公文俊平
多摩大学情報社会学研究所所長

概要

 今日の世界はいまだに、大きな国家と大きな企業が強い影響力を持つ「ビッグの20世紀」の遺産の中にある。他方、「プラットフォーム化の21世紀」への転換と呼べるような、社会変化の波を見て取ることもできる。ユーザのエンパワメント(支援)を促進するプラットフォーム化の動きは、今世紀に入り政治、経済、社会の全ての側面で一斉に進展している。
 この21世紀の新しい動きは20世紀の負の遺産を克服することに貢献しそうである。とりわけ社会面で生じている文化変容としての「ソーシャル化」が進展する中で、あらゆる人の利用できるコミュニケーション・プラットフォームが出現して、さまざまなソーシャルネットワーク・サービスが提供されていることは大きな希望である。
 同時に、それにかぶさる形で、さらに抜本的な変化の波が押し寄せている。「超知能」の出現をもたらす情報化の波がそれである。ソーシャル化に端を発した情報化は、今や、政治・経済面だけでなく、人類の社会生活の全てを一変させる勢いで、加速的に進展している。それは、人類に新たな進化のチャンスをもたらすと同時に、人類史上最大のリスクも伴っている。われわれはこの挑戦の意味を深く理解し、的確な対処に全力をあげなくてはならない。

INDEX

「ビッグの20世紀」と負の遺産

 今世紀との対比のために、はじめに20世紀を国家化と産業化の両面から概観しておきたい。国家化の面では19世紀に誕生した国民国家は20世紀に入り、覇権の獲得を目指す「総力戦」を戦うようになった。「国民戦争」となった最初の世界戦争に続いて、第2次世界大戦では国民国家群が「連合国」と「枢軸国」に分かれて戦った。勝利した連合国側はさらに「自由民主主義陣営」と「共産主義陣営」に分裂したが、20世紀末には冷戦の終焉を迎える。と同時に世界の覇権を握った自由民主主義陣営のリーダー米国は「歴史の終わり」を宣言し、「平和の配当」への世界の期待が高まった。しかし、現実には、民族・地域・宗教紛争の対応に翻弄され、中国の経済的・軍事的台頭に気がついた米国は現在、外交の軸足を中東からアジアに移す「リバランス」政策をとり始めている。

 産業化の面では19世紀から続く「第2次産業革命」の中で、石油・電力という新エネルギーに依拠する重化学工業が台頭し、市場の支配力を持つ独占的な大企業体制が生まれた。戦間期の世界不況の混乱は、独占規制や再分配政策、景気政策、社会福祉政策を柱とする「大きな政府」の介入を容認する「混合経済体制」を成立させ、同時に、耐久消費財産業への軸足の転換を背景に戦後の高成長が実現した。その後、ドル本位制の採用や多国籍企業の台頭、さらに産業のサービス化、特に金融資本主義化を通じて、豊かな社会の確立と「繁栄」の持続への期待は高まった。しかし21世紀初頭の「ニュー・エコノミー」バブルの崩壊を高度な金融工学によって乗り越えたはずの金融資本主義は、ゼロ年代終わりの「世界金融危機」により蹉跌し、世界経済はデフレと低成長が常態となった。財政難に苦しむ「大きな政府」は人々の信頼を失い、「新自由主義」や「第3の道」への転換も確たる実績をあげているとは言い難い。むしろ、その中で進む富と所得の格差拡大が確認されるにつれて、資本主義終焉論が多くの人の心を捉えている。

 すなわち今日の世界は「大きな政府」を持つ国民国家と大産業企業が活躍した「ビッグの世紀」である20世紀を経て、その負の遺産に苦しめられていると言える。

「プラットフォーム化の世紀」としての21世紀

 20世紀後半以降、新しい変化の波も起こっている。それは「プラットフォーム」と呼ぶことが適切な社会的仕組みの普及である。プラットフォームは支配や搾取ではなく、ユーザのエンパワメント(支援)を促進する。優れたプラットフォームはユーザを社会全体に拡大させ、ユーザの範囲や利用度が高まるとプラットフォームの価値はさらに拡大するという好循環を生む。プラットフォームには、ユーザに直接サービスを提供するものもあるが、より重要なものはサービスの提供者とユーザをマッチングさせる、例えば、「検索」サイトや「市場」サイトなどである。 

 N・メレいわく、成功したプラットフォーム提供者はしばしば20世紀の大企業の顔色を失わせるほど超巨大化(ビガー)する。ユーザのエンパワメントをもたらすプラットフォーム化は、21世紀に入って国家化(政治)、産業化(経済)および情報化(社会)の全ての側面で、一斉に進展している。

国家化、産業化、ソーシャル化におけるプラットフォーム

 国家化について見てみよう。第2次世界大戦は、多くの植民地の解放とさまざまな民族・地域による国民国家建設の権利の普遍化をもたらした。戦後の四半世紀の間に100を超える国民国家が新たに誕生し、「国民国家」が人々の政治的統合形態のグローバルな標準となった。現代の「グローバル化」の本質的な意味はここにある。

