その理論の基本的な特徴は、政府と中央銀行による「政策行動パターン(=政策レジーム)の組み合わせ」から、マクロ経済政策を分析するという点にある。政府の行動は、財政収支が均衡するように政策運営を行うかどうか、そして中央銀行の行動は、政府とは独立して物価目標を目指すかどうか、という観点から分類される。それぞれの組み合わせにより、物価の決定メカニズムが異なる。
 現代の先進国において通常想定されるのは、財政規律を守る政府と、政府とは独立して物価目標の達成を目指す中央銀行の組み合わせである。シムズ提案は、一時的・部分的とはいえ、均衡財政に必ずしもこだわらない柔軟な財政政策運営を提唱する。過去の事例を見ればFTPLのロジックが妥当するようなケースも存在し、シムズ提案やそれに類する取り組みには大きな効果も期待される。一方で、政策提案を具体的に検討することで意図せざる法制度の改正などにつながり、財政ドミナンス・財政インフレに陥るといったテイルリスクも排除できない。シムズ提案がもたらす機会とリスクの両面を冷静に分析する必要がある。

INDEX

 デフレ脱却のためのマクロ政策運営の選択肢として、財政政策を活用する提案、なかでもプリンストン大学クリストファー・シムズ教授による提案が注目を集めている。具体的には、2%のインフレ目標が達成されるまでの間は、財政収支均衡にとらわれずに柔軟な政策運営(財政拡大や増税の先送りなど)を行うことで、デフレからの脱却を目指すという提案である。本稿では、そのベースとなる理論である「物価水準の財政理論(Fiscal Theory of the Price Level, FTPL)」の基本メカニズムを解説するとともに、FTPLのロジックが妥当した過去の事例、シムズ提案の課題などについて考察し、シムズ提案から何を学ぶべきか検討する。

シムズ提案の背景:わが国のデフレ脱却に向けた歩み

 これまで日本経済は、企業収益が持続的に高まるなどファンダメンタルズ(基礎的条件)は着実に改善してきた(図1)。そのもとで2013年からは、一段と強力な金融緩和政策(量的・質的金融緩和)と柔軟な財政政策運営(財政支出の拡大)による景気刺激が加わり、景気と物価は明確な改善傾向を示した。GDPギャップは改善し、基調的な物価上昇率は1%近くまで高まり、2013−14年にかけて、デフレ状況からは事実上脱することができたといえる(図2、図3)。

図1 企業収益

(注)売上高・経常利益率、季節調整済み。
(出所)財務省「法人企業統計」を基に作成

図2 GDPギャップ

(注)日本銀行による推計値。
(出所)日本銀行「需給ギャップと潜在成長率」を基に作成

図3 基調的なインフレ率

(注)消費者物価指数(食料およびエネルギー除く総合)、前年比伸び率、消費税調整済み。
(出所)総務省統計局「消費者物価指数」を基に作成

 2014年度に入ると、消費税増税などを契機として回復の勢いは弱まり始め、とりわけの消費の伸び悩みが景気回復の重石となった(図4)。2015年後半あたりからは海外景気の減速懸念と米国FRBの利上げの影響も広がったが、その間も消費の伸び悩み傾向は続いている。なぜ消費が伸び悩んでいるのか。その要因としては、増税による実質所得減少、駆け込み需要の反動減、各種の耐久財消費喚起策による需要の先食い、賃金の伸び悩み、年金所得の減少(後述する特例措置の廃止など)などが複合して影響していると考えられる。それはまた、後ほど議論するように、FTPLのロジックを用いて解釈することもできる。

 前述したように、企業収益の好調さは続いており国全体の所得は着実に高まっている(前掲図1)。足元海外経済は持ち直し、輸出・生産も上向いてきた。しかし、そうした企業部門の持続的な改善傾向が家計部門へ十分波及するには至っておらず、依然として民間消費に力強さはうかがわれない。消費の伸び悩みが継続するもとで、基調的なインフレ率は弱まり、企業の中には低価格戦略に戻る動きも見られ始めた。

