English version NIRAオピニオンNo.6 2012.01.18 なぜTPPなのか国際通商システムの視点から考える この記事は分で読めます シェア Tweet 伊藤元重 総合研究開発機構(NIRA)理事長 概要 TPPへの参加を巡って国論を二分する論争が行われたが、正確な情報や分析に基づいた本質的な議論が行われたとは言い難い。TPPなどの地域経済連携はWTO体制を補完し、より深い経済統合の実現を目指すものであり、日本の成長戦略の中核となるものである。本稿では、国際通商システムの視点から「なぜTPPなのか」を解説し、日本がTPPに背を向ける選択はあり得ないことを論じる。 PDFで読む English(PDF) INDEX 21世紀型の通商交渉はどんな姿になるのか TPPが出てきた背景はなにか TPPへの参加意欲は日中韓の経済連携を促す 通商交渉における「連鎖反応」 日本がTPPに背を向ける選択はあり得ない 日本を開かれた社会にするために 21世紀型の通商交渉はどんな姿になるのか 20世紀の後半の50年、世界経済は貿易自由化の推進によって大きく成長した。その中心にあったのが、GATT(関税及び貿易に関する一般協定)とそれを受け継いだWTO(世界貿易機関)である。 WTOは優れた制度である。世界の多くの国を取り込んだ多国間(マルチ)の仕組みであることがこの制度の強みである。すべてのメンバー国に無差別の対応を求める最恵国待遇(MFN)原則は、世界全体に自由化交渉の利益を広げる上で大きな役割を果たした。WTOの制度の下で、先進工業国の関税率は非常に低い水準に下がった。新興国も積極的に自国市場を開くことによって、経済成長を実現しつつある。 しかし、21世紀に入り、WTOの機能の限界が顕著になってきた。先進国と新興国の意見が対立して交渉が進まないドーハラウンドはその象徴である。より多くの国が参加して、より踏み込んだ自由化を進めようとすれば、交渉は困難になるのは避けられない。 もちろん、WTOの重要性が失われたわけではない。WTOのルールによって、各国が手前勝手な通商政策を行えないようになっているからだ。安易に関税率を上げたり、違法性のある手法で貿易を制限することは、WTOのルールで禁じられている。多くの国はこのルールを尊重している。また、2国間で貿易問題の紛争が生じたとき、WTOはその紛争の調停役を果たしている。この紛争調停機能はますます重要になっているように思われる。 日本がWTOを支えていくべきであることは言うまでもない。難しい状況に陥っているドーハラウンドについても、なんとか合意に到達する努力を続けていかなければいけない。ただ、WTOだけに今後の世界の通商システムの命運を委ねることができないことは明らかだ。WTOを補完する何らかのメカニズムが求められている。 20年ほど前から、世界の多くの地域で自由貿易協定(FTA)や経済連携協定(EPA)が次々に締結されてきたのは、こうした変化を背景にしたものであった(図表1)。経済関係の深い近隣諸国と貿易自由化を迅速に進めることができることがその利点である。また、関税撤廃という国境措置の自由化だけでなく、より踏み込んだ自由化や国内制度の調整にまで交渉を広げることで、「より深い統合」(deeper integration)を実現することが期待された。少し乱暴な整理ではあるが、WTOが多国間を取り込んだ広く薄い自由化を達成する上で優れた制度であるとすれば、FTA・EPAは特定の国や地域に限定した狭く深い自由化を実現していく上で優れているのだ。 21世紀に入り、各国は相互に踏み込んだ自由化を進めていくことで、より深い統合を実現することを迫られている。そして地域経済連携を突破口にして、それをWTOに広げていく。この2つのアプローチの補完性を最大限に活用していくことが、21世紀型の自由化交渉となるだろう。 図表1 世界のFTA・EPAの発効件数 1990年代以降発効件数が急速に拡大 (注)2011年6月1日現在。(出所)JETRO『世界貿易投資報告』(2011年版)を基に作成(原資料はWTOホームページ)。 