 しかし今日の国民国家のほとんどは、自力で安全保障や経済発展を達成するには力不足である。「大量破壊兵器」時代の今日、新興超大国が自国と自国民の消滅の危険を冒してまで覇権国家を目指す戦争に乗り出すことはもはやありえないだろう。米国との、あるいは相互間の「冷戦」を辞さないとも考えにくい。


 他方、戦後米国は、冷戦を戦う一方で、NATOやIMFに代表されるような、安全保障や国際金融サービスを多くの諸国に提供するための国際的プラットフォームの構築を主導してきた。今後も、完全な「自国回帰」よりは、最有力の「プラットフォーム国家」としての国際的な役割を果たし続けようとする可能性が高い。こうした中で新興超大国として台頭してきた中国は、軍事力の急速な拡大により周辺諸国に脅威を与えつつもSCO(上海協力機構)やAIIB(アジアインフラ投資銀行)のようなプラットフォームの構築を通じて、米国と競争し始めている。

 つまり21世紀は、「覇権国」ではなく安全保障や経済協力の国際的プラットフォームの提供を主導する「プラットフォーム国家」を目指す競争が国際関係の中核になる。日本はこれまでの軍事同盟と海外経済協力体制を一段と強化することで、米国のプラットフォーム国家化を本格的に支援する戦略を今後も採るべきだろう。そう考えると国家戦略を表現する言葉としては「集団的自衛」よりは、「集団的プラットフォーム構築」の方がより適切である。

 産業化については、20世紀後半以降、情報通信技術(ICT)が主導する第3次産業革命とも言える急速な技術革新(デジタル化)が電子的なコミュニケーションや商取引の分野で進み、今日では、「クラウド」「モバイル・インターネット」「ビッグデータ」が、政府や企業はもちろん、人々の日常生活にとって不可欠なインフラとなった。これに伴い、20世紀のビッグ企業とは本質的に異質である超巨大(ビガー)なプラットフォーム企業が誕生している。超巨大(ビガー)企業は、コンピューターのOSを提供するマイクロソフトやアップル、情報提供のグーグル、商取引のアマゾンなど多岐にわたる。誰もが「産業プラットフォーム」のユーザになり、提供されるサービスを使い起業する、いわば、プラットフォームを使った「起業機会の普遍化」がかつてない規模と速度で進行し始めたというのが、21世紀の新しい現実なのである。

 この第3次産業革命は、もの処理の領域にまで広がり始めている。21世紀前半は、3Dプリンターに代表されるデジタル工作機械を使ったもの作り(ファブリケーション)と、もののインターネット(IoT)が普及する時代になる。そして、この流れはもの作りにとどまらず社会的な問題解決やサービスのさまざまな分野-とりわけ、教育や医療・介護に個別に解答を与えようとする「ソーシャル・パーソナル・サービス」-といった制度処理の領域にまで拡がっていく。

 日本にも、かつてのiモードのNTTや、今日の電子商取引の楽天に代表されるような、日本型プラットフォーム企業が生まれている。日本型産業プラットフォームは、当面は日本にユニークなものだとしても、グローバルに普及しうる普遍性を持っているという指摘もある(尾原和啓)。日本は海外発のプラットフォーム企業に人材や資本を送り込む努力と同時に、自前の「産業プラットフォーム」の維持と発展にいっそうの努力を惜しんではならない。

 プラットフォーム化の新しい展開は、「ソーシャル化」と総称すべき人々の意識・価値観やライフスタイルの変化にも見られる。すなわち新しい「文化子(ミーム)」の形成と普及がそれである。これが「対抗文化(カウンターカルチャー)」として顕著な形をとって現れたのは1960年代のカリフォルニアだった。その中核となった意識は、宇宙と社会的なネットワークとへのつながりを各人が自覚し、愛と平和と自由を希求しつつ「知」の無限の追求を志向するものであった。それは「強さ」や「豊さ」よりは「賢さ」に大きな価値を置き、その実現のために説得と誘導、コラボレーションとシェアを重視した。

 この新しい意識とそれが生みだした新しいライフスタイルは、1960年代の終わりから70年代初めにかけて、世界的に大きな盛り上がりをみせた。その後いったん退潮したが、決して死に絶えはせず、21世紀に入って「ギーク」や「ヒップスター」、さらには「ヤッキーズ Yuccies=Young Creative Class」の文化として再生・拡大している。こうした新しい文化の持ち主たちが社会的につながる場がソーシャルネットワークであり、そのプラットフォームの提供者として21世紀に台頭したのが、フェイスブックやツイッターなどのソーシャル・プラットフォーム企業である。

図 「ビッグの20世紀」から「プラットフォーム化の21世紀」、そして「新超知能文明」へ

 これらの3つの新しい波が今後さらに拡大・定着していくならば、「ビッグの20世紀」に続くのは、負の遺産を克服した「成熟と定着の21世紀」、あるいは「ほどほどの平和と繁栄が実現される21世紀」だという楽観的な見通しがたてられそうである。21世紀の新しさは、プラットフォームのよさが見直され、意図的な構築が図られるようになり、20世紀に活躍した主役の有り様を超巨大(ビガー)と多数の小規模な主体との、あるいは小規模な主体間同士の共働に変えようとしている点にある。M・リドレーのように、「太陽のように明るい21世紀」の到来を告げる声もある。16世紀後半から始まった西欧主導型の近代化は、こうして有終の美を飾ることになるのだろうか。

