白川浩道
クレディ・スイス証券株式会社経済調査部長(座長)
上村敏之
関西学院大学准教授
太田智之
みずほ総合研究所シニアエコノミスト
下井直毅 
多摩大学准教授

概要

 日本経済が低成長から脱却できない要因の1つに、「家計に眠る過剰な貯蓄」が十分に消費支出に向けられていないことが考えられる。過剰貯蓄額を推計すると、高所得層を中心に100兆円を超える可能性も浮上する。その背景には、家計や個人の将来不安や公的年金制度に対する不信感がありそうだ。過剰貯蓄を消費に向かわせるためには、社会保障制度の維持向上を明確な目標に掲げた上で、逆累進性のある消費税を引き上げるという政策オプションも考慮に値する。

INDEX

エグゼクティブサマリー

 「貯蓄から消費へ」。これが本報告書のキーワードである。政府がこれまで主導してきた「貯蓄から投資へ」と両立しうるコンセプトであるが、着眼点がやや異なる。

 すなわち、まず第1に、「家計の貯蓄率が低下している」、「高齢化の進展で家計貯蓄が不足し、将来、経済成長の阻害要因になる」との主張が、最近多くみられるが、実際には家計部門に過剰な貯蓄が存在している可能性がある。

 第2に、こうした過剰貯蓄の存在は、日本経済における長期に亘る個人消費の低成長と表裏一体をなしている可能性が高い。

 日本経済の主たる問題を「投資」不足(例えば、リスク・マネー供給不足など)としてのみとらえるのではなく、家計に眠っている過剰貯蓄の結果としての「消費」不足としてもとらえる必要がある、というのが、本研究会の基本的な問題意識である。

 このため、本報告書では、「個人消費の回復による安定的な経済成長の確保や雇用市場の拡大を通じて国民生活の質の向上を図っていくこと」を重要な政策課題と位置づけている。

 本研究会では、家計部門に過剰な貯蓄が存在する、しかも「偏在」していることを明らかにした上で、その規模を推計した。そして、この過剰な貯蓄がもたらされた要因を考察し、この過剰な貯蓄を消費にまわすための政策対応についての提言を試みた。得られた結論は次のようなものである。

 ①我が国の家計には、家計や個人の将来不安や公的年金制度に対する不信感などを背景として、高所得層を中心に100兆円を超える過剰な貯蓄額が存在する可能性がある。

 ②この高所得者の過剰貯蓄を消費に向かわせるためには、社会保障制度の維持向上という明確な目標の下、逆累進性を有する消費税の引き上げも政策オプションの1つとして考慮に値するのではないか。

 以下に報告書の内容を要約する。

1.家計の過剰貯蓄の推計

マクロ経済全体の家計貯蓄の過剰性

 「家計は現役時に得た所得で消費を行い、所得の一部を貯蓄して資産形成し、退職後の消費をまかなう」というライフサイクル・モデルにしたがうと、過剰貯蓄は、一定の予算制約の下で、消費から得られる生涯の効用を最大化した場合の消費水準である「最適」消費水準と、「実際」の消費水準の差としてとらえることができる。

 このアプローチに基づく分析によると、退職時点の「実際」の貯蓄残高は、ライフサイクル・モデルが示唆する「最適」な貯蓄残高を大きく上回っており、実際の貯蓄残高は世帯平均では最適な貯蓄の1.47倍となっている。すなわち、退職時点において、最適な貯蓄水準を上回る過剰貯蓄が存在する可能性が示される。

高所得者層に偏在する家計貯蓄

 世帯における家計貯蓄の保有状況を5分位収入別にみると、最も収入の低い第1分位と、最も収入の高い第5分位の世帯との間には、貯蓄残高でみて約3.6倍と既に大きな格差が存在している。収入の格差が拡大傾向にあるため、将来的にも貯蓄残高格差はさらに拡大する可能性がある。

 このことは家計の過剰な貯蓄が高所得層に偏在している可能性を示唆している。

家計の過剰貯蓄額の推計~3つの方法による推計~

 ①第1のアプローチ:現役引退後の所得、消費パターンから「意図せざる遺産」として求めると、約150兆円
 現在60歳の世帯主の将来の可処分所得・消費のパターンを現実のデータから想定し、80歳まで貯蓄形成を行った場合の「80歳時点における純貯蓄残高」を推計した(図)。その結果、全世帯での過剰貯蓄額は150兆円程度となった。

図 80歳時点の収入分位別貯蓄残高(試算結果)

(注)賞与や贈与・相続、株式等の時価評価は考慮していない。2人以上勤労世帯。カッコ内は80歳時点の貯蓄残高。
(出所)総務省「全国消費実態調査」

 この150兆円のうちの約4割である62兆円が、もっとも収入の高い第5分位の高所得層に存在している。こうした過剰貯蓄の高所得層への偏在については、60歳代において純貯蓄が可能であるのは第5分位のみである(第4分位以下は全体として貯蓄取り崩しになっている)等の背景を指摘できる。

