企画に当たって

あれから50年、いまに続く意義と課題

新たな転機に立つ日本と世界

谷口将紀

NIRA総合研究開発機構理事長/東京大学公共政策大学院教授

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戦後第4期、日本と世界の転換点、これから50年

 公益財団法人NIRA総合研究開発機構の前身、総合研究開発機構は1974年(昭和49年)325日に設立され、認可法人から財団法人、公益財団法人へと組織変更を経て、このたび50周年を迎えた。今回のNIRA『わたしの構想』は「あれから50年」をテーマに、当機構設立当時の国内外の政治・経済・社会的な出来事を振り返りつつ、それが現在のわれわれに持つ意味を、5人の識者に考察いただいた。

50年前の出来事―現在のわれわれに持つ意味は

 総合研究開発機構が設立された当時の内閣総理大臣は、田中角栄であった。現在でいう専門学校を卒業後、土建会社の社長から身を興し、傑出した実行力と資金力をもって首相の座を射止めた田中の真骨頂は、むしろこの年12月9日の首相退陣後に発揮されたと言えるかもしれない。朝日新聞政治部の記者として田中派を担当し、その後に東京本社編集局長、日本記者クラブ理事長、テレビ朝日ホールディングス社長等を歴任した吉田慎一氏によれば、ばらまきと集票のバーターや数の支配という戦後日本政治の「原風景」は、田中時代に結晶化または先鋭化し、権力と近過ぎる関係という政治ジャーナリズムの問題と相まって、今なお続いている。

 昨年の消費者物価指数は41年ぶりの上昇幅となったが、50年前の同指数は23%も上昇し、「狂乱物価」と呼ばれた。同時に経済成長率は戦後初めてマイナスとなり、高度経済成長期の終わりを人々に印象付けた。もっとも、明治学院大学の岡崎哲二教授によると、わが国の経済は日本型労使関係の機能や産業構造の転換等によって相対的に良好なパフォーマンスを発揮し、経済大国としての地位を歩み始める契機にもなった。また、物価に加えてマネーサプライの量も注視する金融政策、赤字国債の発行が恒常化した財政政策の転換点でもあった。

 視線を外交および国外に転じると、まず、1974年に佐藤栄作前首相(当時)が、首相在任中に宣言した非核三原則などを理由にノーベル平和賞を受賞した。ただ、三原則のうち核兵器を「持ち込ませず」の部分については、同年9月に「米艦船は核兵器を外さずに日本に寄港している」とのジーン・ラロック米元海軍少将による米議会での証言が飛び出すなど当時から疑念がもたれており、先日も、核搭載艦船の日本寄港を事前協議の対象外とする日米両政府間の密約が交わされていたことを示す米公文書の存在が報じられた。それから半世紀が経過した現在、今後の日米安保政策の管理の経緯とあり方について正面から議論を深めるべきと、駒澤大学の村井良太教授は論じている。

 1974年の世界政治を揺るがせたのは、89日のリチャード・ニクソン米大統領辞任のニュースであった。ドナルド・トランプなど弾劾訴追された大統領は他にもいるが、大統領辞任に追い込まれたのはニクソンが唯一の例である。ペンタゴンペーパーズの暴露、事実上のベトナム戦争敗北、そしてウォーターゲート事件と米国民の政治不信は極まったが、その裏でドルショックや米ソ、米中接近といった大胆な政策転換が行われたことも忘れてはならないと、東京大学の西崎文子名誉教授は指摘する。

 スポーツ界では、この年の1014日に、プロ野球・読売ジャイアンツの黄金期を中軸選手として支えた長嶋茂雄が「わが巨人軍は永久に不滅です」との言葉を残して現役を引退した。今はベーブ・ルースとも並び称されるロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平の活躍が連日テレビや新聞を賑わせているが、演出家のテリー伊藤氏によれば、人々は自分が大谷になれるとは思っていない。長嶋の引退は、自由奔放で太陽のような存在に人々が憧れ、頑張ろうと自らをヒーローに重ねた「昭和の風景」の終わりであった。

新たなる転換点にいる日本と世界

 戦後の日本を時期区分すると、終戦・復興の第1期、高度経済成長の第2期、先進国の一角を占めるに至った第3期に分けられるだろう。この中、NIRAは第3期をひらく転機にあって現代社会や国民生活の諸問題を解明するために作られた。現在の日本は、少子高齢化と人口減少、社会保障や財政さらには地域社会の持続可能性が問われる第4期のとば口に立っている。国際社会もアメリカの覇権はさらに揺らぎ、米中対立が激しさを増している。欧米先進国でもポピュリストの台頭が、デモクラシーの不安定要因として影を落とす。これらの難題に直面する日本の政治は、政治資金問題などによる動揺が続いており、課題解決可能な熟議と決定の仕組みを確立しているとは言いがたい。イチローや大谷を頂点に、世界で活躍する日本人が各分野で増えたことがわずかな救いであろうか。