「超知能化」が生みだす新文明

 ところが、どうやらそれどころではなさそうである。物理学者のD・ドイッチュは、知の増殖過程が近年爆発的に加速し、終わりのない「無限の始まり」が起こったと言う。それを示す一例として、「ディープ・ ラーニング」に見られるような、「人工知能(AI)」技術による突破がある。コンピューターが自ら学習する能力を身につけ、人間の助力なしに「概念」を生成し、それをリアルな世界の中に実現する手段を持つとすれば、そう遠くない将来、機械は人知に匹敵する知能を備える。「ムーアの法則」を超える速度で性能の改善が進み、人間の知能の数万倍、数百万倍もの「超知能(Super intelligence)」が今世紀中に出現する可能性が高い。これが、R・カーツワイルらの言う「シンギュラリティ(技術進歩の特異点)*」である。

 このようなソーシャル化に端を発した情報化の大変化を16世紀後半以来の近代化の枠組みで理解するのは難しい。むしろ近代文明を超える新文明が誕生しつつあると見るべきである。楽観的に考えれば、超知能が生みだす新文明は、未来の人類にとって理想的な生活環境となるだろう。

新文明の「事前適応」としての情報化

 近代が「有終の美」を飾るのか、「無限の始まり」が起きるのか、現時点では見通すことは困難である。少なくとも、次のことは言えそうである。近代化の全過程の中心的な担い手となってきた「国境を持つ国家」は、「主権国家」から「国民国家」に進化する中で、よしんば想像上の存在にすぎなかったとしても、前近代の「家族」や「村落」に代わる個々人の帰属と忠誠の対象となる最高の「共同体」として機能してきた。だが今や国家という共同体だけでなく、人々の「国民としてのアィデンティティ」までもが、危殆に瀕している。人々は今後、心と生活のよりどころをどこに求めていけばよいのだろうか。

 そればかりではない。機械が主役となる「第2の経済(B・アーサー)」が産業社会の中で人間の「職」をほとんど奪ってしまう時、これまで「勤労」に付与されてきた高い価値は、どのように見直されるべきであろうか。人間が機械に養われて生活するようになった時、あるいはまた脳を含む人体のほとんどの部分が機械に置き換えられた時に、人間の尊厳や生の意味はどうなるのだろうか。

 これらの人類史上最大のリスクにわれわれはどう備えるべきか。20世紀後半以降に始まったソーシャル化に大きな希望を見出すことができる。ソーシャル化は、近代の「成熟」と呼ぶにふさわしい文化変容であり、同時期に始まった国民国家のグローバル化や産業のデジタル化との親和性は高い。それと同時に、先述のソーシャル化の支柱となる新しい意識や価値観は、近代文化としてだけでなく、超近代文化の編成原理としても解釈しうる二面性を持つ。

 ソーシャル化、そして情報化は期せずして、近代文明を乗り越えて進む勢いをみせ始めた21世紀の新しい文明進化を、人類が理解し、受容し、推進することを可能にするための、「事前適応」の文化的な枠組みを担うのではないだろうか。ソーシャル化や情報化を積極的に受け止め、21世紀のプラットフォームの構築のみならず、それをもとにした新文明の構築を成功させたい。

公文俊平(くもん しゅんぺい)

多摩大学情報社会学研究所所長。元東京大学教授。専門は社会システム論、国際関係論。

引用を行う際には、以下を参考に出典の明記をお願いいたします。
(出典)公文俊平(2015)「プラットフォーム化の21世紀と新文明への兆し」NIRAオピニオンペーパーNo.17

参考文献


尾原和啓 (2015)『ザ・プラットフォーム―IT企業はなぜ世界を変えるのか?』NHK出版.
Arthur, W. Brian (2011) “The second economy,” McKinsey Quarterly.
Deutsch, David (2012) “The Beginning of Infinity: Explanations that Transform the World,” Penguin Books. (熊谷玲美・田沢恭子・松井信彦 訳(2013)『無限の始まり:ひとはなぜ限りない可能性をもつのか』インターシフト.)
Kurzweil, Ray (2005) “The singularity is near : when humans transcend biology,” Viking(井上健・小野木明恵・野中香方子・福田実 訳(2007)『ポスト・ヒューマン誕生 コンピューターが人類の知性を超えるとき』 日本放送出版協会.』)
Mele, Nicco (2013) “The end of big : how the Internet makes David the new Goliath,” St. Martin's Press. (遠藤真美 訳(2014)『ビッグの終焉: ラディカルコネクティビティがもたらす未来社会』東洋経済新報社.)
Ridley, Matt (2010) “The rational optimist : how prosperity evolves,” Harper. (大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之 訳(2010)『繁栄―明日を切り拓くための人類10万年史 上・下』早川書房.)

脚注
* 人知を圧倒的に凌駕する知能を持つ機械が出現する技術的特異点

ⓒ公益財団法人NIRA総合研究開発機構

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