 なお、この推計方法では勤労者世帯(2人以上)のデータを全世帯に拡張して適用しているなど、幾分過大推計されている可能性に留意する必要がある。

②第2のアプローチ:60歳以上世帯の平均純貯蓄を基準に過大な貯蓄額を求めると、約44兆円
 60歳以上世帯について、所得階級ごとのそれぞれの所得・支出水準に応じ調整して算出される必要純貯蓄額を求め、それと平均純貯蓄残高の格差から過剰貯蓄額を推計した。この場合、所得階級の上位2分位(第4分位、第5分位)にのみ過剰な貯蓄が存在する結果となり、家計部門全体における過剰貯蓄額は44兆円強と推計された。

 なお、この推計方法についても、60歳未満の世帯の過剰貯蓄の存在を無視しているなどの点には注意が必要である。

③第3のアプローチ:ライフサイクル・モデルに基づけば、退職時点の過剰貯蓄額は約179兆円
 退職時点の金融資産残高の水準が、ライフサイクル・モデルが示唆する最適な貯蓄水準の1.47倍であるとすれば、両者の差が過剰貯蓄となることから、65歳以上世帯の貯蓄残高(推計値)558兆円強のうちの179兆円弱が過剰貯蓄額となる。

 これらの推計結果については、いずれもある程度の幅を持って見なくてはならないが、マクロ的にみれば、過剰な家計貯蓄額は少なくとも100兆円を超えている可能性があると考えられる。

2.家計の過剰貯蓄の背景と政策的インプリケーション

家計の過剰貯蓄の背景には、将来不安や公的年金制度に対する不信感がある

 日本の家計の高い貯蓄性向をもたらしている要因は何か。第1に、「病気や不時の災害への備え」や「老後の生活資金」といった個人の将来不安、第2に、公的年金制度に対する国民の信頼感の低さ、第3に、政府の財政収支の持続的な悪化が続くなかで、将来の増税、社会保障給付の削減を予想した生活防衛的行動、などを指摘できる。

 なお、公的年金制度に対する国民の信頼感の低さについては、「社会保険庁の無駄遣い」等といったいわゆる年金不信だけでなく、公的年金制度の内容そのもの(物価スライド制や保険料水準固定方式など)に対する国民(特に若年層)の理解不足という問題もある。他方、遺産動機といった積極的な貯蓄動機については、日本の家計の貯蓄動機の中でどれ程の位置を占めているのかについて、コンセンサスを得られにくいのが実情である。

「貯蓄から消費へ」を政策目標にすべき

 ある程度の幅を持って見なくてはならないが、日本の家計には、100兆円を超える規模の過剰な貯蓄が存在している可能性が高いことがわかった。

 こうしたなかで、あるべき政策を考える上での重要な視点は2つある。1つは、家計貯蓄の過剰性を是正し、個人消費を本格的に回復させるとともに、その結果として、より高い経済成長を背景とした税収増を梃子に政府の財政収支を改善させられないか、ということ、もう1つは、家計にとっても、消費支出を増加させることで経済的な効用(満足度)を高め、より豊かさを感じることができるようになれば望ましいということ、である。

 家計貯蓄を消費支出に向かわせる政策を重視すること、すなわち、「貯蓄から消費へ」という政策コンセプトは、政府がこれまで主導してきた「貯蓄から投資へ」とは着眼点がやや異なるものである。潤沢な家計貯蓄が消費支出に十分に回っていないという「有効需要不足」を日本経済が抱えている大きな問題の1つとしてとらえ、消費の活性化に知恵を絞ることも大切である、という考え方である。

 本報告書では、「貯蓄から消費へ」と「貯蓄から投資へ」という2つの政策コンセプトは両立するものであるとの理解の上に立って、「貯蓄から消費」という政策目標を掲げたい。

社会保障制度の維持可能性を向上させ、高所得者の消費支出を高めるための政策を

 「貯蓄から消費へ」という政策目標を達成するに当たって具体的にどのような政策対応を行うべきか。

 まず、減税や公共投資の拡大といったオーソドックスな財政刺激策がその対象とならないことは明らかであろう。財政赤字拡大による将来の増税懸念から、むしろ家計貯蓄率が持続的に上昇するリスクがあるからにほかならない。

 税制面での対応として、「貯蓄に対して相対的に重い税をかけ、消費支出に対して相対的に軽い税をかける」、具体的には、利子・配当税、相続税・贈与税を増税し、消費税を減税するというアイデアはあり得る。しかし、貯蓄への課税強化は基本的に高所得層に対する増税を意味し、保有する貯蓄(金融資産)に対して増税された高額所得者が消費支出を増加させることは考えにくいことから、これは採用できない政策対応である。

 やはり、「貯蓄から消費へ」という政策課題では、家計や個人の将来不安を可能な限り軽減することに重点を置くべきである。そのためには、医療、年金、介護といった公的社会保障制度の維持可能性(サステイナビリティ)を高めることが不可欠である。多くの家計がそのサステイナビリティに強い自信を抱けば、目標貯蓄額の水準が低下すると考えられるからである。なお、公的年金制度に関しては、若年層を中心とした知識不足を解消するとともに、ガバナンスの向上による制度への信頼回復を図ることも極めて重要である。