TPPが出てきた背景はなにか 地域経済連携を進めていくと、特定の国や地域の間でだけ連携が高まり、ブロック経済化するという懸念を指摘する人がいる。しかし、当面のところ、その心配はないようだ。1930年代の世界大恐慌の時代に起きたブロック経済化は、米国、英国グループ、フランスグループなど、特定の国や地域が自分たちの周りに高い関税障壁を設け、相互に排他的な経済圏を設けたものである。 現在、世界のあちこちで進展している地域経済連携の流れが、こうしたブロック経済化とはまったく異なるものであることは明らかだ。WTOの下で、各国の関税は低くおさえられ、1930年代のように特定の地域に対する関税が大幅に引き上げられることはない。また、各国・地域の間で200近くのFTA・EPAが締結され、多くの国が重なり合う形で地域経済連携が進んでいる。地域が分断されるブロック経済とはなっていないのだ。 コロンビア大学のバグワッティ教授の表現を借りれば、地域経済連携が世界全体の自由化の障害となる「躓き石」(stumbling block)ではなく、グローバルな自由化につながっていく「積み石」(building block)となることが重要である。これまでの所、世界のあちこちで進展している地域経済連携は積み石となっているようである。 こうした中で注目すべきなのは、地域経済連携が2国間の協定から、より多くの国を取り込む多国間の協定になりつつあることだ(図表2)。アジア太平洋地域で言えば、ASEANプラス日中韓、あるいはTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)などがまさにそうした動きなのである。どちらもまだ実現していないが、こうした広域的な地域経済連携の動きが出てきたことは重要である。日本の通商戦略もこうした地域の動きを前提としたものでなくてはならない。 TPPに関連して、米国の元高官が「米国がTPPに積極的に取り組んでいることで、米国のアジア太平洋地域へのコミットメントの本気度を理解してほしい」とコメントしたと言われている。米国にとってアジア太平洋地域の重要性はますます増しており、それが米国のTPPへの取り組みとなってあらわれている。米国にとって、中国の存在がアジア太平洋における政治・経済・安全保障戦略の鍵となっていることは言うまでもない。この論考で日本の安全保障にまで踏み込んだ議論はしないが、日本の外交戦略にとってTPPにどう取り組むのかはきわめて重要な問題であるといえる。 図表2 アジア太平洋地域の広域的経済連携構想 地域経済連携は2国間協定から多国間協定へ (注)ASEAN諸国のうち、ミャンマー、カンボジア、ラオスはAPECに加盟していない。(出所)経済産業省資料を基に作成。 TPPへの参加意欲は日中韓の経済連携を促す TPP交渉への参加の是非を問う議論の中に、日本はTPPよりもASEANプラス日中韓の協定を進めていくべきであるという主張があった。今後、日本との貿易が増えていくのは米国ではなく、中国などの近隣国である。米国主導のTPPに参加することで、日中韓の経済連携協定の交渉が進まないのは、日本にとっては不利益となる、というのがその根拠であるようだ。 しかし、TPPか日中韓か、というように、どちらか一方を選択すれば、他方は失われるという見方は、通商政策の現実を見誤っている。日本がTPP交渉に参加表明した後、明らかになったように、日本がTPPへの参加意欲を示したことが、結果的には中国や韓国の日中韓の交渉への意欲を高めているのだ。 日中韓3国は、10年以上に渡って、経済連携協定締結の道を探ってきた。小渕内閣の時代における3国首脳の指示により、2001年より3国のシンクタンク主導で日中韓の経済協力強化や経済連携協定に関する研究プロジェクトがスタートした。日本では、NIRAがその役割を担うことになった。こうしたプロジェクトが続けられたことの意義は大きかったが、残念ながら政府関係者が参加する本格的な研究プロジェクトに進まないまま、10年近い歳月がたってしまった。経済連携交渉に進めない理由が、日中韓それぞれにあったと考えてよいだろう。