 このような日本と世界の転換点にあって、われわれ公益財団法人NIRA総合研究開発機構は、客観的なデータに基づいて、第一線で活躍する研究者と実業家とのネットワークを生かし、産官学が連携した政策論議のフォーラムを提供し、政策形成に貢献する存在でありたい。「あれから50年」の間に皆さまから頂戴したご支援に心から御礼申し上げると共に、「これから50年」も一層のご協力をお願いいたします。

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あれから50年、1974年にどのような出来事があったのか。現在のわれわれに持つ意味は何か。

田中時代は、現在の日本政治の「原風景」

吉田慎一

株式会社テレビ朝日取締役・相談役

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田中角栄首相退陣、戦後デモクラシーの難題、アクセスジャーナリズム

 1974(昭和49)年、田中角栄首相が金脈事件で退陣して以来、日本は「田中政治」に悩み続ける。それは実は戦後デモクラシーが抱えこんだ難題であり、50年たった今も解を見いだせていない。その意味で田中時代は戦後政治の「原風景」だった。

 その1つが、ばらまきと集票のバーターだ。経済成長を背景に政治家が有権者に恩恵を与え見返りに有権者から支持を得る。「分配と支持の交換」は、田中時代に結晶化したと言える。その黙契は低成長に移行した後も伝承され、有権者は「デモクラシーのコスト」とその負担という意識を脇に置き、受益者感覚だけを政治に求めた。そこから「政治とカネ」の問題も派生する。もう1つが「数の支配」だ。多数決の裏には本来、寛容の土壌と調整のプロセス、つまり「政治」があるべきなのに、次第に数による政治が先鋭化した。まともな議論もなく多数与党が数で押し切る国会風景が近年もみられるが、その源流は「田中政治」にある。

 これらの問題は連綿と続いている。昨今の自民党派閥の裏金騒ぎは「政治とカネ」問題の最新バージョンにすぎない。金のかかる政治の是正も目的として90年代に小選挙区制が衆議院に導入され政党助成金も創設された。だが、候補者を決め巨額の金を受け取る政党を規制する政党法すらなく、助成金の使途はどんぶり勘定がまかり通っている。さらに、近年は「ポストトゥルース」時代を地で行く、新しい次元の「数の支配」が大手を振りだした。繰り返し大声で一方的に自らを正当化する、説明はしない、真実を隠す。「数」さえあれば何でもありを「デモクラシー」と呼びかねない時代に踏み出しつつある。

 「田中政治」は権力とジャーナリズムの「距離」という問題もあぶりだした。金脈事件を暴いたのは日常的な政治ウォッチャーである新聞ではなく、フリージャーナリストの立花隆氏と雑誌チームだった。当時米国では、ペンタゴンペーパーズの暴露、ウォーターゲート事件と新聞の奮闘が続いていた。翻って、日本の政治報道は、政治家に食い込むことで情報を得て政局を中心に報じてきた。それは単なる「アクセスジャーナリズム」ではないのか。

 日本の政治文化の「質」を誰が監視するのか。そもそも日本のジャーナリズムとは何なのか。終戦直後に突き付けられたのと同じこの問いは、その後も装いを変えて繰り返し浮上している。幾多の改革の試みにもかかわらず、こちらの「原風景」にも解はまだない。

識者が読者に推薦する1冊

東浩紀〔2023〕『訂正する力』朝日新聞出版

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あれから50年、1974年にどのような出来事があったのか。現在のわれわれに持つ意味は何か。

スタグフレーション、日本型労使関係と産業構造の転換で対応

岡崎哲二

明治学院大学経済学部教授

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狂乱物価、マイナス成長、産業構造・金融財政政策の転換

 1974年は石油危機を背景に、日本経済の転機となる大きな変化が生じた。それは1946年以来初めてのマイナス成長、そして「狂乱物価」と言われたほどの激しいインフレだ。従前は不況時でも成長率は5%だったが、一転してマイナスになり、卸売物価の上昇率は20%を超えた。いわば、不況とインフレが共存するスタグフレーションと呼ばれる深刻な状況になった。