図4 民間消費

(注)実質民間消費支出、季節調整済み。
(出所)内閣府「国民経済計算」を基に作成

柔軟な財政政策運営を活用するシムズ提案

 消費と物価の改善に勢いを欠く中で、柔軟な財政政策運営を活用するデフレ脱却案が注目を集めている。その代表的な提案がプリンストン大学シムズ教授によるもので、昨年夏に米国での研究会議の報告をきっかけに日本でも広く知られるところとなった(注1)。具体的には、2%のインフレ目標が達成されるまでの間は、財政収支均衡にとらわれずに柔軟な政策運営(増税の先送りなどの財政刺激)を行うことで、消費の拡大と物価の上昇を目指すというものである。

 そのベースとなる理論的な考え方は、「物価水準の財政理論(Fiscal Theory of the Price Level, FTPL)」と呼ばれる。まずその基本メカニズムを確認しておきたい。

 FTPL理論の基本的な特徴は、政府と中央銀行による「政策行動パターン(=政策レジーム)の組み合わせ」から、マクロ経済政策を分析する点である。政府の行動としては、財政収支が均衡するように政策運営を行うかどうか(高い財政規律を有するかどうか)、そして中央銀行の行動としては、政府とは独立して物価目標を目指すかどうか(政府に追随せずに自主的に政策運営を行うかどうか)といった観点から分類される。そして、それぞれのレジームの組み合わせにより、物価の決定メカニズムが異なってくる。

 表1には、政府と中央銀行の政策行動パターンの組み合わせを表している(全部で4つの組み合わせ)(注2)。現代の先進国で通常想定されるのは、「財政規律を守る政府」と、「政府とは独立に行動する中央銀行」の組み合わせである。その場合には、教科書通り、物価は長期的に金融政策によって決定される(表1左上、Aのケース)。

 次に、「財政規律を欠く政府」の場合を考えよう。そこで、中央銀行が政府に追随する政策運営を行う場合、いわゆる財政従属(財政ドミナンス)のケースを考える(表1右下、B のケース)。政府は財政赤字を気にせず自由に財政政策を決定し、中央銀行は政府の財政収支動向に従属しており財政赤字を常にファイナンスする。このレジームの組み合わせで実施される政策としては、国債の直接引き受けや真性のヘリコプターマネー政策が典型例であり、その結果として財政インフレが発生する(そして将来にわたる政府・中央銀行の予算制約式は満たされる)。物価は、財政に従属して供給される貨幣量によって決定されるので、(A)と同じく、金融政策が物価を決定すると分類される。

 最後に、同じく「財政規律を欠く政府」の場合で、中央銀行は財政収支動向とは独立して政策運営をする場合を考える(表1左下、Cのケース)。このとき、以下のようなロジックから、物価は財政政策によって決定されることになる。いま政府が財政収支状況を気にせずに恒久減税を行ったとしよう。恒久減税であることを人々が認識すれば、将来の増税を伴わないので、減税の分だけ家計の恒常所得は上昇することになる(「資産効果」)。財政規律を守らない政府に対する信認は低下し、人々は国債や貨幣といった政府発行の負債を持ちたがらない。その結果、家計は財への支出にお金を回し、消費支出が増えて物価が上昇する。一方、物価安定・インフレ目標を自主的に目指す「政府に追随しない」中央銀行は、物価上昇を抑えようと金融を引き締めるので、国債金利は上昇し、利払い費は上昇、財政赤字はさらに拡大する。国債や貨幣への信認は低下し、さらに財への支出は高まり物価は上昇する(その結果、将来にわたる政府・中央銀行の予算制約式は満たされる)。これが財政政策が物価を決定するというFTPLのケースである(なお論者によってはBの財政従属のケースもFTPLと捉える場合もある)。

 以上の解説を踏まえて、あらためてシムズ提案とは何かを考えよう。シムズ提案は、表1でいえば、政府・中央銀行の政策行動の組み合わせが、通常ケース(A)からFTPLケース(C)へ移行する、より正確にいえば部分的・一時的に近づくことを意味する。現状の日本は、基本的にAの通常ケースと考えられる。政府は財政健全化を国際公約としても掲げ、2014年には消費税増税や年金支給の抑制策なども実施した。他方、日本銀行は、インフレ目標の早期実現を目指して積極的な政策運営を行っている。(政府・中央銀行の債務である)国債や通貨に対する信認も維持されている。つまり実際に「財政規律を守る政府」と「政府から独立して物価目標を目指す中央銀行」の組み合わせと見られる。それをシムズ教授は、2%インフレ目標が達成されるまでは政府は財政再建の手を緩めて、増税凍結など柔軟な財政政策運営を行ってはどうかと提案する。