日本がTPP交渉へ参加意欲を示したことで、こうした流れに大きな変化をもたらす可能性が出てきたのだ(注1)。 通商交渉における「連鎖反応」 いつの時代でもそうだが、通商交渉にはある種の連鎖反応が働く。1980年代後半から90年代半ばにかけて行われたGATTのウルグアイラウンドでは、農業問題について米国と欧州の間で対立が続き、交渉がいたずらに長引いていた。こうした事態を受けて、米国は近隣のカナダやメキシコとNAFTA(北米自由貿易協定)の締結に動いた。いつまでたっても進展のないGATTの交渉に期待せずに、貿易や投資の額が大きい近隣諸国との地域経済連携に転換したのだ。こうした米国の動きが、米国がGATT離れするのではないかという危機感を欧州に抱かせ、結局、欧米は歩み寄り、ウルグアイラウンドの交渉がまとまった。NAFTAの動きがウルグアイラウンドを進展させる、という連鎖反応を起こしたのだ。 日本はTPPもASEANプラス日中韓も、両方進めていけばよいのだ。両方進めていくことにより、その先にアジア太平洋地域における自由貿易圏の構築というさらなる目標が見えてくる。 通商政策は、4つのレベルで同時並行的に進めていくのが現実的なのだ。①WTOのようなマルチの場、②TPPやASEANプラス日中韓、あるいはそれにインドや豪州などが加わったASEANプラス6など広域的経済連携協定の場、③日韓や日EUなどの2国間経済連携協定の場、そして④日本が自主的に自由化を進めていく単独の自由化、以上の4つである。どのレベルでの自由化も重要であり、この4つをうまく使い分けていけばよい。そして4つの動きの間での連鎖反応にも注目すべきである(図表3)。 図表3 4つのレベルの通商政策 同時並行的に進めていくのが現実的 ある通商担当の政府関係者が言っていたが、日本がTPPへの交渉参加に意欲を示したことで、EUの態度が変わってきたという。欧州としても、こうした通商交渉の連鎖反応の流れを読んでいるはずだ。日本とEUの経済連携交渉にはずみがつけばよい。 TPPには、厳しい交渉が待っている。日本から見て理不尽な要求が米国などから出てくる可能性もある。そうした交渉を有利に進めるためにも、日中韓の交渉をカードに使うぐらいのしたたかさが日本の交渉担当者には求められる。これはEUとの交渉についても言えることだ。 日本がTPPに背を向ける選択はあり得ない ところで、TPPの交渉に参加することが日本にとってどのような意味があるのか、という議論とは逆の視点から、つまり、日本がTPPに参加することが、TPPにどのような影響をもたらすのかという視点からも考察する必要がある。 言うまでもないことだが、日本のような大国が参加するかどうかは、TPPの性格を大きく変えることになる。TPPがアジア太平洋地域の地域経済連携の翼を広げる大きな原動力となるからだ。米国が圧倒的なシェアを占める連携ではなく、そこに日本のような大国が参加することで、アジア太平洋全域に幅を広げた地域経済連携につながる可能性が出てきたのだ。日本が交渉参加を表明してから、カナダやメキシコも参加への意欲を表明した。今後、さらに交渉参加に意欲を示す国が増えてくる可能性もある。 TPPもASEANプラス日中韓も、アジア太平洋全域での地域経済連携というより大きな枠組みへのプロセスにしかすぎない。TPPという枠組みが成功するかどうかは不確定であるが、その背景にはアジア太平洋地域におけるより包括的な経済連携の枠組み構築に向けた大きな流れがある。日本がそうした動きから自らを遠ざける理由はまったくない。より積極的にそうした流れに参加すべきであり、日本がTPPに背を向けるという選択は有り得ないはずだ。 日本を開かれた社会にするために TPPの参加を巡って、農業関係者や一部の医療関係者が反対の声を挙げたのは、TPPが日本の旧来の制度を変える可能性があることを危惧しているからだろう。市場開放については、どの時代でもどの国でもそれに反対する人がいる。意見の対立が起きるのは避けられないことである。大切なことは農業問題や医療問題について、正しい情報と分析に基づいて議論を積み重ねていくことだ。 