 72年に成立した田中角栄内閣は、円高・不況対策や「日本列島改造」を推進するため、赤字国債を発行して大規模な財政出動を行う傍ら、日銀に圧力をかけて大規模な金融緩和を続けさせていた。当時、経済学者の小宮隆太郎氏は「激しいインフレは石油価格が急速に上昇したからではなく、金融緩和も原因になった」と指摘した。

 それでも日本は、他国よりもうまくこれらのショックに適応することができた。成功の要因は大きくは2つある。1つは、いわゆる日本型労使関係が機能し、雇用を守るために実質賃金の引き下げを労働者が受け入れ、インフレが賃金に波及することが抑えられたことである。今は物価と賃金の好循環が目指されているが、当時は物価上昇と賃金上昇の「悪循環」をいかに断ち切るかが課題となっていた。

 もう1つの要因は、産業構造の転換だ。石油を使う鉄鋼や非鉄金属など、それまで日本の成長をけん引してきた「重厚長大」産業から、素材を加工する産業への転換が他国より速やかに行われた。これらの対応が奏功し、さらに、その後省エネ技術の開発が進んでエネルギー効率が向上したことも加わり、経済大国としての日本の地位が築かれることになる。

 この時期は、金融、財政の政策面でも大きな転換点となった。日銀は、当時の金融緩和が狂乱物価を招いた一因になったとの反省から、金融政策の方針を再検討した。従前の物価指数重視から、マネーサプライの量も注視する政策運営に切り替えた。また、社会保障を充実させた73年は「福祉元年」と位置付けられ、社会保障支出が財政の大きな割合を占めていく出発点となった。この時期を起点に、以後、赤字国債がほぼ毎年発行されるようになっていく。その後、国債を消化するため債券流通市場の整備が進み、金融の自由化につながったことも特筆すべきである。

識者が読者に推薦する1冊

中村隆英〔1995〕『現代経済史』岩波書店

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あれから50年、1974年にどのような出来事があったのか。現在のわれわれに持つ意味は何か。

佐藤政権が確立した非核三原則、安保政策として議論の深化を

村井良太

駒澤大学法学部教授

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佐藤栄作ノーベル平和賞、ラロック証言、非核三原則

 1974年、佐藤栄作前首相(当時)がノーベル平和賞を受賞した。受賞の理由は、「核兵器を持たず、つくらず、持ち込ませず」という、佐藤政権期に宣言した非核三原則と核不拡散条約の調印、そして平和時の外交交渉による沖縄返還で東アジアの安定に寄与したことだ。当時はまだ、日本の軍国主義復活を不安視する国内外の視線もあったが、戦後一貫して日本が武力を使うことを避け、経済協力など平和的な手段で世界に貢献してきた努力が評価された。政治家佐藤への評価に止まらず、戦後日本が受けた「団体賞」でもあった。

 この非核三原則は、日米安全保障条約が固定期限を迎える1970年と沖縄返還に向けた議論の中で確立された。国内の反核感情は強かった。反米感情もあった。しかし、自ら核武装することなくアメリカの「核の傘」で安全を図りながら、同時に「持ち込ませず」という選択には齟齬があった。1960年の安保条約改定交渉では、核を日本に陸揚げする場合は事前協議が必要とされたが、海上での通過については明確にしていなかった。このことで、ジーン・ラロック元海軍少将が米国議会の公聴会で「核兵器を積んだ艦艇が、日本に寄港する前に核を取り外すことはない」と証言すると混乱が起こった。この「ラロック証言」が、日本政府の国民に対する説明と異なっていたからで、日本政府はその影響の遮断に躍起となった。まさに、戦後日本の核・安全保障政策の間隙を露呈した象徴的な出来事と言える。

 以後、日本政府はこの問題に明確な発言を避け、政治的な事情から正しいことを言わない時間が長く続いた。政権交代を機に、2009年に外務省が「密約」の調査を行い、関係文書を開示したことで経緯への理解が進んだことは望ましいことであった。非核三原則を議論した当時、国際社会はいずれ日本が核武装すると見ていたが、日本は軍事大国の道を歩まないという選択肢で生きていく実例を示し、世界平和に寄与してきた。現在のわれわれは、この選択を後悔しているだろうか。

 非核三原則は日本の安全保障政策と日米友好関係の「管理の問題」である。50年が経過した今、その管理の経緯とあり方について国民的な理解を深める時期が来ている。中国や北朝鮮が軍事的存在感を増している中、日本はこれからも、その取り組みに継続して知恵を絞る必要がある。その際、国民の安全を維持しつつ、「守るべきものは何か」という価値の問題を軽視できない。デモクラシーや国会の信頼、負担の全国的な配分にも関わってくる問題だ。