 シムズ提案によって政策レジームの組み合わせが(A)から(C)に近づくことで、具体的にはどのようなメカニズムが働くのだろうか。将来にわたり政府の財政赤字は増えるものの、先送りされた増税分は将来の増税ではファイナンスされないと理解される。その結果、家計の生涯所得の予想値(恒常所得)は増加して、消費支出が増え、物価は上昇する。将来にわたる財政赤字の増分は、政府・中央銀行の将来にわたる予算制約式を悪化させるが、物価上昇によって実質的な債務は減少するので予算制約式は満たされる。2%のインフレ目標が達成されれば、再び通常ケース(A)に戻り、政府は財政再建の取り組みに戻ると想定される。

表1 政府と中央銀行の政策行動パターンの組み合わせ

財政政策レジームの変化が大きな影響をもたらした事例

 では、これまでにFTPLのロジックが妥当して、財政政策レジームの変化が大きな効果や影響をもたらしたと見られるようなケースはあったのだろうか。ここでは以下の4つの事例を取り上げよう。①1930年代の米国、②1980年代前半のブラジル、③2013年の日本、そして④2014−15年の日本である。

①1930年代の米国大恐慌期

 1930年代の米国大恐慌期、ルーズベルト大統領が就任してニューディール政策が実施され、均衡財政から積極財政へと転換した。当時の議会は、財政赤字を持続する方針を決議し、その結果、足元だけでなく将来も財政赤字が拡大するとの見方が広がったとされる。それにより人々は国債を手放し、財にお金を回すことで物価は上昇し、デフレを克服した。

 ただし注意しなければならないのは、ルーズベルト大統領は同時期に、金本位制からの離脱と金融緩和という政策をパッケージとして打ち出している。金本位制からの離脱によってドルは大幅に下落し、さらに金融緩和を実施して、物価上昇を積極的に目指すレジームに移行した。財政拡大のみならず金融・為替政策の面でも積極的な政策運営に転じた時期だったのである。表1でいえば、それまでの均衡財政を遵守する政府とデフレ克服を積極的に目指さない中央銀行の組み合わせ(表1右上の「物価不決定」のレジーム)から、均衡財政にこだわらず金融政策は積極的に物価上昇を目指す組み合わせ(表1左下のFTPLレジーム)へ移行したと解釈できる。そして実際にデフレ克服した後、政府・議会は再び均衡財政を目指す政策運営に戻った。

②1980年代前半のブラジル

 1980年代前半のブラジル経済は、FTPLのメカニズムが働いた結果、インフレが高まった時期として知られている。当時、予算審議の混乱など政府財政は機能しておらず、将来の財政収支改善の見通しも立たないもとで政府債務は拡大を続けていた。一方で中央銀行は、政府とは独立に物価上昇の抑制を目指し、金融引き締め(利上げ)を行った。表1(C)のFTPLレジームにあたる。中央銀行の利上げによって政府の利払い負担は増加し、財政赤字はさらに拡大した。人々は政府部門の負債である国債や通貨を手放して財への支出へと向かうことになり、その結果、物価上昇率は高まった(その間の経済パフォーマンスを見ると、1981−83年は平均してマイナス2%台、その後3年間はプラス5~7%台の実質成長率であった)。そのレジームは1986年まで続くことになる。

③2013年の日本

 2013年の日本経済は、新政権の政策パッケージにより、金融と財政の両面からデフレ脱却を強力に目指した。これは単に「金融緩和と財政拡張」という従来のポリシーミックスにとどまらず、以下に述べるように、政府・日銀の政策行動パターンの変更(レジームシフト)という意味合いも含むものと解釈できる。