 ここで、社会保障制度の維持可能性向上という明確な目標を掲げた上での消費税増税というオプションは考慮に値すると思われる。逆累進性のある消費税を増税することにより、社会保障制度のサステイナビリティ期待が向上すれば、高所得層の貯蓄性向が低下し、彼らの消費支出が増加する可能性があるためである。

 さらに、潜在的な需要の拡大が見込める旅行、医療、介護、ケータリング、教養などのサービス関連市場の活性化を図ることは、高所得層の消費支出を促すという意味で重要な政策対応となりうるだろう。

目次

第1章 問題意識と要旨
第2章 貯蓄の過剰性に関する定量分析
第3章 過剰貯蓄の背景に関する考察

図表

図表1-1 日本の経常収支額とそのGDP比率
図表1-2 部門別資金過不足(年度、兆円)
図表1-3 労働力人口比率と家計貯蓄率
図表1-4 OECD諸国の家計貯蓄率と平均成長率
図表1-5 家計の純金融資産残高・可処分所得比率(%)
図表2-1 マクロ統計でみた家計貯蓄率の推移
図表2-2 貯蓄率の要因分解
図表2-3 世帯構成の変化(1994年→2004年)
図表2-4 年間収入ならびに貯蓄現在高のジニ係数
図表2-5 収入分位別にみた貯蓄率の推移
図表2-6 収入分位別にみた可処分所得・消費支出の増減額
図表2-7 年齢階級別にみた貯蓄率の推移
図表2-8 中高年世代における可処分所得の要因分解
図表2-9 各年齢階級における貯蓄率の世代内格差
図表2-10 各年齢階級における黒字額の世代内格差
図表2-11 所得分位別にみた月間黒字額の推移と世代内格差の累積額
図表2-12 収入分位別にみた貯蓄残高の推移
図表2-13 年齢階級別にみた貯蓄残高の推移
図表2-14 各年齢階級における貯蓄残高の世代内格差
図表2-15 所得分位別・年齢階級別にみた金融資産に占める有価証券の割合
図表2-16 貯蓄残高の世代内格差の推移
図表2-17 貯蓄残高の世代内格差の推移
図表2-18 60歳以上世帯の収入分位別貯蓄純増額
図表2-19 80歳時点の収入分位別貯蓄残高(試算結果)
図表2-20 60歳以上世帯における過剰貯蓄額(勤労世帯)
図表2-21 60歳以上世帯における過剰貯蓄額(全世帯)
図表2-22 目標貯蓄額の推移
図表2-23 1930年生まれの所得と消費の推移(単位:千円)
図表2-24 1940年生まれの所得と消費の推移(単位:千円)
図表2-25 1950年生まれ世代の所得と消費の推移(単位:千円)
図表2-26 1960年生まれ世代の所得と消費の推移(単位:千円)
図表2-27 1930年生まれ世代と1940年生まれ世代の資産の推移(単位:千円)
図表2-28 1950年生まれ世代と1960年生まれ世代の資産の推移(単位:千円)
図表2-29 退職時の実際の資産水準と最適資産水準の比較
図表2-30 第1分位(1944年生まれ世代)の所得と消費の推移(単位:千円)
図表2-31 第5・6分位平均(1944年生まれ世代)の所得と消費の推移(単位:千円)
図表2-32 第10分位(1944年生まれ世代)の所得と消費の推移(単位:千円)
図表2-33 第1分位、第5・6分位平均、第10分位の資産の推移(単位:千円)
図表2-34 世代内における所得と消費の格差
図表2-35 年齢別のマクロの貯蓄残高総額(単位:兆円)
図表3-1 貯蓄の目的(貯蓄保有世帯)(3つまでの複数回答)
図表3-2 貯蓄目標残高と保有額(2006年)
図表3-3 年金不信の理由
図表3-4 公的年金に関する問題に対する正答率
図表3-5 公的年金制度に関する周知状況(2004年)
図表3-6 家計の金融資産構成(2001年末)
図表3-7 家計の1人当たり金融資産(2001年末)
図表3-8 金融商品の選択基準(貯蓄保有世帯)と株式スプレッドの推移(1980年-2007年)

研究体制

(委員)
白川浩道 クレディ・スイス証券株式会社経済調査部長(座長)
上村敏之 関西学院大学准教授
太田智之 みずほ総合研究所シニアエコノミスト
下井直毅 多摩大学准教授

(NIRA)
神田玲子 総合研究開発機構研究調査部長
井上裕行 同前研究開発部長
林田雅秀 同研究調査部次長
比嘉正茂 同研究調査部リサーチフェロー
和仁屋浩次 同研究調査部リサーチフェロー
榊麻衣子 同研究調査部リサーチアシスタント

引用を行う際には、以下を参考に出典の明記をお願いいたします。
(出典)白川浩道・上村敏之・太田智之・下井直毅(2008)「家計に眠る「過剰貯蓄」-国民生活の質の向上には「貯蓄から消費へ」という発想が不可欠」総合研究開発機構

ⓒ公益財団法人NIRA総合研究開発機構

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