TPPを巡る農業問題に関する論議で残念だったのは、正確な情報や分析に基づかない感情的な議論が先行してしまったことだ。NIRAの対談シリーズ(注2)の中で生源寺眞一名古屋大学大学院教授が指摘しているように、海外からのコメの輸入において最大の脅威は中国である。TPPの参加国である米国や豪州のコメの輸出能力には、水資源や品質の問題で制約がある。 農林水産省が出しているコメを輸入自由化した場合の試算(注3)は、TPP参加反対論者の重要な論拠となっていた。この試算の数字は中国などからも大量の安価なコメが入ってくる可能性を想定して策定されている。ところが、農業関係者は一方でこの数字をかざしながら、他方でTPPではなく日中韓の経済連携を目指すべきであると主張している。もしコメの問題が重要であるなら、中国との経済連携こそ警戒すべきであるのに、そうした数字に基づいた議論はなされなかったのだ。 TPPは、農業や医療を破壊するのではなく、国民の利益に合致した強い農業や医療を構築するための手段として考えるべきだ。多くの国民の目にも明らかなように、これまでの農業や医療の姿を維持しただけでは、将来に明るい展望を描くことはできない。バブル崩壊から20年、日本は変化を恐れ、改革を避けてきた。それが閉塞感の増した現在の状況につながっている。市場開放を前提としながら、より好ましい姿に農業や医療を再構築していくしか、日本の辿れる道はないのだ。 NIRAでは、これまでも食料や医療の問題について様々な観点から研究プロジェクトを行い、政策提言をしてきた。これからも、こうした作業を続けていきたいと考えている。食料や医療の問題は、すべての国民にとってきわめて重要な問題である。だからこそ、一部の専門家だけに論議を委ねないで、国民の多くが納得できる透明性の高い議論が必要なのだ。 TPPをきっかけにして起きた食料や医療に関する論議は、こうした国民レベルでの論議に高めていく絶好の機会を作ってくれた。資源のない日本が繁栄するためには、海外に対して開かれた国にしていかなくてはいけない。21世紀のグローバル経済の現実を正しく理解したうえで、日本国内の制度を強化していく時期に来ているのだ。 伊藤元重(いとう もとしげ)総合研究開発機構(NIRA)理事長。東京大学大学院経済学研究科教授。東京大学経済学部卒。ロチェスター大学大学院経済学博士号(Ph.D.)。専攻は国際経済学、流通論。93年東京大学経済学部教授を経て、96年より同大学大学院経済学研究科教授、2006年2月より総合研究開発機構(NIRA)理事長。 引用を行う際には、以下を参考に出典の明記をお願いいたします。伊藤元重(2012)「なぜTPPなのかー国際通商システムの視点から考えるー」NIRAオピニオンペーパーNo.6 脚注 1 日中韓の経済連携協定については、2010年5月より産学官共同研究の場で引き続き検討されたが、日本のTPP交渉参加問題が浮上した後は各国の態度がにわかに積極化し、2011年12月に早期交渉開始を求める共同声明が公表された。2012年の日中韓首脳会議での交渉入りの合意が取り沙汰されている。 1 日中韓の経済連携協定については、2010年5月より産学官共同研究の場で引き続き検討されたが、日本のTPP交渉参加問題が浮上した後は各国の態度がにわかに積極化し、2011年12月に早期交渉開始を求める共同声明が公表された。2012年の日中韓首脳会議での交渉入りの合意が取り沙汰されている。 2 生源寺眞一・伊藤元重(2012)「TPP 問題と日本の農業」NIRA対談シリーズNo.68 2 生源寺眞一・伊藤元重(2012)「TPP 問題と日本の農業」NIRA対談シリーズNo.68 3 農林水産省ホームページ『包括的経済連携に関する資料(農林水産省の試算)』 3 農林水産省ホームページ『包括的経済連携に関する資料(農林水産省の試算)』 シェア Tweet ⓒ公益財団法人NIRA総合研究開発機構※本誌に関するご感想・ご意見をお寄せください。E-mail:info@nira.or.jp 研究の成果一覧へ