 まず金融政策面を見ると、日本銀行は同年1月、2%インフレ目標を政府との共同声明という形で明示的に導入した。より高いインフレ目標を掲げて、一段と積極的な政策運営を行うことが表明されたのである。実際、4月には量的・質的金融緩和策が実施され、2%インフレ目標を安定的に持続するために必要な時点まで大規模な国債買い入れと資金供給の拡大を続けるという方針が決定された。大規模な緩和策を将来にわたり継続することが約束されたのである。

 次に財政政策面であるが、政府は同じく日本銀行との共同声明において、「わが国経済の再生のため機動的なマクロ経済政策運営に努める」と表明し、柔軟な財政政策を実施していく方針を明記した。同時に、「持続可能な財政構造を確立するための取り組みを着実に推進する」として、中長期的には財政健全化を目指すことを盛り込んだ。長い目で見た財政再建へ向けた取り組みは続ける一方で、一時的には均衡財政にはとらわれず、柔軟な政策行動を容認することを表明したのである。

 以上の動きを、表1でいえば、中央銀行はより明確かつ積極的に物価目標を目指すレジームに(より左方向へ)移行し、政府は一時的・部分的とはいえ、均衡財政に必ずしもとらわれない政策運営に(より下方向へ)移行したものと解釈できる。それはすなわち、左下方向のFTPLレジーム(C)へ向かう動きである。

 繰り返しになるが、これは単発の金融緩和や財政拡大ではない。2%インフレ目標の導入と量的・質的緩和、そして柔軟な財政政策運営の表明は、いずれも将来にわたる政策行動パターンの変化(=レジームシフト)であるという点が重要である。そして実際に2013年、消費支出は力強く拡大し、物価も上昇基調へと転じた(図3、図4を参照)。それはまさにFTPLが示すロジック──「将来にわたり財政赤字は増大するが、それは将来の増税を伴わないため資産効果により消費は拡大する。そして増大した政府債務は物価上昇により実質的に削減される」──と整合的であるようにみえる。もっとも、①の1930年代米国と同じように、財政政策の行動パターンだけでなく、金融政策(とその結果である為替レート)の面でもレジームの変化が加わったため、景気・物価の回復メカニズムをより強力にドライブした可能性については忘れてはならないだろう。

④2014−15年の日本

 逆に、財政政策レジームがFTPL寄りから通常ケース(財政健全化重視)に移ることで、消費や物価にブレーキをかけたと推測される事例もある。日本では、2014年から2015年にかけて、消費税増税と年金財政健全化措置が相次いで実施された。その結果、それまで部分的に(C)のレジーム寄りであったものが、2014年以降、通常の(A)のレジームに移行した可能性が考えられる。

 2014年4月の消費税増税をFTPLのロジックで考えると、8%への税率引き上げを実際に経験することで、これまで漠然と考えていた将来の増税の可能性を人々はより強く意識した可能性がある。すなわち、実際の消費税増税の発動を将来にわたる財政政策運営の変化(将来にわたる増税ならびに財政赤字の縮小)と受け止め、その結果、逆資産効果が強く働いて、消費を抑制して貯蓄を増やしたという解釈も成り立つ。

 また増税発動と同じ時期に政府は、年金財政健全化へ向けた措置に相次いで踏み切ったが、それも家計の消費・貯蓄行動に同様の影響を及ぼした可能性がある。2014年4月から、それまで3年間続いてきた特例措置(「物価スライド特例措置」)が廃止されて、年金給付水準は前年比マイナス0.7%となった。2015年4月からは、過去8年にわたり適用が延期されていた「マクロ経済スライド」(年金財政悪化を食い止めるため0.9%減額調整する措置)が初適用された。これらの特例的な取り扱いは長く続けられていたため、その廃止を家計は完全には織り込んでいなかったとしても不思議ではない。特例的な取り扱いの廃止を将来にわたる年金財政運営の変化(年金収支の改善)と受け止め、自らの年金資産の予想を下方修正した可能性がある。再びFTPLのロジックを用いれば、年金資産の面からも逆資産効果が働いて、消費の回復に追加的な重石となったと解釈できる。以上の逆資産効果による消費支出への下押し圧力は、その後の物価上昇の基調にも影響を与えていると見られる(再び図3、図4を参照)。