識者が読者に推薦する1冊

村井良太〔2019〕『佐藤栄作―戦後日本の政治指導者』中央公論新社

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あれから50年、1974年にどのような出来事があったのか。現在のわれわれに持つ意味は何か。

ニクソン辞任は、政府への信頼崩壊のクライマックス

西崎文子

東京大学名誉教授

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ニクソン米大統領辞任、信頼の崩壊、大胆な政策転換

 1974年、アメリカのニクソン大統領が任期途中で辞任に追い込まれた。ニクソン辞任は政権への不信が徐々に積み重なり、信頼が崩壊したクライマックスと位置付けられる。国民が不信をつのらせた出来事は、大きくは3つ。まずは71年、歴代政権のベトナム介入の過程を調査した米国防総省の秘密文書「ペンタゴンペーパーズ」が漏洩され、さらにニクソン政権がこのスクープ記事の報道を、差し止めようとした事件である。そして次に、翌々年、ベトナム戦争に事実上、敗北したこと。さらに72年に発覚した「ウォーターゲート事件」に関する隠ぺい工作だ。一連の流れを特徴付けるのは、ニクソンとその側近で外交・安全保障を担当したキッシンジャーという2人のリーダーに共通していた政治姿勢で、彼らの手段を選ばない秘密主義が背景にあることは指摘しておきたい。

 ニクソン政権はスキャンダルの強烈さに目を奪われがちだが、その裏で、次世代を見据えた大胆な政策転換を行ったことも忘れてはならない。かつて自由主義陣営の盟主として君臨したアメリカの立場は、ベトナム戦争を通じて決定的に低下していた。ニクソンとキッシンジャーは、こうした地位低下がもたらす状況にどう対応して次に備えるかに、いち早く手を打ったのである。経済面ではいわゆるドルショックだ。ベトナム戦争の巨大な軍事費が経済を圧迫する中、金とドルの兌換を停止することでドル切り下げに成功した。また、外交面ではデタント(緊張緩和)、すなわち米ソ接近、米中接近が挙げられる。もっとも、2人の構想は、米・欧・日に加え、ソ連・中国の五極構造とする大国を中心とする国際秩序であった。そのため、中東地域やラテンアメリカの問題は大国中心の外交の従属物となってしまい、米ソ対立が地域紛争をさらに激化させることになったのも事実だ。

 デタントは冷戦の枠組みにインパクトを与えた一方で、アメリカ国内では右派の激しい反発を招く。60年代に強まっていたリベラルと保守といった価値観の対立を、ニクソン政権が増長した側面があり、社会の分裂という「負の遺産」は現在まで続くことになる。他方で、ニクソンが辞任した当時を振り返って印象的なのは、与党の共和党陣営ですら、ニクソンを擁護する人が非常に少なかったことである。いわゆる陰謀説が社会を席巻することがなかったのは、トランプ以後の今のアメリカ社会との大きな違いである。

識者が読者に推薦する1冊

西崎文子〔2024〕『アメリカ外交の歴史的文脈』岩波書店

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あれから50年、1974年にどのような出来事があったのか。現在のわれわれに持つ意味は何か。

長嶋茂雄引退
―ヒーローに自分を重ね一喜一憂した昭和の風景

テリー伊藤

演出家

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長嶋茂雄引退、心のふるさと、価値観の多様化

 1974年、長嶋茂雄というスーパースターの引退は、巨人ファンだけでなく、すべての日本人に一時代の終わりを感じさせた。長嶋は、戦後日本がまだ焼け野原で、満足にボールもなく、グローブも自分たちで作っていた時代に野球少年だった人だ。当時の野球は軍隊的で、歯を食いしばる努力が主流の中、長嶋は天才的な技術で野球を見せ、エンターテインメントすら感じさせ、日本中を熱狂させた。今と違い、スポーツと言えば野球。日本人すべてが野球にのめり込み、長嶋が打つごとに一喜一憂する。そんな時代が終わりを告げたのだ。

 長嶋が引退した年、日本は「狂乱物価」や田中角栄首相の退陣などで揺れていた。切ない歌が流行っていたことも当時の世相を表している。太陽のような存在だったヒーローが去り、その次にどんな日本が待っているのか――不安を感じる人は多かっただろう。だがそれは同時に、等身大の自分たちの時代が来る、と予感させた瞬間ではなかったか。地方から東京に出てきた若者は、安い家賃の4畳半一間で生活しながら、自分なりの幸せを模索した。女性は働ける場所が増え、結婚以外にも人生の選択肢が増えつつあった。若者が自分の生活の出来事を歌うフォークソングが確立したのもこの頃だ。