 FTPLに関する過去の事例から推論するとすれば、実際、財政政策レジームの変化は消費や物価へ強い影響を及ぼす可能性があると指摘できる。とりわけ、上記①と③でみたように、それが金融政策運営のレジームシフトとのパッケージとして実施された場合、特に有効であるようにみえる。

シムズ提案の課題はテイルリスク

 以上、シムズ提案が依拠する物価水準の財政理論(FTPL)の基本メカニズムと過去の事例について検討してきた。では、シムズ提案の課題について考えたい。

 第1の課題は、仮に現状の(A)から、より(C)に近い政策レジームへの移行を選択するとしても、そのもとで具体的にどういった財政政策を行うかについては、さまざまな選択肢が考えられる点である。シムズ提案は、「2%インフレ目標を実現するまで増税を延期する」というものであるが、より踏み込んだ減税や財政支出の拡大も可能性としては排除されない。将来、通常ケース(A)に戻ることを想定するのなら、非効率な支出ではなく、経済の供給力の改善に寄与し、需要を持続的に喚起するような政策が望ましいことは言うまでもない。例えば子育てを経済面・制度面から支援する「家族向け支出(family spending)」を拡充することは、出生率を引き上げて人口減少のスピードを遅らせる効果も期待され、検討に値する。また、できるだけ早く2%目標を達成して通常レジームに移行することを念頭に置くのなら、恒久減税や年金資産の増加などの思い切った措置によって消費を喚起することも選択肢となるかもしれない。そうした財政赤字策の具体案については別途慎重な検討が必要となる。

 第2の、そしてより重い課題は、「2%目標を実現するまでは均衡財政にとらわれない」とする一時的なFTPLのレジームが、意図せざる法制度の改正などを通じて、財政ドミナンスのレジームに近づいてしまうリスクが排除できないという点である。FTPLのレジーム(C)は、しばしば財政ドミナンス・財政インフレのレジーム(B)と同一視され、実際そうした見方に基づく専門家の議論もある(脚注1の文献を参照)。表1で検討したように、(B)と(C)では異なる物価決定メカニズムを持ち、両者は区別されるべきと考える。しかし仮に同一のものとみなされると、一時的なFTPLレジームが、例えば国債の直接引き受けや真性のヘリコプターマネー政策を可能にするような制度変更あるいは法改正(日本銀行法や財政法の改正など)につながってしまう可能性は完全には排除できず、大きなテイルリスクである。仮にリスクが顕現化して高インフレが実際に起こり、国民生活を圧迫することになれば、そのレジームは最終的には国民から支持されずに早晩是正される可能性は高い。とはいえ、その間の混乱がもたらすコストは甚大となろう。

 シムズ提案は、一時的とはいえ、均衡財政に必ずしもこだわらず柔軟な財政政策運営を提唱する。通常のレジームから一時的・部分的にせよ逸脱することは、実験的な性質を帯びることになる。仮にそうした方向に踏み切ることを検討するのであれば、具体的な政策の中身などさまざまな選択肢があり、政府・国会による総合的かつ慎重な議論が必要である。そして最終的には、2013年の事例のように、国民に広く支持されるものでなければならないだろう。シムズ提案やそれに類する取り組みには大きな効果も期待されるが、懸念されるテイルリスクも同様に大きい。機会とリスクの両面を冷静に分析する必要がある。

金融政策運営は現行の制度枠組みの維持を

 最後に、今後の金融政策運営のあり方について付言しておきたい。

 まず金融政策運営の制度的な枠組みについては、現行のレジーム、つまり政府とは独立して物価安定目標を目指す枠組みや法制度を、今後も堅持することが重要である。現在日本銀行は、2%物価安定目標の早期実現を目指して大規模な国債買い入れ・貨幣供給を継続しているが、それは現行の日銀法のもと、透明で自主的な政策決定に基づいて実施されているものである。日本銀行は政府・財政に追随する中央銀行では決してない(表1の「B.財政従属・財政インフレ」のレジームでもない)。しかし、上記の課題で述べたとおり、シムズ提案の検討にはテイルリスクが伴い、金融政策関連の法制度が政府・財政へ追随する方向に修正されるという危険性が排除できない。ヘリコプターマネーや国債直接引き受けを可能にするような制度の導入や法改正(日銀法や財政法の改正など)が実施されれば、財政ドミナンス・財政インフレのレジームに陥るリスクは高まる。とりわけ現在のように大規模な国債買い入れを実施しているもとでは、そのリスクが顕現化した場合のコストは甚大となろう。そうした状況に陥らないためにも、金融政策の面では、政府・財政とは独立した制度枠組みを今後も堅持しなければならない。

 では具体的な金融政策の中身については、今後どのように見通せるだろうか。

 現在日本銀行は、2%の物価安定目標をできるだけ早期に達成すべく、取りうる最大限ともいうべき緩和措置を継続中である。2016年9月、同年1月に導入したマイナス金利政策の副作用も勘案する形で、「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」へと移行した。大規模な資産買い入れの方針は維持しつつ、正式な操作目標は短期金利(日銀当座預金の一部に課される付利金利、現状マイナス0.1%)と長期金利(10年物国債金利、現状ゼロ%程度)へと変更した。人々のインフレ予想を再び上昇基調へと持ち上げるため、物価上昇率が安定的に2%目標を超えるまで貨幣供給量(マネタリーベース)の拡大方針を維持することも表明されている。一連の措置は、これまでの緩和政策の効果を維持しつつ、その持続性と柔軟性を高めるものである。長期金利がゼロ%程度まで低下した現状の緩和政策は取りうる最大限のようにみえる。長期金利がさらにマイナス領域にまで落ちこむと、借り入れや支出を刺激する通常のプラス効果のみならず、金融機能の低下懸念などからリスクプレミアムが逆に高まる──その結果、株安や円高を招くなど金融環境はより引き締め的になる──といった副作用の可能性も考えられる。わが国は実際そうした問題をマイナス金利政策導入後に経験した。

 日本では、現状のような最大限の緩和措置を今後も続けていくというのが当面のメインシナリオとなるだろう。米国では、今後の利上げペースとともに、いまだ再投資によって維持されている巨額のバランスシートをいつ縮小し始めるのか──「量的引き締め(quantitative tightening,QT)」にいつ転じるのか──、その具体策はいつ公式に表明されるのか、などに注目が集まる。しかしその正常化の道筋は、今後の実体経済の回復の強さと新政権の経済政策動向次第であることは言うまでもない。そしてわが国の金融政策見通しも将来の出口議論も、米国とまったく同様に、民間消費を始めとする景気回復の力強さと今後の経済政策動向にかかっている。その意味で、シムズ提案やそれに類する財政政策レジーム面の取り組みは、日本の金融政策を見通すうえでも重要な鍵を握っているのである。

宮尾龍蔵(みやお りゅうぞう)

東京大学大学院経済学研究科教授。博士(経済学)(ハーバード大学)。元日本銀行政策委員会審議委員(2010年3月~2015年3月)。専門は金融、マクロ実証分析。

引用を行う際には、以下を参考に出典の明記をお願いいたします。
(出典)宮尾龍蔵(2017)「財政・金融政策運営をセットで分析する意義-「シムズ提案」から学ぶべきこと-」NIRAオピニオンペーパーNo.30

脚注
1 シムズ教授による講演、ならびに関連する文献は以下のとおり。
Sims , Christopher(2016), “Fiscal Policy , Monetary Policyand Central Bank”, Speech at the Jackson Hall conference , August23 , 2016。
木村武(2002)「物価変動メカニズムに関する2つの見方―Monetary ViewとFiscal View」『日本銀行調査統計月報』2002年7月。
鶴光太郎(2017)「財政『タダ乗り』政策に問題」日本経済新聞2017年1月16日朝刊『経済教室』。
クリストファー・シムズ(2017)「脱デフレ金融政策では限界だ」日本経済新聞2017年1月29日朝刊『日曜に考える』。
渡辺努(2017)「注目を集める財政政策を活用したデフレ脱却策」『金融財政事情』3203。
塩路悦朗(2017)「財政インフレ論にリスクも」日本経済新聞2017年3月15日朝刊『経済教室』など。

2 以下、表1のA、B、C、3つのケースについて説明するが、残る4つ目(右上部)は、物価が不決定となる組み合わせである。

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