 確かに、今の日本は長嶋が活躍した時代に比べると豊かになった。どの家にも風呂があって銭湯に行く必要はないし、品質のよい服や食べ物も安く手に入り、それぞれが自分なりのライフスタイルを維持できる。その反面、「野垂れ死にする」という危機感が失われ、ハチャメチャなことは何もできなくなった。発言や行動がすぐにネットで叩かれたり、ジャッジされたりする時代になった。長嶋茂雄のような自由奔放さが人々に好かれたのは、貧しかったあの時代だったからではないか。

 最近の野球人は優等生が多いと言われる。大谷翔平はスーパーマンで、誰も自分が大谷になれるとは思わない。「長嶋が打ったから、明日も仕事を頑張れる」、「長嶋が打てずに苦しんでいる、自分も負けずに頑張ろう」。かつて、そうやって長嶋に自分を重ねた時代があった。素っ頓狂だが、愛すべきヒーローだった背番号「3」は、もう戻ることはない昭和の風景の象徴だ。そのノスタルジーを感じさせるから、長嶋茂雄は今でも多くの人にとって心のふるさとなのだろう。

識者が読者に推薦する1冊

石坂洋次郎〔2003〕『あいつと私』徳間文庫

引用を行う際には、以下を参考に出典の明記をお願いいたします。
(出典)NIRA総合開発機構(2024)「あれから50年、いまに続く意義と課題」わたしの構想No.72

データで見る

  • 日本:日米の安全保障政策関連年表

    出所)境家史郎『戦後日本政治史―占領期から「ネオ55年体制」まで』(中公新書、2023年)、村井良太『佐藤栄作―戦後日本の政治指導者』(中公新書、2019年)を参考にNIRA作成

  • 日本:日米の安全保障政策関連年表

    出所)境家史郎『戦後日本政治史―占領期から「ネオ55年体制」まで』(中公新書、2023年)、村井良太『佐藤栄作―戦後日本の政治指導者』(中公新書、2019年)を参考にNIRA作成

  • 米国:ニクソン米大統領辞任関連年表

    出所)Presidents of the United States (POTUS) “Richard Nixon”, The White House “Richard M. Nixon”,時事ドットコム「アメリカ大統領の系譜」等を参考にNIRA作成

  • 米国:ニクソン米大統領辞任関連年表

    出所)Presidents of the United States (POTUS) “Richard Nixon”, The White House “Richard M. Nixon”,時事ドットコム「アメリカ大統領の系譜」等を参考にNIRA作成

  • マネーサプライと物価指数の推移(前年比)

    注)外国銀行在日支店、外銀信託および信金中央金庫は含まれない。M1は、現金通貨と預金通貨から構成。物価指数は、全国卸売物価指数(総合)を採用
    出所)日本銀行時系列統計データ検索サイト

    付表

  • マネーサプライと物価指数の推移(前年比)

    注)外国銀行在日支店、外銀信託および信金中央金庫は含まれない。M1は、現金通貨と預金通貨から構成。物価指数は、全国卸売物価指数(総合)を採用
    出所)日本銀行時系列統計データ検索サイト

    付表

  • あれから50年:1974年と現在の日本

    注1)50年前は1973年、現在は2018年を採用
    注2)浴室保有率の50年前は1973年、現在は2008年。銭湯数の50年前は1975年、現在は2021年。料金の50年前は1974年、現在は2023年を採用
    注3)主要耐久消費財の普及率の推移(2人以上の世帯)。50年前は1974年、現在は2024年を採用
    注4)2023年度流行語大賞
    出所)総務省統計局「住宅・土地統計調査」、東京都浴場組合「東京都内の銭湯の数の推移」、内閣府「消費動向調査」

  • あれから50年:1974年と現在の日本

    注1)50年前は1973年、現在は2018年を採用
    注2)浴室保有率の50年前は1973年、現在は2008年。銭湯数の50年前は1975年、現在は2021年。料金の50年前は1974年、現在は2023年を採用
    注3)主要耐久消費財の普及率の推移(2人以上の世帯)。50年前は1974年、現在は2024年を採用
    注4)2023年度流行語大賞
    出所)総務省統計局「住宅・土地統計調査」、東京都浴場組合「東京都内の銭湯の数の推移」、内閣府「消費動向調査」

ⓒ公益財団法人NIRA総合研究開発機構
神田玲子、榊麻衣子(編集長)、山路達也
※本誌に関するご感想・ご意見をお寄せください。E-mail:info@nira.or.jp

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